敬天愛人(けいてんあいじん)
→ 天を敬い、人を愛すること。
敬天は天をおそれ敬うこと、愛人は人をいつくしみ愛することで、西郷隆盛が学問の目的を述べた語として有名な言葉だ。
西郷隆盛といえば幕末の志士としても有名で、この時代が好きだという人も多い。
2021年の大河ドラマである、青天を衝けの主人公は渋沢栄一で、彼が活躍した時代も幕末だ。
ただ、この時代は結構複雑で、いまいち幕末のことがよく理解できていないという人も少なからずいるだろう。
ということで、幕末について書いてみよう。
今さら聞けない幕末ってなぁに?
そもそも、なぜ幕末は同じ変革期なのに戦国時代に比べて複雑に感じるのか。
それは、外国の動きや様々な思想がいろいろと絡んでくるので、難しく感じられるというのが理由だろう。
では、幕末とはいつの時代なのか。
答えは、徳川幕府が統治していた江戸時代の末期を指す。
つまり、徳川幕府の末期なので幕末と呼ばれるというわけだ。
とはいえ、実際は幕末がいつからなのかは明確な定義はなく、嘉永6年(1853年)にペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀(現剤の神奈川県横須賀市)に来航したときから始まるとされている。
日本史の授業での記憶にあるだろうが、ペリーが開国を求めた、いわゆる黒船来航からが幕末だとするのが一般的だというわけだ。
ただし、幕末の動乱の始まりとして、安政7年(1860年)の桜田門外の変からが幕末だとする考え方があったりもするので、こちらも併せて覚えておくといいだろう。
なぜ黒船が日本に来たのか?
黒船来航は日本史だけを見ると突然起こった出来事のように思うが、世界史的に見れば大きな流れの中の必然的な出来事だったといえる。
というのも、1840年~1842年(天保11年~13年)にかけて清国でアヘン戦争が起こり、清はイギリスに敗れて不平等条約を結ばされた。
また1853年~1856年(嘉永6年~安政3年)にはクリミア戦争が起こり、オスマン帝国とイギリス、フランスの同盟軍がロシアを破った。
その結果、イギリス、フランスは勢いを得るのだが、勝者側のはずのオスマン帝国は弱体化が進むという矛盾が起こる。
つまり、清国やオスマン帝国などアジアの大国が没落していくという時代だった。
その一方で、イギリス、フランス、プロイセン(現在のドイツ)といったヨーロッパ諸国が、新たな利権獲得を目指して世界を席捲していた時期なのである。
そして、ペリー艦隊を日本に派遣したアメリカに目を向けると、開拓民が西海岸にまで到達し、フロンティアが消滅しつつあった時期に当たる。
そんな欧米列強諸国にとって、最後に残った魅力あるマーケットが、当時、鎖国をしていた日本だったというわけだ。
黒船来航に対する日本人の対応
泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たった四はいで夜も寝られず
黒船来航直後に詠まれた狂歌だが、なんとなく覚えている人も多いのではないだろうか。
高級な宇治茶の上喜撰に蒸気船をかけ、また四はい(四杯)に4はい(4隻)をかけて、黒船来航当時の徳川幕府の慌てぶりを風刺した歌だ。
実際はどうだったかというと、庶民は恐れるというよりも興味津々だったという。
なにしろ、幕府が異国船見物禁止令を出さなくてはならないほど、江戸や近隣から黒船を一目見ようと野次馬が殺到したという史実がある。
中には小舟で黒船に接近し、乗組員と物々交換をして珍品を手に入れようとしたり、物を売って商売を始めようとする者まで現れているほどだ。
一方の徳川幕府は本当に慌てふためいたのだろうか。
ここにも実は裏話があり、ここについては過去にも書いており、林復斎(はやしふくさい)という外交に長けた人物がいたことを知ると面白い。
