傾城傾国(けいせいけいこく)
→ 国や城を傾けるほどの絶世の美女。
四字熟語のテーマとして高頻度で登場するのが、この絶世の美女というワードだ。
このテーマは正直に書きにくいテーマのトップクラスだ。
例えば、こんなテーマで書いた記事もあるが、書き終えるまで結構な時間を要した記憶がある。
そして、今回もまたこのテーマということで、フォーカスする部分を考えたところ、アートについて書くことにした。
アートの中でも日本の文化ともいえる浮世絵に注目し、有名な作品の1つに菱川師宣の見返り美人という浮世絵がある。
そのあたりにも触れていこうと思う。
今さら聞けない浮世絵ってなぁに?
フィンセント・ファン・ゴッホという画家の名前を知っている人は多いだろう。
ひまわりの作品など有名な作品も多く、ゴッホのことについては、過去にこんな記事もかいているので併せて読んで欲しい。
そんなゴッホが心酔し、自らの作品にもその要素を取り入れたり多大なる影響を与えたとされるのが浮世絵だ。
江戸時代に多くの庶民の娯楽として親しまれたのが浮世絵で、浮世絵師が人気の人物や話題の場所などの流行を描き、当時の人々にはブロマイド、つまり現代の写真のようなものだった。
その始まりは、17世紀後半にあるといわれている。
浮世絵の浮世という言葉は、もともとは長く続いた戦乱の世を憂いていた、憂世からきている。
その後、江戸時代になると世の中が安定してくると、町人たちを中心に、浮き浮きと毎日を暮らそうという風潮に変化した。
浮世というポジティブな考え方が浸透し、そこから画家たちが人々の日常を切り取っていったのである。
これが、浮世絵だのルーツである。
そして、浮世絵に多くみられる版画は絵師、彫師、摺師から成る分業制で、この制作は浮世絵が広く庶民に行き渡る基礎となっている。
価格も蕎麦一杯分ほどという設定で、若者から年寄りまで多くの人が比較的簡単に手に入れることができた。
絵草紙屋と呼ばれる町の本屋さんで買うことができ、人気の作品は増刷を重ねた。
さらに、1867年のパリ万国博覧会をきっかけに、ジャポニズムと呼ばれるブームが起こった。
これにより、先述した西洋画家であるゴッホやモネといった多くの外国人画家にも親しまれたのである。
そして、様々な技術が進んだ現代においても、浮世絵の技術は日本独自のもので、その細やかさは手作業でしか形にすることができないといわれている。
職人の手から手へと、その技術は現在も語り継がれているというわけだ。
知っておきたい浮世絵師
そんな浮世絵を世に生み出してきたのが、浮世絵師だ。
今回のテーマが絶世の美女に絡ませたものなので、見返り美人という作品を残した浮世絵師から紹介していこう。
菱川 師宣
菱川 師宣(ひしかわ もろのぶ)は、浮世絵を確立させた、浮世絵の祖といえる人物だ。
挿絵としてしか認識されていなかった浮世絵版画を、独立した1枚の絵画として価値を見出したという功績がある。
寛永年間の中頃、つまり1630年頃に安房国保田(現在の千葉県鋸南町保田)生まれ、幼い頃より絵を描くのが好きだったという。
その後、家業である縫箔刺繍業の手伝いとして刺繍の下絵などを描きながら、漢画や狩野派、土佐派などに接し、独学で画技を磨いた。
寛文年間(1661年〜1673年)に画家を志して江戸へ移り住み、幕府や朝廷の御用絵師たちの技法を学ぶと、版下絵師として活躍する。
挿絵を大きく取り入れた絵本で庶民の人気を獲得し、絵画文化の庶民化の礎をつくりあげた人物で、これが後に浮世絵絵画の元となったというわけだ。
元禄7年(1694年)6月4日に江戸でなくなるまでに、多くの作品を残している。
- 見返り美人
- 歌舞伎図屏風
中でもこの2つの作品が有名で、特に浮世絵といえば見返り美人をイメージする人も多いはずなので、興味のある人は検索してはいかがだろうか。
鳥居 清長
役者絵と美人画の両方を描き、天明期を中心に活躍したのが、役者絵の名門、鳥居派の四代目の鳥居 清長(とりい きよなが)だ。
八頭身の美人画は世界的にも高い評価を得ており、また、歌舞伎の舞台上の光景を描く出語り図も多く制作している。
宝暦2年(1752年)に江戸本材木町(現在の東京都中央区京橋)に生まれ、明和4年(1767年)に細判紅摺絵でデビュー。
その後、天明(1781年〜1789年)期に八頭身でどっしりとした体つきの健康的な美人画様式を創り上げている。
そして、文化12年5月21日(1815年6月28日)に64年の生涯を終えている。
主な作品は下記のとおりだ。
