膠漆之交(こうしつのまじわり)
→ 固い絆で結ばれた友情のこと。
恥ずかしながら、私には友だちだと言い切れる人がほとんどいない。
誤解なきように書いておくが、別に人とのコミュニケーションが取れないタイプではないと思う。
それなりに仲良くしている人はいるのだが、友だちというカテゴリかといえば、そうではない気がする。
他の人はどうなのか、このあたりは以前にも気になったことがあるので、書いたことがある。
そして、この記事は毎日書いているブログの中でもアクセスが初速から後伸びも良かった。
つまり、それなりに友だちとか友情に関して興味を持ってくれる人が多いということだろう。
友だちや友情といった人間関係
人生にはトラブルがつきものだ。
いろいろなトラブルがあるけれども、大半のトラブルは人間関係だといっていいだろう。
仕事関係、学校、家族、親族、知人、そして友人といったところだろうか。
特に若いうちというか学生時代は友人関連の悩みも多いような気がする。
小学校は6年間、中学校は3年間、高校は3年間、大学は4年間とトータルしても16年間で、高校や大学へ行かないという選択肢も視野に入れるともっと短い期間になる。
つまり、人生全体からすると少ないという見方もできるのだが、今まさに学生である瞬間はそうは思わない。
ランダムにクラス別にされ、その中で過ごさざるを得ないとなると、人間なので合う合わないが出てきて当然なのである。
その関係がいい方向に進めばいいが、必ずしもそうはならず、とりわけ人生経験が浅いうちは些細なことがきっかけで人間関係が破綻することも往々にしてある。
かくいう私も、そういった経験は幾度もしており、今となってはどれも想い出の一部となっている。
親友と呼べた1人の男
くり返しになるが、私は別にコミュ障ではないと言い切れる。
もちろん万能ではないというか、好き嫌いがハッキリと分かれるタイプだと思うが、むしろしっかりと人間関係を作れる側だと思っている。
学生時代も友人と呼べる人は多い方だったように思う。
そんな中でも特別仲が良かった親友と呼べる男がいた。
彼とは小学校、中学校、高校と一緒だったのだが、仲良くなったのは高校に入ってからだった。
中学校のときに同じクラスになったこともあったが、ほとんど話すこともなかったような2人の仲は高校に入ってから急速に仲良くなった。
そのきっかけは、家が比較的近くだったこともあり、下校はほぼほぼ毎日一緒だったことにある。
高校生が放課後にやることなど限られている。
お金がないのに時間だけはあるというのが実態で、私と彼はよくお寺の一角にある休憩所のようなところで他愛のない話をしていた。
夜空を見上げて、あの星の中にはもう消えている星もあって、その光が時間差で目に見えていたりするって不思議だよねといった宇宙の話で盛り上がっていたこともある。
とまあ、なんとなく知的な感じを出してみたが、異性の話や他の友人たちについての会話の方が圧倒的に多かっただろう。
そんな彼はファッションや音楽が好きで、私も大いに影響を受けた。
高校卒業後は東京のファッションの専門学校に行くことを早々に決めており、仲の良かった私も必然的に東京を目指すきっかけになったのも事実だ。
彼は高校を卒業すると東京へ巣立っていったが、私は現役時代の大学受験に失敗して遅れること1年。
なんとか大学へ滑り込むことができて、念願の東京生活が始まるのである。
憧れた東京という街
私が東京で初めて住んだ場所は、中央線沿いの国分寺というところだ。
大学が八王子方面だったこともあり国分寺を選んだのだが、住むなら京王線沿いだったと東京での生活が始まってから気づいた。
ただ、国分寺に住んだのには理由もあって、先に述べた親友と呼べる男が三鷹に住んでいた。
となると、中央線沿線の方が会いやすいしという単純な理由、また中央線には中央特快という特急があって国分寺駅は中央特快が停車することも選んだ理由の1つだ。
中央特快というのは、中央線の特急のことで、快速(各駅停車)だと国分寺から新宿まで11駅、約35分という電車の移動時間になるのが、3駅、約20分と圧倒的に短縮されるのだ。
憧れの東京といっても、知っているエリアの名前は、新宿とか渋谷くらいだ。
東京に行ったのであれば、新宿に行く機会も多いだろうということで選んだ国分寺で、私の東京生活は始まった。
結果、1年目は親友だった男と新宿に行く機会も多く、三鷹や吉祥寺エリアで遊ぶことも多かった。
ところが、大学へのアクセスが中途半端だったこともあり、1年後には京王線沿いに引っ越すことになる。