林復斎の交渉術があったのは確かだが、いずれにせよ徳川幕府の力に疑問を抱く人が増えていくのもまた事実だった。
尊皇攘夷という考え方
尊皇攘夷(そんのうじょうい)という言葉も一度は耳にしたことはあるだろう。
尊王と攘夷は本来は別々の言葉で、まず尊王から説明すると、天皇を尊ぶという意味だ。
天皇が尊い存在であるからこそ、天皇に任命された将軍にも正当な権威があるという概念だ。
また、攘夷という言葉も尊王と同様に中国の儒教に由来している。
そして、この言葉を広めたのは水戸藩だとされていて、これもまた尊王と同じ流れだ。
外国の侵略から日本を守るためには、幕府を筆頭に日本人が天皇の下で一致団結してすることを尊王、異国を打ちはらわなければことを攘夷としたのである。
この尊王攘夷という考え方には多くの人が共鳴し、やがて武士だけでなく庶民を含めて全国に拡がり、当時の日本人の常識となったわけだ。
これが、徳川幕府が開国へと政策を転じると、尊王攘夷は幕府を批判するスローガンとして使われることになるのである。
幕末の対立構造を尊王攘夷 vs. 開国は不正確な表現
よく幕末の対立構造を尊王攘夷 vs. 開国と表現するが、これは必ずしも正確ではない。
前述したとおり、尊皇攘夷という考え方は当時の日本人に広く浸透していた。
つまり、徳川幕府の為政者たちも、その点では同じ思考だというわけだ。
幕府は1854年(嘉永7年)にアメリカやイギリスと和親条約を結び開国するが、これは開国を拒む手段がなかったため、やむを得ず行ったものだった。
その後、和親条約はオランダやロシアとも結ばれるが、日本側が恩恵を与える限定的な取り決めだった。
ところが、アメリカからの強い要望があり、幕府は1858年(安政5年)に日米修好通商条約を締結することとなる。
これは和親条約のように単に港を開くのではなく、積極的に貿易を行うという取り決めだった。
とはいえ、尊王攘夷の世論がある手前、京都の朝廷の許可が必要だ。
ここで朝廷はあくまで攘夷を主張し、徳川幕府に許可を与えないという行動をとり、やむなく大老であった井伊直弼が締結したという流れだ。
この天皇の許しを得ずに行われた条約締結には、当然のように批判が起こり、肚をくくった井伊直弼は、揉めていた14代将軍の座を紀伊徳川家出身の徳川家茂に決める。
と同時に、幕府を批判する者たちを徳川一門、大名、公家、一般の武士や浪士を問わず、すべて処罰するのである。
これが、安政の大獄だ。
しかし、安政の大獄は多くの人々の反感を買い、1860年(安政7年)に井伊直弼は桜田門外で暗殺される。
いわゆる、桜田門外の変から幕府の権威は地に堕ち、幕末の動乱が始まるというわけだ。
結局、尊王攘夷については誰もが共通の認識を持ちながらも、それをどのような形で実現し、列強の脅威を防ぐかというところで意見がわかれることとなった。
それが、幕府支持派と反幕府派の対立が激しくなるのに繋がっていくのである。
まとめ
ここから、現代でも人気のある幕末の志士たちが登場していくわけだ。
坂本龍馬、ジョン万次郎、西郷隆盛、勝海舟、高杉晋作、中岡慎太郎、土方歳三といった名前は一度は聞いたことがあるという名前ではないだろうか。
冒頭に述べた2021年に大河ドラマの主人公となった、渋沢栄一もその1人である。
中でも不動の人気を誇っている坂本龍馬だが、坂本龍馬についてはこんな史実もあるということも以前書いているので併せて読んで欲しい。
複雑な時代には様々な憶測も入ることで、本当にあったことなど知る由もないといってしまえば元も子もない。
とはいえ、複雑だからという理由だけで知ろうとしないこととは結びつかないだろう。
少なからず、江戸時代から明治維新が起こるまでの激動だった時代を経て、令和という時代が訪れているのだから。
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