七難九厄(しちなんくやく)
→ 七と九の年まわりは、男女とも災厄にあいがちだという俗信。
生きている以上、困難に出会うことも多いし、困難に出会った際には少なからず苦しみを覚えるものだ。
それはある意味で人間の性といってもよく、古くから言葉として残っていたりする。
その中の1つが、今回のテーマである七難九厄という四字熟語だ。
七難九厄(しちなんくやく)ってなぁに?
七難九厄は、難と厄を合わせた言葉で、災難や苦難を表現する言葉だ。
具体的には、7つの難と9つの厄を指しており、下記のとおりだ。
七難
- 天難:自然災害や災禍など、人間の力ではどうすることもできない天災の苦難。
- 水難:洪水や海難、船が転覆するなどの、水にまつわる災難。
- 火難:火事や火災、火山の噴火など、火にまつわる災難。
- 風難:台風や竜巻、暴風雨など、風にまつわる災難。
- 盗難:盗みや強盗など、人為的な被害や犯罪の苦難。
- 害難:地震や崩落、事故など、人間の活動によって引き起こされる被害の苦難。
- 人難:人間関係のトラブルや孤独感、社会不適応など、人間関係にまつわる苦難。
九厄
- 病厄:病気や病弱に苦しむこと。
- 災厄:自然災害や社会的な災害によって苦しむこと。
- 貧厄:貧困や生活苦に苦しむこと。
- 交厄:人間関係のトラブルや社交不適応によって苦しむこと。
- 刑厄:犯罪や罪に問われることによって苦しむこと。
- 縁厄:家庭や親族の問題によって苦しむこと。
- 飢厄:飢餓や飢えに苦しむこと。
- 疫厄:伝染病や疫病によって苦しむこと。
- 死厄:死や死に至る苦しみに苦しむこと。
くり返しになるが、これらの災難や苦難は、人間の生きる上で避けられないものだという教えだ。
そして、これらの苦しみに直面することによって、人間は自己研鑽を深め、成長することができるとされている。
九厄十難(きゅうやくじゅうなん)ってなぁに?
七難九厄(しちなんくやく)と同様の四字熟語に、九厄十難(きゅうやくじゅうなん)というものもある。
人生において避けられない苦難や災難のことを指し、特に中国の伝統的な思想や信仰において重要な概念とされている言葉だ。
九厄
まず、九厄とは、人生における9つの困難や苦難を指しており、具体的には下記が挙げられる。
- 出生の苦しみ
- 成長の苦しみ
- 恋愛や結婚の苦しみ
- 子育ての苦しみ
- 仕事やキャリアの苦しみ
- 疾病や怪我の苦しみ
- 財産や金銭の苦しみ
- 老いや死の苦しみ
- 内心の苦しみ
十難
そして、十難の指すものは下記のとおりだ。
- 天災、自然災害
- 疫病、病気
- 戦争、紛争
- 経済的な困難
- 家族や友人との関係の問題
- 犯罪、犯罪被害
- 損失、詐欺、盗難
- 無業、無職、生活苦
- 精神的な病気やストレス
- その他の社会的な問題
これらの苦難や災難は、人生において避けることができないものであり、人間の生きる道を歩む上で、乗り越えなければならないものだ。
そして、これらの困難や災難を乗り越えることで、人は強く、賢く、謙虚な人生を送ることができるとされている。
七難九厄と九厄十難という2つの四字熟語を比べてみても、重なる部分が少なからずあることは理解できるだろう。
つまり、古から人が抱えてきた困難や災難は類似しているということだ。
それは現代にも通ずるものがあることは、多くの人の共通理解だろう。
苦しみからの開放
いつの時代も困難や災難に出会う度に苦しみを抱えてきた人だが、そんな苦しみから開放されるために様々な方法がある。
自己肯定感を高める
自己肯定感を高めることによって、自分自身を愛し、自分自身を受け入れることができる。
これによって、苦しみを感じることが少なくなる。
肯定的な思考を持つ
自分の思考を肯定的な方向に向けることができれば、ストレスや不安を軽減することができる。
例えば、自分にできることを見つけることや、感謝の気持ちを持つことなどが効果的だ。
良好な生活習慣を維持する
適度な運動や健康的な食生活、十分な睡眠をとることで、ストレスや不安を軽減することができる。
これによって、苦しみを感じることが減ることがある。
ソーシャルサポートを求める
友人や家族などのソーシャルサポートを求めることで、苦しみを共有することができる。
共感や励ましの言葉をもらうことで、苦しみを感じることが少なくなる。
マインドフルネス瞑想
