玉石混淆(ぎょくせきこんこう)
→ 優れたたものと、つまらないものが入り混じっていること。
賢者と愚者の例えとしても使われるというこの四字熟語だが、何事にも当てはまる言葉だろう。
とはいえ、そもそも賢者と愚者の境界線は曖昧だ。
時代が変われば賢者が愚者にもなるし、愚者が賢者にも変わる。
このことは何度もくり返し述べているのだが、正解などいくらでも変わってしまう時代には言い続けるしかない。
どういうのことなのか、実例を挙げた方がわかりやすいので、現在では非常に高く評価されている芸術家や作家であっても生前は全く評価されていなかった人々を取り上げてみよう。
生前に評価されていなかった人たち
ポール・ゴーギャン
タヒチの女、われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか、といった作品で知られるゴーギャン。
日本の浮世絵に影響を受けたこともあり、日本でも人気が高い画家である。
ゴーギャンは、40歳を過ぎてからは西洋文明の限界を感じタヒチなど南太平洋の島を拠点にしている。
ただ、実際は家族、友人、画家仲間らとの関係の悪化や金銭トラブルによる逃亡というが理由として大きかったというのが通説だ。
彼の作品は一部で好評を博すこともあったが、難ありな性格で美術界では孤立していた。
逃避先のタヒチやマルキーズ諸島でも現地の10代前半の女性を何人も妻にして子どもを産ませたり、地元の司教や憲兵らとトラブルを起こしたりと、なかなかのものだったという。
そして、生涯お金に縁がなく、遺産と呼べるものもさほど残すことができずに1903年に他界するという人生だった。
アメデオ・モディリアーニ
モディリアーニは19世紀後半〜20世紀前半にパリで活躍したイタリアの画家である。
彼が描く女性は異様に首が長く、黒目が書き込まれていない独特なものだ。
名前でピンとこなくても、モディリアーニの名前で検索すれば誰しも一度は見たことがある絵が出てくるはずだ。
このスタイルは、もともとモディリアーニが彫刻から芸術家としての道をスタートさせていて、それを絵に反映させているからだといわれている。
モディリアーニは22歳の時にパリに移住し、ピカソなどの同時代の天才画家たちの交友をかわしながら彫刻や絵画の製作を行うも、作品はほとんど評価されず安値でしか売れなかった。
そのため、絵具も満足に買えない状況で、かつ病弱であったため、作品作りに支障をきたすこともしばしばあった。
そんなモディリアーニは、1917年3月に画家ジャンヌ・エビュテルヌに出会い、恋人同士になる。
彼女を題材に多くの絵を書いており、娘も誕生している。
ただ、肺結核が悪化し、酒やドラッグに頼る荒れた生活を送った末に、1920年に死亡する。
妻となったジャンヌはこの時、2人目の子を妊娠していたにも関わらず、嘆き悲しむあまりに夫の後を追って飛び降り自殺をしている。
こんな一生であったため、ほとんど知られていなかったモディリアーニだが、1922年にパリの名門画廊で個展が開かれると大絶賛を浴びることになる。
友人で批評家のアンドレ・サーモンが伝記を書くと、その数奇な人生が人々の心を打ち名声が高まることになったのである。
その後、2018年5月には、サザビーズで裸婦像が1億5,720万ドルという過去最高額の価格で落札されるまでに至っている。
宮沢賢治
銀河鉄道の夜という作品を知らないという人は日本人では珍しいだろう。
その著者の名前が宮沢賢治であるということも、おそらくワンセットで記憶している人が多いはずだ。
そんな現在では著名な宮沢賢治が、実は生前に執筆業において、5円という額しかもらっていないという事実を知っているだろうか。
彼は自分自身のほとんどの作品を、引き出しの中に眠らせて誰にも公表しなかったという。
宮沢賢治の死後に、彼が書いた様々な作品を発見した遺族が世間に公表してことが、現在の名声に繋がっているのである。
ピカソは金持ちでゴッホは貧乏で一生を終えた理由
現在では、ひまわりの作品などで著名な画家の1人として確実に挙がるが、生前には全くといって評価されていなかった画家の1人に、フィンセント・ファン・ゴッホがいる。
ゴッホの絵は生前には1枚しか売れず、弟のテオの支援を受けながら創作活動に打ち込んでいたのも周知の事実である。
そんなゴッホは、自分の絵が売れないのは、世の中の連中の目が腐ってるからだと嘆き悲しみ、最後は銃で自殺している。
また、先述したゴーギャンと交友関係があり、喧嘩した際に発狂して自分の耳を切り落としたというエピソードもある。
つまり、かなり過激なタイプの人物だったということが読み取れる。
一方で、パブロ・ピカソは、生前から画家として名声を得て、経済的に豊かな生活を送っている。
彼の遺産は、7万点の作品、住居、現金などを加えると、日本円にして7,500億ともいわれており、生きているうちに最も経済的に潤った画家としても知られている。
では、なぜピカソとゴッホにはこんなにも差が出てしまったのだろうか。
ピカソは新しい絵を仕上げると、数十人の画商を呼んで展覧会を開き、作品の背景や意図を解説したという。
そこには理由が2つあった。
1つは、人が作品というモノを買うのではなく、そこにある物語、つまりストーリーにお金を払うものだと知っていたからだ。
そして、もう1つは、画商が一堂に会すと競争原理が働き、作品の価格が上がるためだ。
要するに、ピカソは画家として才能があっただけではなく、自分の価値をお金に変える方法も心得ていたビジネスマンだったというわけだ。
ピカソの商売上手なエピソード
1973年にピカソはワインのラベルをデザインした。
その報酬は、現金ではなくワインで支払われた。
その理由は、ピカソがデザインしたワインのラベルは、シャトー ムートン ロートシルトという有名シャトーの高級ワインだったことにある。
ピカソにとっては、自分のラベルによって価格が高騰したワインを受け取れば、飲むにせよ転売するにせよメリットがある。
一方で、シャトーのほうも、高額な報酬を一括で払う必要がないというメリットがある。
つまり、ピカソは両者の間に信頼関係があれば、お金という媒体に頼らずとも価値を交換できることを知っていたのである。
また、ピカソが40歳のときに、レストランのウエイターに絵を描いて欲しいと頼まれたときのエピソードがある。
30秒ほどで、置いてあったナプキンに絵を描くと、お代は100万円だとウエイターに伝えたという。
ウエイターは、わずか30秒ほどで描いた絵が100万円もするのかと訪ねたが、ピカソはこう答えた。
いいえ、この絵は30秒で描かれたものではなく、40年と30秒かけて描いたものだ。
まとめ
ピカソはまた、こんな名言も残している。
そこそこな芸術家は、模倣(マネ)をするが、歴史に名を残す偉大な芸術家は盗む。
ピカソが歴史上一番多作な画家だといわれているのも、市場に自分を売り込むために、パクリにパクリを重ねた結果なのかもしれない。
また、発明王として知られているエジソンも、自分以外の技術者のアイデアや部下が思いついたアイデアを躊躇なくパクって、特許申請している。
そんな彼が作った会社がゼネラル・エレクトリック(GE)で2022年の今もグローバル企業として今もなお存在している事実もまた有名である。
それから、芸術家や作家の中には、自殺をしたり数奇な人生を歩む人も多い中、ピカソは92歳という長生きだった。
亡くなる前年にも死を予測したかのような自画像を描いたりと、傍から見たときに充実した人生を送っていたように思える。
生前に評価されていなくても後世で評価されることに、どれほどの価値があるのだろうか。
それよりも、自分が充実したといえる一生を終える方が、よっぽど幸せだと私には思えてならないのである。
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