盛者必衰(じょうしゃひっすい)
→ 今は盛んなものでも、やがて必ず衰えるという人生の無常をいう言葉。
盛者必衰という言葉を聞くと、平家物語をイメージする人も多いだろう。
せっかくなので、冒頭を書き出してみる。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
骨牌の盤の上の点数、皆盛者必衰の理を現わす。
譬(たと)えば、盛りにつける者も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。
暗記させられたことを想い出した人は同世代の人たちかもしれない。
そして、暗記させられたけれども内容はフワッとしていて、いまいち把握していないというのも割りと一般的なのではないだろうか。
ということで、大人になった今、改めて平家物語から盛者必衰の理を学んでみようと思う。
平家物語の要約
平家物語は、日本の鎌倉時代初期に成立した歴史物語で、平家一門の栄光と滅亡を描いている。
平家一門は、12世紀の後半、平清盛を中心に政治的に大いに勢力を振るったが、やがてその権力を失い、壮絶な滅亡を遂げる。
物語は、平清盛とその一族の登場から始まり、平家一門が天下を取るまでの彼らの栄光が詳細に描かれている。
平家一門の勢力が頂点に達した後、物語は一転して彼らの衰退と滅亡を描き始める。
これも史実として学んだ記憶が人も多いはずだが、源氏と平家の間で行われた内戦である、源平合戦が12世紀末に勃発した。
源平合戦も重要な史実なので、簡単にまとめると下記のとおりだ。
源平合戦
源平合戦(Genpei War)は、1180年~1185年に行われた一連の戦争で、源頼朝を始祖とする武家である源氏と平清盛を頂点に立てた貴族出身の武家の平家の間の権力争いから発生した。
この合戦は、日本の政治的構造を根本から変え、中央政府の実権が貴族から武家へと移るきっかけをつくった。
源平合戦の結果、源氏の源頼朝が新たな武家政権、鎌倉幕府を設立し、日本は長い武家時代へと突入するわけだ。
その流れを端的にまとめると下記のとおりとなる。
- 平家の台頭:12世紀中頃、平清盛は平家一門を率いて朝廷で重要な地位を占め、事実上の政治的権力を握る
- 源氏の反乱:平家一門の専横を不満に思った源氏の一部が反乱を起こし、これが源平合戦の始まりとなる
- 源頼朝の台頭:源頼朝は東国(現在の関東地方)から軍を起こし、平家に対抗する
- 平家の滅亡:最終的に、壇ノ浦の戦いで源氏が平家を破り、平家は滅亡して、平家の幼い天皇であった安徳天皇も戦死し、戦乱は終結する
- 鎌倉幕府の成立:源頼朝は合戦後、鎌倉に新たな武家政権である鎌倉幕府を設立する。
くり返しになるが、源頼朝の指導の下、源氏は平家一門に勝利した。
そして、平家物語のクライマックスは、平家一門が壮絶な最後の戦いをくり広げ、最終的に敗れ去る場面で、特に壇ノ浦の戦いは壮絶な描写で知られているのである。
また、平家物語は、栄光と衰退、戦争の悲劇、そして人間のはかなさを描いた物語として、その後の日本文学に大きな影響を与えている。
平家一門の滅亡を通じて、今回のテーマである盛者必衰や諸行無常などの仏教的な世界観を強く反映しているからである。
その豊かな人間描写と壮大な叙事詩的な構造は、読者に深い感銘を与えているというわけだ。
平清盛と広島にある宮島の深い関係
実は、平清盛と広島という地は密接な関係があるともいえる。
広島には、日本三景の1つである宮島という観光名所がある。
鳥居が海に浮かぶ姿でも有名な宮島にある厳島神社は、1996年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
くり返しになるが、厳島神社は海上に建てられた神社として有名で、特に満潮時にはその鳥居が海に浮かんでいるように見える。
これは神聖な厳島自体が神体であるという信仰を表現したもので、神々の住む別世界を象徴している。
そんな宮島と平清盛との関係が、実は平家物語やその他の古文書に記されているのである。
平清盛は、厳島(現在の宮島)にある厳島神社を非常に重んじていて、この神社を贔屓にし、神社の再建や舞楽殿の設置など、多くの事業を行っていた。
その中でも、宮島を舞台にしたとされる平清盛の有名な伝説がある。
それは、平清盛が夕日を指さして戻したというものだ。
この伝説によれば、ある日の夕方、平清盛は厳島神社を訪れていた。
太陽が沈みかけており、舞楽殿の完成を祝う祭りが間に合わないという状況だったため、平清盛は自分の権力を示すために太陽に向かって指をさし、夕日を戻すように命じたという。
