咫尺天涯(しせきてんがい)
→ 近いところにいながら、その距離がまるで天の果てに感じるように、なかなか会えないこと。
テーマを見て今日は少々違う目線というか、1人の人間として単純に憧れの存在というものについて書いてみようと思う。
というのも、近いところにいながら、その距離がまるで天の果てに感じるように、なかなか会えないことというテーマを見て直感的に存在という概念が頭に浮かんだからである。
私は2023年に42歳になる、初老だ。
そんな初老のオジサンなのだが、それでも私が憧れる存在というものがある。
憧れを抱く自分に対して想うこと
くり返しになるが、42歳というのは客観的に考えても完全に初老のオジサンだ。
普段は年齢や性別に対して、なにも思わないというか、そもそもそんなに意識して過ごすことはない。
けれども、ふとこうやって冷静に自分自身を俯瞰で見たときに、そうかもうそんな歳になるんだなと思ってしまう。
そりゃそうだ。
姪っ子が中学生になり、甥っ子が次々に小学生になり、仲良くさせてもらっているカワイイ子どもたちが次々に誕生日を迎えている。
となると、当然私自身も歳を重ねているわけであって、自分も同じ数だけ歳を重ねているということになる。
おそらく、ほとんどの人がこんな感じで歳を重ねているんだろうなと思う。
つまり、自分自身が歳を重ねていることを意識せずに日々を過ごしていて、気付いたときには、あぁ〜、今年でこんな歳になるんだという感じだ。
まあ、このことに関しては特段なにも思わないのだが、歳を重ねても改めて憧れを抱く自分がいることに対しては少々複雑な気持ちになる。
というのも、まだまだこんなにも自分の理想を求めているんだということだ。
それをモチベーションの源泉にしているという見方もできる一方で、いい年をして未だに頑なに理想を追いかけている自分はどうなんだろうと思ってしまうのである。
憧れを持つ存在
では、少々恥ずかしい気持ちもあるが、私が憧れる存在というのはどういった存在なのかについて書いていこう。
それは、今回のテーマからの派生系だと勝手に思っている。
何度もくり返しになるが、近いところにいながら、その距離がまるで天の果てに感じるように、なかなか会えないことというところからだ。
わかりやすく、一緒に仕事をしている関係をイメージしてもらいたい。
一緒に仕事をするということは少なからず近くにいなければ仕事にならない。
となると、当然その人の能力も丸裸になるわけだが、そのときに近づいたと思っても実は全然遠い距離にいたと感じさせる存在でありたいという気持ちだ。
大前提として仕事を一緒にするということは、リスペクトを持ってくれているという部分があるが、そのリスペクトを少しずつ因数分解するはずだ。
要するに、少しでもリスペクトのある憧れの存在に近づきたいという気持ちが芽生えていることがあるというわけだが、本人はそれに向かって近づいていっていると思うわけだ。
そして、だいぶ近づいたなと思ったときに、改めて一緒にかつてないくらいの大きな仕事をしたとしよう。
そのときに、やっぱりまだまだ追いつけていなかったなという挫折というか、まだまだ自分の力は弱く小さな存在だったと、こちらがなにも言わなくても思わせる存在だ。
そういう人になりたいし、そういう人に出会い続けたいという欲望があるのだと思う。
憧れの存在に出会ったときの感覚
なぜ、私がこの人にはまだまだ勝てないなと思われる存在になりたいのか、もう少し深く考えてみた。
その結果、それは私自身の経験によるものなのだろうという結論に至った。
つまり、この人はスゴいなと思える人に出会い、一緒に仕事をしたとしよう。
まずは、そんな憧れに近い人に少しでも認められたいとシャカリキ仕事を頑張るわけだ。
そして、自分もそれなりに仕事ができるようになったという自信がつき始めたころに、より大きな仕事をやることになった。
もちろん、自信を持って迎え撃つわけだが、上手くいかない。
そんなときに、スッとスゴいなと思っていた人が登場して、サラッと仕事を片付ける。
私はなにもできなかった場面で、シレッと何事もなかったように次へと向かっていく。
