依怙贔屓(えこひいき)
→ 自分の好きなほうにだけ肩入れすること。
依怙贔屓(えこひいき)という言葉を見ると、いつも脳裏をよぎる記憶がある。
それは小学校4年生に遡る苦い記憶だ。
たまにはこんな回もあっていいだろう。
依怙贔屓(えこひいき)が呼び起こす記憶
小学校4年生の記憶を話す前に、私の背景を語る必要がある。
私の両親は共に教育者の立場だった。
そして、母親が小学校の先生だったことが、この依怙贔屓の物語は始まる。
小学校の先生だったというだけではなく、細かい複雑な部分が重なって生まれた、ある意味で奇跡ともいえるかもしれない。
それは、母親が私が通った小学校と同地区の小学校の担任を持っていたことに端を発している。
今はどうか知らないし、地域によっては問題ないのかも知れないが、私が小学生だった頃はさすがに息子が通っている小学校で母親が先生をするのはNGだった。
ということで、同地区に3つあった小学校の1つの小学校の教師をしていた時期がある。
正確にいつからいつまでだったかは覚えていないが、記憶が呼び起こされるのが小学校3年生のときだ。
私の通った小学校では、小学校1〜2年、小学校3〜4年、小学校5〜6年の2年おきにクラスが入れ替わるという仕組みだった。
小学校3年生のときの担任になったのは、H先生。
そのH先生は担任になったころから、私に対する評価が甘い気がしていた。
子どもながらに違和感を覚えながらの日々を過ごしていた。
それから、H先生が担任になってから1年が過ぎ、小学校4年生になったときに学級新聞という課題が出されるようになった。
学級新聞という名称はうろ覚えではあるが、課題の内容は明確に覚えている。
それは、週末に自分が興味を持ったことをA3程度の紙に新聞にして持ってくるというものだ。
書き方は自由で、なにを書いてもいい。
その学級新聞はH先生の独断と偏見で優秀なTOP3が発表された。
私は面倒くさい課題だったので、適当に書いて第1回を終えた。
ところが、そんな私の手抜きの学級新聞が第1位と発表されたのだ。
第2位、第3位にランクインした学級新聞の方が圧倒的にクオリティが高いことは幼心でも十分に理解できたにも関わらずだ。
文字も多く漫画を入れていたりと構成もしっかりしていたし、時間がかかっていることも誰にでもわかった。
全く嬉しくもなく、むしろ恥ずかしさしかなかったが、まあ第1回目ということもあり受け入れた。
これだけに留まらず、その後の第2回、第3回も私の書いた学級新聞がTOP3にランクインするのである。
TOP3に入った学級新聞は次回の学級新聞が発表されるまで、教室の後ろのボードに貼られるのだが、これが私には苦痛でしかなかった。
いずれも、私の書いた学級新聞よりも他の人が書いた学級新聞の方が高クオリティなのは自分がよくわかっていた。
さらに、休憩時間に他の人が書いた学級新聞には数人が群がっているのに対して、私の学級新聞には誰も集まっていない。
きっと自分の書いた学級新聞の方がいいのにランクインしていないと思った人も多くいただろう。
これは、明らかに依怙贔屓(えこひいき)によるものだと感じた。
当時はよくわかっていなかったが、同地区にある小学校の先生たちは定期的に集まっていたようだ。
今もなお続いている慣習なのか不明だし、大人になってから知ったことだが、そこでH先生はよく母親に話しかけていたらしい。
とても良くできる息子だという感じで報告を受けていたそうだ。
H先生がなにを考えていたのか不明だが、私には小学校3年生から甘かったという記憶が多々あり、この学級新聞の出来事は決定的だった。
そこで、私がとった行動は、とにかくTOP3に入るに値する学級新聞を書くということだった。
第4回目以降は、本当に力を入れてビッシリ文字を埋め、様々なテーマで学級新聞を書いていった。
徐々に精度は高くなり、第10回を過ぎる頃には、自身を持って第1位といえるものができあがるようになっていった。
課題が始まった当初は誰1人として、私の学級新聞を読む人などいなかったが、休憩時間にいつも誰かが見てくれているようなときもあった。
面白かったといわれることが単純に嬉しかったし、もっといいものを書こうというモチベーションに繋がった。
これがもし、H先生の戦略だとしたら恐るべしといったところだろうが、真相は不明だ。
依怙贔屓(えこひいき)の真裏にある記憶
そんな記憶の一方で、同じくらいの時期だったと思うが、M先生という音楽の先生に作られたトラウマもある。
これも大人になってから知ったことなのだが、私の母親も音楽が専門の先生だったこともあり、同学区にいたM先生とは反りが合わなかったようだ。
そんなことは知らない状況で、アルトリコーダーの初めての授業のときだった。
普段は別の音楽の先生が担当だったが、その日はM先生が急遽担当することになった。
M先生は授業が始まると、私に向かってアルトリコーダーを吹くように指示した。
リコーダーと原理は同じだが、アルトリコーダーになるとサイズも異なるし、生まれて初めて触った楽器だ。
当然、上手に吹けるはずもない私に向かって、M先生はこう言い放った。
母親が音楽教師なのにアルトリコーダーも吹けないのかと。
一瞬、なにを言われているのか理解できなかったが、私に対する嫌がらせだということを把握することはできた。
まとめ
私が小学校に経験した、依怙贔屓(えこひいき)とトラウマの記憶を書いていて思ったが、つい先日40歳を迎えたにも関わらず、30年くらい前のことを鮮明に覚えている。
ということは、今の小学生にだって同じような記憶が残る可能性が十分にあるということだ。
そこで経験したものが、その人の人格形成にも繋がるということもいえる。
というのも、私は先生という職業の人をリスペクトすることができない。
恩師と呼べる人に出会うことなどなかったし、そもそもの入口が信用できないところから入っている。
だから、恩師と呼べる人がいるという人が少々羨ましかったりもする。
もっというと、自分がなにかを教えるときに同じようなことをしていないかを考えるようになった。
まだまだできていないところも多いが、記憶が与える人格形成の影響はかなり強いことこそ、しっかりと記憶しておくべきだと改めて感じた次第である。
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