曲眉豊頬(きょくびほうきょう)
→ 三日月のような美しい眉で、頬がふっくらとした美人。
当然だが、人によって美人だと思う人とそうでない人がいる。
好みがあるのは当たり前の話で、なかなか美人という概念を多くの人に当てはめるのは難しいと思う。
とはいえ、日本だけとはいわれているが、世界三大美人という定義があるのも事実だ。
クレオパトラ、楊貴妃、小野小町の3人がそこにランクインされているのだが、歴史上の有名な人物であるが故に、実態は定かではないのが通説だ。
また、歴史上の有名な人物であるとはいえ、時代も国も異なるこれら歴史上の人物が一括りにされいる。
しかも、特に美人として知られるようになったのには、それなりの理由があるはずだ。
ということで、世界三大美人について少々調べてみたので共有していこう。
世界三大美人といわれるようになった時期
小野小町が美人だったという伝説は古くからあったが、クレオパトラや楊貴妃とともに三大美人としてメディアに登場するようになったのは、明治中期からだという。
例えば、1888年(明治21年)7月20日付の読売新聞の社説の流行論その4 美醜判断の困難では、クレオパトラ、楊貴妃、小町の名が並べられている。
そして、明治、大正期の新聞や雑誌類には多数の女性論が掲載され、海外の女性たちと共に小野小町の名前がくり返し登場している。
とはいえ、読売新聞の社説には、容姿をめぐる価値観は多様で美人の誉れ高い小野小町たちのことを、それほどでもないと思う人もいるだろうとも書かれている。
なぜ小野小町が世界三大美人と呼ばれるようになったのか?
世界三大美人の中でも日本人である小野小町をピックアップしてみよう。
上述したが、世界三大美人言説が生まれた明治中期は、日本が欧米列強に対抗し日清・日露戦争に向かいつつあった時代だということをまずは覚えておこう。
国内でナショナリズムが高まる中で、和歌の名手であった小野小町は、平安時代中期以降の国風文化を代表する文化人として理想的な存在だったのではないかという分析がある。
また、クレオパトラが三大美人として挙げられた背景には、1910年代に女優の松井須磨子が帝国劇場でクレオパトラ役を演じた舞台が人気を博したのがきっかけではないかといわれている。
浅草で無声映画のアントニーとクレオパトラが上演されたことも大きく影響しているのではと推測されている。
いずれにせよ、世界三大美人の3人に共通していえるのは、いずれも晩年は悲劇的な最期を迎えたとされていることである。
小野小町は美しかったけれども、晩年には老いさらばえて地方を放浪していたという伝説がある。
中国の唐の時代の玄宗に寵愛されるも最期は殺害された楊貴妃や自殺したクレオパトラと悲劇のヒロインという意味で、並べやすかったとも考えられているという。
いわゆる悲劇のヒロインというわけだ。
小野小町は本当に美人だったのか?
さて、本題というか、世界三大美人はいいとして、果たして小野小町は本当に美人だったのだろうか。
完全に伝説であるというのがどうやら有力な説らしい。
というのも、そもそも平安時代に貴族の女性が多くの人に顔を見せる機会は滅多になかった。
また、目鼻立ちについて具体的な顔立ちをもって美人と判断する現代とは基準が大きく異なる。
髪の豊かさ、服装、振る舞いなど、明かりの少ないところや、やや離れたところからでも伝わる情報から、美しさや気品のあり方が判断されていたというのが通説だ。
そして、小野小町の美人説も、もともとは物語上の別の人物と混同されて拡がったともいわれている。
美貌の女性の落魄を早くに記した漢詩文に、平安後期までに成立した、玉造小町子盛衰書というのがある。
この漢詩文の作者は未詳だが、作者と老女との問答形式をとったもので、この物語の主人公である小町が、小野小町と混同されたのである。
また、混同された大きな理由として、古今和歌集に収められた小野小町の歌が、伊勢物語の中で色好みなる女の歌として引かれたことの影響も挙げられている。
つまり、小野小町が本当に美人だったかというのは謎で、噂が独り歩きしたということも十分にあり得るということだ。
小野小町が今もなお美人として語り継がれる理由
とはいえ、小野小町が優れた歌人であったことに変わりはない。
花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に
この歌は、小倉百人一首に収録された小野小町の歌だ。
歌の意味は、いつの間にか花の色もすっかりと色褪せてしまった、降る長雨をぼんやりと眺めているうちにというものだ。
自分自身を花に例えて、自分の美しさも色褪せてしまったと嘆いているのだが、こういった歌を残していることからも、美人であったとされるわけだ。
また、小野小町は、百人一首に選ばれるだけでなく、六歌仙や三十六歌仙の1人にも数えられていた。
こういった実績もあって、才色兼備の歌人だったとされるのである。
ちなみに、六歌仙とは紀貫之が選んだ平安時代の優れた歌人6人のことで、三十六歌仙とは公卿で歌人の藤原公任が選んだ平安時代の代表的歌人36人のことを指す。
そして、実は小野小町の出自や身分ははっきりとしていない。
仁明天皇に仕えていたと伝えられていて、宮中ではその美しさに多くの男から好意を持たれますが、誰にもなびかなかったという説もある。
小野小町のプライドの高さから生まれた伝説もある。
深草少将という人物が、小野小町に恋い焦がれて求愛するも、百夜通い続けたら契りを結ぶと告げられる。
深草少将は毎晩徒歩で通い続けるものの、九十九夜まで通ったところで大雪によって凍死してしまうというのである。
そんな小野小町の最期については少し触れたが、決して華やかではないとされる。
宮廷で華やかな生活を送っていた小野小町は、仕えていた仁明天皇が崩御すると宮廷を去り、諸国放浪の旅に出る。
京都に小町寺と呼ばれる寺があり、正式名は補陀洛寺という。
その補陀洛寺は小野小町の終焉の地として知られており、小野小町は80歳でこの寺にたどり着き、亡くなったと伝えられている。
この補陀洛寺には小町の晩年の像が安置されているけれども、絶世の美女の面影はなく、あばら骨が浮き出た老婆の姿だというのがなんとも象徴的なのだ。
まとめ
美しさとはなんなのか、小野小町の逸話を知ると考えさせられる。
もちろん、真実とかけ離れていていろいろと加味されたものもあるのだろうが、やはり考えさせられる。
小野小町の亡骸は終焉の地で野ざらしにされた。
髑髏(しゃれこうべ)の目の穴からススキが生えていたため、風が吹くたびに、ああ痛いと叫んだという。
寺を訪れた僧が見かねて手厚く葬って、やっと成仏したというのである。
美しさとはなんなのか、改めて考えさせられるという言葉で締めくくろう。
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