そんな場面に出くわした機会がある人には、理解してもらえると思うが、独特の感覚になる。
なぜ自分にはできなかったのかという自分自身への悔しさや劣等感もあるし、それ以上にまだまだその憧れの人に追いつけていなかったんだという事実を目の当たりにするわけだ。
やっぱりその人には敵わないなと諦めるのではなく、絶対に超えてやるというバイタリティは重要になるかもしれないが、私の場合、そっちが強くなる。
それから、そんな経験をする度に行き着く終着駅がある。
それは、自分自身への怒りだ。
なんで、俺にはそれができないんだという怒りだ。
圧倒的な能力差について考える
というのも、歳を重ねていく度に思うのが、人にはそんなに大きく能力に差があるのだろうかという点について、1つの解を持っているからだ。
結論から言うと、大半の人の能力に差はそんなにないということを述べておきたい。
もちろん、天才タイプの人はかなり少数だが確実に一定数はいる。
そういう人たちとは圧倒的な能力差が生じるので勝てないということは十分にあり得る。
けれども、そういう人たちはごくわずかで、ほとんどの人は凡人だ。
いや、もしかすると凡人以下で、かくいう私もその1人だと思っている。
そんな人たちが頭1つ抜きん出ていこうと思えば、やるべきことは1つしかない。
そう、行動するのみだ。
チャンスだと思ったものに対しては瞬時に飛びつくというノリも大切だし、なによりも場数を踏むことを徹底しなければ凡人は先に進めない。
そんな圧倒的な行動力が重要で、そこにアドリブ力が加わっていくことで結果が出るようになる。
最初は小さな結果だけれども、それが少しずつ自信となって大きくなっていく。
これが能力が形成されるロジックだ。
それを努力や継続と呼んだりするわけだが、兎にも角にも、圧倒的な能力差というものはすぐに出るものではなくて、誰にでも備わるものだということを主張したい。
ただ、例外的に天才という存在がいて、その人たちと自分を比べてはいけないということだ。
年齢を問わず憧れの存在がいること
歳を重ねていくことで様々な経験を積む。
それは同時にその昔に抱いた夢や希望を打ち砕いていくものだという考え方が一般的なのかもしれない。
ただ、現実はそんなに甘くないということを自分に言い聞かせることで、憧れの存在自体がいなくなっている気がする。
というのも、いくつになっても憧れの存在がいることは、実は大切なことなのではないかと思っている。
それを口に出す必要はないと思うし、自分の中で留めておく程度で十分だとは思うが、やはり憧れというか理想を求めることは原動力になる気がしている。
もちろん、その存在は人それぞれでいいと思うが、向上心に繋がるのは間違いないのではないだろうか。
私の場合は自分を小さく感じさせてくれる人がそこに該当するわけだが、それができない自分への怒りとなり、また自分を奮い立たせるきっかけになるというわけだ。
それがなくなったことを考えたときに、私自身はただただ劣化していくような気がするのである。
まとめ
改めて、あなた自身に問いかけて欲しい。
純粋に憧れる存在があなたにはいるだろうか。
極論を言うと、その存在は実在していてもいなくてもいい。
単純に憧れの存在、理想とする存在と呼べる人がいるのかという問いかけだ。
そして、それは小さな憧れや理想で十分だということだ。
あまりにもかけ離れた憧れや理想は自分の隣に置くことは難しい。
けれども、もしかしたらそこなら私も行けると思わせてくれる憧れや理想は、自分自身の人生を充実させてくれるものになると思うのである。
当然、憧れや理想の対象は人それぞれ異なっていて問題なく、多様性とかダイバーシティと呼ばれるようになった。
それは、インターネットの普及によってSNSが最盛期を迎えているといっても過言ではない現代社会が証明しているように思う。
自分自身の人生を充実させるポイントは、年齢や性別を問わず、憧れや理想の存在をつくるという、とてもシンプルなことなのかもしれない。
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