そこからは、東京といっても八王子市という都心からは外れたエリアで大学生活を送るようになるのだが、車を手に入れたこともあり、移動は車が中心となった。
社会人になってから住んだ街
そんな学生生活も終わり、社会人になると八王子市方面から都心に通うことはなかなか厳しかったこともあり、車も手放し都心へ移ることにした。
とはいえ、都心部は八王子市エリアの賃料に比べると圧倒的に高い。
そんな中で、なんとか住めそうな場所を探すのが東京あるあるだ。
今の時代はシェアハウスといった概念が浸透しており、共同生活をすることに抵抗がない人も増えているが、当時はそんな設備も少ない。
ただ、親友だった男と一緒に住めば賃料も折半でいいし、より住みたい場所、物件で生活ができるということで、一緒に住むことにした。
選んだ場所は、憧れでもあった三軒茶屋だ。
といっても、三軒茶屋駅の周辺ではなく少し離れた場所だった。
それなりに広くて快適な物件にそれなりの賃料で住めたことは楽しかったし、いい経験になった。
私は社会人生活が始まり、親友だった男はファッションの専門学校を出た後は、スタイリストとして活躍していた。
三軒茶屋の外れの一角に、そんな対極にいる2人の若者が同居をしていたのである。
少しずつ生まれた壁
お互い多忙で働く時間も不規則で、なかなか決まった時間に会うことがなかったが、それがまた良かったのかもしれない。
ずっとお互い家にいると、プライベートな時間も少なからず減ってしまうので、絶妙な距離感が良かったように思う。
たまに、仕事終わりのタイミングや束の間の休日が重なったときには、三軒茶屋にくり出すこともあったし、充実していた日々が続いた。
同居が解消されたのは、私が2011年4月から本格的に上海に向かうことが決まったことにある。
20代のうちに海外で仕事をするという経験を積みたいと思っていた私にはとてもいい話で即決した。
親友だった彼は、そのまま三軒茶屋駅により近い新築のいいマンションに引っ越すことを決め、引っ越しも手伝った。
ただ、この頃にはお互いに距離感が生まれていたのも事実だ。
同居していた期間は1回更新をした記憶があるので、4年くらいだろうか。
4年経つと、高校時代から親友と呼べる男であっても、なぜか少しずつ壁が生まれていた。
2人で飲みに行くといったことも極端に減ったし、なんなら会話することすら煩わしいと思うことも増えた。
とはいえ、親友に変わりはないと思っていた。
親友という関係が破綻した日
私の上海での生活が始まると、3〜6ヶ月に1回は日本に戻ってくるという感じだった。
日本に戻る際には、親友だった彼にも必ず連絡を入れて、1〜2日泊めてもらって都度、お互いの進捗報告をし合っていた。
ところが、とあるとき全く連絡が取れなくなったタイミングがある。
後々、親友だった彼から連絡があったのだが、大麻保持で留置所に入っていたという話を聞いた。
同居していた頃から、身体のいろいろな箇所にタトゥーを入れたりしていたのは気になっていたし、仕事関係の人たちの柄が良くないイメージはあった。
もちろん、そういった人たちが全て悪いとはいわないが、なんとなく素行が悪くなっている感じはした。
大麻で捕まったというニュースは頻繁に聞くことはあっても、まさかこんな身近に体験をする人がいるとは思わなかった。
ショックはショックだったが、親友だった男が大麻で捕まったから縁を切ろうという発想はなかった。
むしろ、なにがそうさせたのかを知りたいという気持ちが強かった。
けれども、結果として付き合いがなくなってしまった。
上述したとおり、親友だった男はファッションや音楽に対して非常に興味を持っていて私にも大きな影響を与えてくれた人物だ。
見た目にはとにかく気を使っていた彼が、上海から戻った3ヶ月後に再び日本で会ったときに激太りしていた。
100kgは超えるかもという巨漢になっていて、コンビニに買い物に出かけるときですら、ちょっと着替えるようなタイプだったのが、全くその様子がなくなっていた。
この姿を見たときに、私の中で全てが崩れ去った音が聞こえた。
それから、私から連絡することがなくなり、今に至っている。
まとめ
あなたには親友と呼べる人がいるかという質問をされたとしよう。
私の回答は、かつてはいたが今はいないというものになるだろう。
あなたにもし、親友と呼べる人がいたとして、私と同じような経験をしたとしたら、どういう行動を取るだろうか。
私のとった行動は間違っていたのか、せっかくなので考えてみてもらいたい。
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