マインドフルネス瞑想は、現在に集中し、自分の感情や思考に注意を払い、心を落ち着かせる練習のことだ。
この練習によって、ストレスや不安を和らげることができ、苦しみを軽減することができる。
困難や災難に対峙した際の最適解
とまあ、ごくごく一般的なことを相棒のChatGPTを使いながら、当たり障りなく書いてきた。
とてもつまらない感じで続くので、このあたりからバトンタッチすることにしよう。
困難や災難に対峙したときに、多くの人はそれを乗り越えようとする。
予め言っておくが、この考え方や行動を否定するつもりは毛頭ない。
けれども、どうしても乗り越えられない困難や災難に対峙したときに、それも全力で真正面から捉える必要があるのだろうか。
そんなときに、私は冷静に一度考えるために立ち止まって欲しいのである。
困難や災難を乗り越える度に人は強くなるということも否定するつもりはない。
ただ、超えられなかったら、その先はどうなるのだろうか。
人生は続くのである。
続く以上は、成長していかなければならないし、超えられなかったことで自信を喪失して次のことができなくなる機会損失も考えるべきだと主張している。
なにが言いたいのかというと、逃げるという選択肢を持つということだ。
どうにもならないと思ったときには、とことん背を向けてカッコ悪くていいから、どこまでも逃げるということをやってもいいと心から思っている。
そうやって、それこそ必死に逃げ切った先で見える景色がある。
くり返すが、逃げるときも必死に逃げ切らなければいけない。
中途半端に逃げていても、そこに新しい景色はない。
前に進むときも後ろに下がるときも、とにかく全力でやり切るというマインドが大切だということだ。
乗り越えられそうにない壁にぶち当たることなど、人生においてはいくらでもある。
自分よりも優秀な人は世の中にごまんといる。
そんな状況でバカ正直に全て全力で真正面からぶつかっていってどうするんだと思ってしまう。
人生において、全勝する必要など全くない。
自分が勝てる場所で圧勝すればいいだけだ。
必死に逃げることと逃げ癖をつけることの決定的な違い
こうやって書くと、逃げることから入ることを許容していると捉える勘違いが少なからず出てくる。
はっきり書いておくが、私はそんなことは一言も主張していない。
常に逃げるという選択肢を残すことは否定しない。
けれども、基本的には本当に最期の最期につかう奥義であって、人生において何度も使うことを推奨しているわけではない。
先に逃げることが頭に浮かんでしまったとして、その物事は上手くいくだろうか。
考えれば簡単なことで、負けることがわかっている勝負など時間の無駄なのでする必要がない。
絶対という言葉にエビデンスはないが、それでも絶対に勝つんだというマインドが根底にあって、まずは全力でやり切る。
それでも上手くいかない困難や災難に出会うことは人生において何度もある。
そんなときは、全力でその場から一旦離れるという意味で逃げ出すという選択肢を持っておくことを推奨している。
大切なことなのでくり返し書いておくが、逃げるときも中途半端に逃げてもダメだ。
もう二度と出会わないというくらいまで、とことん逃げ切らなければ意味がない。
中途半端に残しておくと、どこかであそこでやっておけばというタラレバにすがってしまう。
そのマインドが染み付いてしまうと、次に進むバイタリティが失われてしまう。
それだけは、是が非でも避けなければいけないのである。
まとめ
なにかを始めると上手くいかないことが大半だ。
考えてもいなかった面倒なことに巻き込まれることも多々あるし、それは不変だろう。
七難九厄(しちなんくやく)、九厄十難(きゅうやくじゅうなん)といった四字熟語が現代にも残って語り継がれていること、その意味が理解できることが全てを物語っている。
それでも、なにかをやりたくなるのはなぜか。
やはり、人間というのは不安や恐怖に引っ張られると身動きができなくなるという性質を持っている一方で、それ以上に冒険したいという気持ちが勝ってしまうからなのだと思う。
超絶シンプルに言うならば、ワクワクしたいのだ。
ワクワクしたいし、人を巻き込んでワクワクさせたいのなら、本気の熱量がなければ伝わるはずがないだろう。
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