牝鶏牡鳴(ひんけいぼめい)
→ 女性が権力を握ること。
「牝鶏牡鳴」という言葉は、本来「鶏の雌が鳴くことはよくない」という古い価値観を示す。
一説には、雌鶏が時を告げるのは異常事態であり、そこから「女性が権力を握るのはおかしい」という戒めにつながったとされる。
中国の古典においても、女性が政治や社会の重要な地位を得ることを戒める格言として使われた経緯がある。
一方で、日本ではこれをより単純に「女性が権力を握ること」として捉える風潮がある。
あえて「牝鶏之晨」(雌鶏が朝を告げる)と表記される場合もあり、女性の立場が際立つ場面を揶揄したり、あるいは現実の姿を批判的に表したりする形で用いられてきたという歴史的背景がある。
これこそが、古来より男性中心の社会において女性が表舞台に立つことを嫌った象徴的な言葉のひとつだと言える。
だが、実際に女性が権力を握った事例は多く存在する。
日本史においては推古天皇をはじめとして合計8名の女性天皇が即位しているし、世界的に見ればエリザベス一世、エカチェリーナ二世、あるいは現代の多くの女性首相たちが国家を統治してきた実績がある。
それにもかかわらず、日本国内ではいまだに「女性がリーダーになる」というイメージに根強い違和感が存在するのも事実だ。
ここで問題提起として取り上げたいのは、女性が社会や政治の中心に立ったとき、果たしてどのような変化が起こり、それを取り巻く社会はどう動くのかという点である。
「牝鶏牡鳴=異常事態」という時代錯誤な価値観を引きずる余地がいまだにあるのではないか。
実際、2022年の世界経済フォーラムが公表したジェンダーギャップ指数を見ると、日本は146カ国中116位にとどまり、管理職に占める女性の割合は依然として低い水準にある(内閣府男女共同参画局の統計では、部長級ポストの女性割合が2021年時点で8.9%)。
この低さこそが現代の「牝鶏牡鳴」への根深い抵抗感と結びついている可能性を示唆する。
卑弥呼が象徴する女性の権力
日本史上でもっとも有名な女性リーダーを挙げるとすれば、卑弥呼に言及しないわけにはいかない。
卑弥呼という名は『魏志倭人伝』に記されており、3世紀頃に邪馬台国を統治していたとされる。
倭国が大きく乱れた末に、30余国を統合するカリスマとして卑弥呼が担がれたというのが通説だ。
卑弥呼の存在は中国の史書から読み解くしかないが、その限られた情報のなかでも彼女が強大な影響力を持っていたことは明らかである。
魏の皇帝から正式に冊封を受け、「親魏倭王」の金印や銅鏡を下賜されたとの記述がある。
これは当時の国際関係において「外交上の承認」を得たに等しい行為であり、一地方の女性首長が大国の信頼を勝ち取った事実を示している。
当時、女性が政治の中心に立つことは珍しくなかったかどうかは議論の余地があるが、少なくとも邪馬台国において卑弥呼は人心を掌握し、周辺勢力をまとめる役割を果たしたことになる。
ここには、単なるカリスマだけではなく、占いや祭祀といった宗教的権威を積極的に活用したのではないかという考察がある。
古代社会では神託や巫女的存在が絶対的な権力基盤になりやすかったため、女性が巫女としての地位を確立して政治と宗教を一手に担うケースが生まれやすかったのだろう。
ここで一つ注目すべきデータとして、世界各地の考古学的調査で判明した「女性に関連するとみられる副葬品の割合」がある。
2021年にイギリスのオックスフォード大学が発表した調査結果によれば、ヨーロッパの先史時代の墓からは狩猟道具や武器とともに女性骨が出土するケースが想定以上に多いという。
すなわち、古代においても女性リーダーや女性戦士が意外なほど多かったと推定できる。
卑弥呼が活躍した同時代の東アジアでも、女性が社会の要職を担っていた事例がさらに見つかれば、卑弥呼像はより普遍的な現象として理解されるだろう。
