教外別伝(きょうげべつでん)
→ 悟りは言葉や文字で伝えられるものではなく、心から心へと伝えるものであるということ。
伝統というものは、言葉や文字で伝えられるものだけではなく語り継がれるというものも多い。
卒業シーズンには、世代ごとに想い出の歌というものがあったりするのも伝統の1つだろう。
以前、こんなまとめ記事を出したが、3月の卒業シーズンには予想どおりよく読まれている。
つまり、気になっている人が多いということである。
それに近いテーマとして、ふと思ったのが校歌という伝統だ。
なぜ校歌があるのか?
校歌が作られ始めたのは、明治30年代だといわれている。
当初は、国民の理想のあり方を歌うことでその思想を人々に植え付けるためだったという。
そして、この校歌で理想の国民像を植え付けるというのは、フランス革命の影響だといわれている。
ときは、1789年。
フランス国民は圧政に苦しんでいた中、王政を変えるという目的で自由で平等な社会を獲得したのがフランス革命である。
現在のフランス国歌は、このときに民衆の心を1つにするために生まれた、ラ・ラルセイエーズだ。
日本語訳にすると、市民らよ武器を取れ、隊列を組め進もう進もう、汚れた血が我らの畑の畝を満たすまでとなる、なかなか過激なものである。
つまり、マインドを統一するためにできたのだが、これを日本でも踏襲しようとしたという歴史があるのだ。
日本で校歌が生まれたタイミング
フランス革命から約80年後の明治維新。
日本政府は欧米から様々な文化を導入した。
そして、そのときに音楽を研究する組織である、音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)が組織された。
西洋音楽を研究して新しい日本の音楽文化の基礎をつくるために結成された組織である。
その研究対象は芸術としての音楽ではなく、国家統治の道具としての音楽だ。
音楽取調掛の研究の過程で、フランス革命時に人々が同じ歌を歌うことを見い出す。
要するに、同じ歌を歌うことが、意思統一について重要な道具になると結論づけたのである。
江戸時代から支配体制が一気に変遷した明治時代において、日本人のマインドを育む手法として歌を使うことを選択したのである。
江戸時代には将軍を中心とした武士がトップにいる世界だったのが、天皇を中心とした四民平等の世の中へとなっていく。
つまり、歌で愛国心を養うという手法だ。
その後、明治半ばになると西洋の音楽文化を学んだ人材が徐々に育ち始めるようになる。
これが、校歌が作られるようになったきっかけだといわれている。
それから、明治27年には文部省訓令第七号によって、学校で歌う歌はすべて当時の文部省の許可が必要になった。
日本の校歌の変化
校歌が作られ始めた当初は、日本政府に忖度する形で愛国心や郷土愛を養うための歌詞が盛り込まれた校歌が多く誕生した。
しかし、高度経済成長期を迎えると日本の街並みは一変し、校歌も時代と共に変化するようになる。
例えば、東京新宿にある小学校の歌詞の中に、豊かな緑や遠くに見える富士山という部分があったのだが、現在は高層ビルに変わっている。
そんな変化をしている校歌を未だに歌えるという人が多いの事実だろう。
同時に、校歌を想い出すと母校の記憶が蘇ってくる人も多いのではないだろうか。
しらべぇ編集部が2017年11月17日~2017年11月20日に全国20~60代の男女1,328名を対象に調査報告がある。
それによると、男性、女性共に半数の人が、母校に思い入れがないという回答をしている。
この結果から、同級生や部活の友達に思い入れはあったとしても、学校自体への愛情はあまりない人が多いということがわかる。
これでは、意思の統一を目的とした校歌が廃れていると思うかもしれない。
ただ、こんな事例もあることを知っておくといいだろう。
日本で唯一新潟にある清酒学校の校歌
新潟県は、魚沼産コシヒカリなどのお米を誇る日本一の米どころだ。
それだけでなく、米から作られる数々の銘酒の名産地としても周知されている。
実際、本醸造、純米酒、吟醸酒などのいわゆる特定名称酒の出荷量や1人あたりの清酒消費量は、全国一だ。
そんな新潟には、酒造りを支える全国でも珍しいシステムがある。
それが、新潟清酒学校である。
新潟県酒造組合が、越後杜氏として長い歴史を持つ酒造技術者を育成するために、1984年に誕生した。
この学校に入学を許されるのは、酒造会社で勤務経験があり、その推薦を得た者だけだが、教える人たちもそれぞれの蔵の熟練した職人や醸造試験場の研究者たちだ。
一般的には、1つの蔵の中で杜氏から蔵人たちへと伝わっていく技術を、新潟ではオープンに共有して、次の世代を育てているという。
そんな、新潟清酒学校で、1年生が最初に受ける授業が、実は校歌の練習なのである。
校歌の歌詞は短いが、この中に清酒学校の精神があるとしている。
そんな新潟清酒学校に入学してくるのは、先述した日本酒の製造に携わってきた人たちだけでなく、営業や海外担当など幅広い。
生徒には分厚いテキストが支給され、選抜して送り出してくれた酒蔵の期待を背負った3年間が始まるというシステムが確立されている。
なぜ、新潟では2022年現在も酒の名地として知られているだけでなく、高く評価されているのか。
その背景には、技術や知識をを次代に紡ぐという、まさに伝統を共有していくというシステムがあるというわけだ。
まとめ
私自身も小学校、中学校、高校のときのどのときの校歌だったかは定かではないが、なんとなく校歌を歌うことが未だにできる人間だ。
ただ、もしかするとこの流れも変わるかもしれない。
というのも、私には2022年時点で、3人の小学生の姪っ子と甥っ子がいるのだが、今の時代には校歌を歌うことがないそうだ。
一番大きい姪っ子は2022年3月が小学校の卒業式だったのだが、みんなマスクをして録音された歌声を聞くというものに置き換わっているそうだ。
その理由は言わずもがななので、あえて書かないが、姪っ子は小学校入学当初は歌ったことがあるだろうから、まだ歌うことができるかもしれない。
ただ、2年前とかちょうど小学生になったタイミングからマスク生活が当たり前という子どもたちもいる。
そういう子どもたちは一度も校歌を歌ったことはないかもしれない。
とすると、大人になったときに校歌に対する感覚は変わるだろうと思っているというわけだ。
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