- 当世遊里美人合 たち花
- 袖の巻
袖の巻は、いわゆる春画なので閲覧するときは注意が必要だ。
ただ、春画はエロティシズム表現というだけでなく、ユーモアや情感、遊び心が見られており、その絵の美しさが評価されているアートの一部だという認識を持ちたいところだ。
喜多川 歌麿
黄表紙の挿絵や錦絵を描いた後、町娘や遊里の女性たちを魅力的に描き、浮世絵美人画の第一人者となったのが、喜多川 歌麿(きたがわ うたまろ)だ。
表現の制約に屈することなく常に攻めの姿勢を見せたが、文化元年(1804年)に風紀取締りの処分を受け、その2年後にこの世を去った。
生年、出生地、出身地などは不明だが、宝暦3年(1753年)頃に生まれたと予測されている。
安永6年(1777年)に錦絵として、細判、すしや娘おさと 芳沢いろはを初作として発表。
その後、寛政2年(1790年)か寛政3年(1791年)に美人絵を制作し、人気を博す。
ところが、文化元年(1804年)5月に豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした浮世絵、太閤五妻洛東遊観之図を描いたことがきっかけで幕府に捕縛されることとなる。
これが上述したところに繋がり、手鎖50日の処分を受け、その2年後に54年の生涯を終えた。
主な作品は下記のとおりだ。
- 婦人相学十躰 ポッピンを吹く娘
- 寛政三美人
ちなみに、ポッピンとはビードロのことで、フラスコ型のガラス性玩具で江戸時代に流行した。
彼の作品は繊細な生え際の表現が見どころの1つで、最も難易度が高いともいわれている。
葛飾 北斎
世界の北斎として生前より外国で知られていたのが葛飾 北斎(かつしか ほくさい)だ。
19世紀中頃の万国博覧会をきっかけとしたジャポニズムブームから、印象派誕生のきっかけを作ったともいわれている。
90年に及ぶ長い人生のうちに、90回以上引越しをしたといわれる北斎は、そのほとんどを墨田で過ごし、作品を生み出してきた。
2016年には北斎ゆかりの地として、墨田区にすみだ北斎美術館が建てられ、開館の半年後に当初の想定年間来館者数だった20万人を達成するなど、今も多くの人に愛され続けている。
宝暦10年(1760年)に、本所割下水(現在の東京都墨田区)に生まれ、6歳頃から絵を描くことに興味を覚える。
安永7年(1778年)に勝川 春章に入門し、勝川 春朗の雅号で浮世絵の世界に登場する。
天保元年(1830年)から天保4年(1833年)にかけて、冨嶽三十六景などの風景版画や花鳥画など、有名な錦絵の制作はこの期間に行われたといわれている。
主な作品は下記のとおりだ。
- 富嶽三十六景
- 北斎漫画
北斎のライフワークであったとされる、北斎漫画も有名なので知っておくといいだろう。
北斎が絵手本として発行し、総図数は約3,900あり、人間や自然、神仏妖怪など、多くのものが描かれており、絵の百科事典も呼ばれている。
北斎の卓越したデッサン力は正確かつ緻密なもので、当時の人が手に取りたいと強く願ったものだった。
これが、海外でもホクサイ・スイッチと呼ばれ、多くの人が手本にした。
画像の三編の中の見開きでは、すずめ踊りをする男性の動作を1つ1つ丁寧に描写している。
まるでパラパラ漫画のようで、見るだけでも十分に楽しむことができる作品ということで、現代にも語り継がれている。
東洲斎 写楽
わずか10ヶ月の期間に、140点前後に及ぶ浮世絵を世に送り出し、忽然と姿を消したのが、東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらくだ。
謎多き存在の写楽だが、躍動感に満ちた役者絵は現代でも多くの人を魅了している。
その謎に包まれたキャラクターから、写楽を題材とした小説やドラマ、映画、そして演劇も多く生まれている。
生没年などは謎に包まれており、経歴は不詳だが、阿波徳島藩お抱えの能役者斎藤十郎兵衛とする説など諸説ある。
主な作品は下記のとおりだ。
- 三代目大谷鬼次の江戸兵衛
- 市川鰕蔵の竹村定之進
写楽作品の中でも最も有名なのが、三代目大谷鬼次の江戸兵衛だが、誰もが見たことがある作品だろう。
まとめ
歴史に名を刻んでいる浮世絵師たちの多くが美女を描いている。
美女の基準は時代で異なれど、いつの時代も美女はどこかしらで話題になるということだろう。
あなたの周りに絶世の美女はいるだろうか。
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