すると、太陽は実際に上昇し、祭りは無事に開催されたという伝説だ。
もちろん、実際にそんなことができるはずはないので、これは平清盛が持っていたとされる絶大な権力を象徴する伝説かつ平家が神聖視した厳島神社への尊崇を示すエピソードというわけだ。
とはいえ、この伝説からも平清盛の力と影響力を象徴し、平家一門が厳島神社と宮島に対してどれほど敬意を持っていたかを知ることができる。
平家物語が語り継がれている理由
とにかく、平清盛と宮島の伝説からもわかるとおり、平家は絶頂だったわけだ。
そんな平家が滅亡に追いやられるまでの期間はどれくらいだったのだろうか。
平家、つまり平清盛とその一族が主に活躍した時代は、平安時代後期の12世紀(1100年代)から13世紀初頭(1200年代初め)にかけてだ。
平清盛は、1120年頃に生まれ、1181年に亡くなっている。
そんな平清盛が実権を握ったのは、源平合戦(治承・寿永の乱)が始まる直前の1156年から1181年までのおおよそ25年間だ。
この期間を中心に、平家は日本の政治を主導した。
特に重要なのは、1167年に平清盛が太政大臣に任ぜられたことで、武士である彼が公式に国家最高の地位に就いたことを意味していることだ。
これが上述した武家政治の台頭を象徴する出来事として語られることが多いからである。
ところが、彼の死後すぐ、1180年から始まった源平合戦(治承・寿永の乱)により、平家は衰退していくわけだ。
これも上述したとおりだが、源平合戦は源氏の源頼朝が勝利し、平家は滅亡する。
平家最後の抵抗は、1185年の壇ノ浦の戦いでの敗北で、これをもって平家の勢力はほぼ終焉を迎える。
結果、源頼朝は鎌倉幕府を開き、武家政治の時代が本格的に始まりる。
とどのつまり、平家が活躍した時代は、大まかにいうと1156年から1185年までの約30年間という短い間だということになる。
こんな時代背景もあって、平家物語は全ての存在や現象が常に変化し、一見力強い者であっても最終的には衰えるということがハマりすぎるほどハマっているというわけだ。
平家物語の冒頭に出てくる祇園精舎の鐘の音や娑羅双樹の花、骨牌の盤の上の点数などは、全て無常の教義を示す象徴とされている。
譬(たと)えば、盛りにつける者も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。
ここから、人生のはかなさと、力強さとは無関係に全ての存在が最期には滅びることを示している。
これらの表現が全て平家一族の繁栄と滅亡を描いた、平家物語の主題である無常観を強く表現しているというわけだ。
無常の概念
無常とは、物事が常に変化し、なにも永遠に変わらないままではないという考え方を指している。
この概念は、特に仏教の教義で中心的な役割を果たしているが、普遍的な人間の経験を表す一般的な哲学的な考え方でもある。
例えば、我々の周りの世界は、季節が移り変わり、天候が変化し、人々が成長し変化するなど、絶えず変化している。
同様に我々自身も、心の状態や体調、信念、興味、関係など、私たちの人生のあらゆる側面が時とともに変わることを経験する。
これは、物事が一定していないという事実だけでなく、結局は全ての生命が終わりを迎え、全ての物事が終わりを迎えるという考え方を含んでいるというわけだ。
そして、しばしば人生のはかなさ、ものごとの無常さと表現されるのである。
また、この無常という概念は、我々が過去に固執したり、未来に過度に期待したりするのではなく、現在の瞬間を大切に生きることを教えてくれる。
物事が変わることは避けられない事実であり、その変化を受け入れ、それに適応する能力が、人間が幸せで満足した生活を送る上で重要であるとも教えているわけだ。
まとめ
平家が活躍した時代が30年と聞いて、どのように思っただろうか。
自分でまとめていて、たった30年しか栄光の時間がなかったのだということが、妙に印象に残った。
42歳を迎えるに当たっての30年はあまりにも短い。
まだ幾ばくか歳を重ねていくわけなので、もっと短く感じることだろう。
平家物語が書かれた正確な年代ははっきりしていないが、一般的には13世紀初頭(1200年代初め)に成立したとされている。
歴史に学ぶ必要があるのは、まさにここでもわかるとおり、800年以上前の戒めが現代社会にも通ずるのである。
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