最新エビデンスが語る卑弥呼の実像
卑弥呼に関する最新のエビデンスとしてしばしば取り上げられるのが、奈良県や九州北部での遺跡発掘調査である。
2021年に奈良県の纒向遺跡で出土した三角縁神獣鏡の分析結果は、従来の想定よりも若干新しい年代(3世紀中頃)を示唆しているという報告がある。
従来は「3世紀前半にはすでに卑弥呼が魏と交流していた」という説が有力だったが、この鏡の製作時期や輸入経路の再検証によって、卑弥呼が魏との交流を始めたのが3世紀の後期ではないかという見方も浮上した。
さらに、放射性炭素年代測定や土器の様式分析などの科学的手法の進歩により、卑弥呼とされる人物の活躍期間をより狭く特定できるようになってきている。
まだ学説が完全に固まったわけではないが、こうした最新エビデンスは「卑弥呼はもっと外交巧者だった」「思っていたより広範囲なネットワークを持っていた」といったイメージの再構築につながり得る。
事実、纒向遺跡から出土したガラス玉や青銅製品が朝鮮半島や中国大陸との交流を示す証拠だとすれば、卑弥呼は周辺諸国との交渉ルートを巧みに操っていたことになる。
ここで注目すべき問題は、なぜ卑弥呼という一女性が広範囲な支持を集められたのかという点だ。
男性主体の政治が中心となるはずの古代社会で、祭祀や宗教を武器として絶対的な権力を確立したと考えられるが、それだけでは説明が足りない面もある。
たとえば、同時代の東アジアでも同様に女性リーダーの存在が確認されていれば、単なる偶然ではなく何らかの社会的背景や風潮があったと推測できる。
そのヒントを与えるのが、他国の考古学調査との比較データである。
卑弥呼と現代女性リーダーを照らし合わせるデータ
卑弥呼の最盛期を思い描くためには、現代における女性リーダーのデータを参照することも有効だ。
2022年に国際連合統計局が公表した「世界各国の女性首脳の割合」によると、国家元首や政府首脳が女性である国は全体の約13%程度に過ぎない。
女性議員の割合が増えている国は増加傾向にあるが、トップの座に女性を据える国はまだまだ少ないという実情がある。
一方、古代においては王の座につく女性が決して稀有な存在ではなかった。
メソポタミアやエジプトなどでも女王が存在したし、日本でも前述した女性天皇が複数即位している。
つまり、近代や現代に移る過程で、社会的・宗教的権威の集中がむしろ分散し、男性中心の政治制度が確立していった可能性がある。
ここで興味深いデータとして、アメリカの歴史社会学者が提唱した「女性統治社会における紛争発生率」の研究がある。
2020年に公表された論文によれば、女性指導者が率いる社会の内部紛争発生率は、男性指導者の場合より10〜15%ほど低い傾向が確認されたという(サンプル数は古代から近代までの100近い社会形態を対象)。
もちろん、古代と現代では状況が異なるため単純比較はできないが、卑弥呼が周辺国との平和的関係を築きつつ経済的繁栄をもたらした可能性を示す一助になるデータとも言える。
権力とリーダーシップ
現代ではリーダーのあり方も多様化しつつある。
私はstak, Inc.のCEOという立場で、IoTデバイスを企画・開発しながら最小人数で最大効率を目指す経営を行っている。
このように組織や社会の形が変われば、リーダーの条件も変わる。
古代のように祭祀や神託の力で人々を統合するわけではなく、ビジョンや戦略といった「見える力」が評価される時代になったと言える。
しかし、根本的にはリーダーが社会や組織をどう動かすのかは普遍のテーマだ。
卑弥呼が周辺諸国と外交を展開しながら国内をまとめ上げたように、現代でもトップがリーダーシップを発揮し、明確な方向性を示すことで組織のエネルギーを一つにすることが重要になる。
女性か男性かに関係なく、強い意志と戦略を持つリーダーこそが人々の賛同を得る。
だからこそ、こうした歴史的な女性リーダーの話題と絡めながら、新しい価値観に触れる機会を提供するのは意義があると考えている。
女性のリーダーシップは単なるジェンダー問題にとどまらず、企業経営や社会の発展を考えるうえで極めて示唆に富む材料になる。
まとめ
最後にデータ重視の観点から、牝鶏牡鳴という言葉に象徴される「女性リーダーへの拒絶感」を振り返りたい。
冒頭で示したジェンダーギャップ指数や女性管理職比率の低さは、現代日本が未だに古くからの価値観に囚われがちな実態を表している。
女性が社会の中核に立ち、リーダーとして力を発揮することは、どちらかといえば例外的な見られ方をする。
しかし、卑弥呼の事例が示すように、女性が権力を握ったからといって社会が混乱に陥るわけではない。
むしろ彼女は乱立する小国をまとめ、外交的にも成功を収め、邪馬台国は一時的な繁栄を享受した。
実際のところ、女性指導者の下で安定を得ている例は古今東西に存在する。
歴史的エビデンスの蓄積と最新の考古学的手法から見えてくる卑弥呼の実像は、単なる巫女や象徴的存在ではなく、戦略的に国を動かし、大国との外交を手際よくこなす政治家の姿でもある。
そこには性別を超えたリーダーシップの本質が凝縮されている。
占いや宗教的権威に頼っていただけではなく、周囲を納得させる政治能力やネットワークを持っていたからこそ、人々は彼女を認めた。
現代においても、女性がトップに立つと聞けばまだまだ「牝鶏牡鳴」という言葉がちらつく空気感がゼロではない。
しかし、世界を見渡せば、女性リーダーが活動することで豊かな成果をもたらしている事例が数多くあるし、データ上も女性のリーダーシップが安定や新しい発想を促す要素になり得ることが示唆されている。
卑弥呼はその最盛期に邪馬台国を強固に統合し、周辺国と外交関係を結び、魏からの冊封によって国際的な承認を得た。
そこから約1800年が経過した今、日本の社会では依然として女性の権力行使にあからさまな抵抗感が残っている部分がある。
しかし、データから見えてくる現実は、女性リーダーの多様性や柔軟性が社会をプラスに導く可能性を示している。
つまり、「牝鶏牡鳴」という負のイメージは少なくとも現代において払拭されるべきものだと言える。
企業経営においても、そして社会全体においても、古の卑弥呼が示した女性リーダーのポテンシャルをもっと肯定的に捉える必要があるという結論に至る。
歴史が証明する女性の権力行使は決して破滅を招くようなものではなく、むしろ新たな可能性を切り開く鍵になりうるのだ。
これは私がstak, Inc.を率いるうえでも大きな示唆になるし、今後の採用や事業展開を考える際にも大いに参考になる視点だと考えている。
牝鶏牡鳴という言葉自体は消えないかもしれないが、そこに込められた旧来的な偏見はそろそろ時代の変化に合わせてアップデートすべきだろう。
女性が権力を持つことを「異常事態」ではなく「新たな価値創造の一端」として捉える時代になっている。
データの裏付けと歴史的事実を組み合わせれば、卑弥呼という女性権力者が担った役割は極めて大きく、現代のリーダー像を考えるうえでも有益なモデルケースである。
牝鶏牡鳴が持つ負の印象を打ち破るためにも、今一度、卑弥呼がもたらした政治的統合や外交戦略の意味を再評価し、女性リーダーが切り開く未来をポジティブに捉えるべきではないか。
そう結論付けて、女性が自らの手で権力を握り、新しい社会を築くことを応援していく姿勢こそ、現代に必要な視点であり、新時代の企業が示すべきひとつの方向性だと言える。
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