市井無頼(しせいぶらい)
→ 町に住むならず者のこと。
町だけでなく、どこの世界にもいつの時代にも、ならず者は必ずいる。
でも、ならず者は必ずしも悪という側面だけではないということは理解しておいた方がいいだろう。
あえて、ならず者を演じているという人がいるということを伝えておきたい。
その最たる歴史上の人物といえば、大うつけ者と呼ばれた戦国武将の織田信長ではないだろうか。
ということで、織田信長のあまり知られていない逸話についてまとめていこう。
今さら聞けない織田信長ってだぁれ?
戦国時代が好きとか嫌いという話は別として、織田信長という名前を聞いたことがないという人は日本人だとまずいないといっていいだろう。
日本史を学べば必ず出会う人物で、映画やドラマの主人公として描かれることも多い。
ということで、多くを語らずとも、なんとなくその人物像までイメージできるという人がほとんどだと思うが、冒頭ということなので、簡単に一応触れておこう。
織田信長は1534年に尾張守護代の庶流に生まれた。
幼少期より破天荒な素行をくり返していたが、次第に頭角を現すと、ついに家督争いに打ち勝って尾張を統一した。
その後、鉄砲の導入や楽市楽座の推進など慣習にとらわれない斬新な手法で天下統一に邁進するものの、1582年に家臣である明智光秀の謀反によって、京都の本能寺で生涯を閉じた。
織田信長の幼少期
織田信長は、尾張の大名だった織田信秀の子として生まれたが、織田の嫡男ではあったものの長男ではなかった。
母親の土田御前が正室だったので、嫡男として育てられたのである。
そして、母親違いの兄弟、同腹の兄弟を合せると10人ほどいたとされていて、織田信長は次男、もしくは三男だったというのが有力な説だ。
ちなみに、兄弟とはあくまで男兄弟のことを指しており、そこに姉妹を合わせると25〜26人はいたとされている。
そんな織田信長の幼い頃の名は吉法師で、父親である織田信秀は結構な期待を抱いていた。
その証拠に、織田信長が幼い頃から那古野城を与えられるなど、将来の織田家当主として育てられていたという史実がある。
ところが、そんな父親の期待とは裏腹に、織田信長が大うつけと呼ばれるほどとてもヤンチャな幼少時代を過ごしていたというのは周知の事実だろう。
庶民と同じような衣類を身に纏い、それだけに留まらず着崩して腰にはひょうたんをぶら下げて、地元の子供たちと悪さをしたりと好き放題だった。
上述したとおり、父親の織田信秀に期待されていたにも関わらず、大うつけ者として過ごしているうちに、次第に確執が生まれていく。
それから、実はそれ以前に、母親との確執もあった。
気性が激しく、うつけ者でもある織田信長を嫌っていた母親の土田御前は、同腹である弟の織田信勝を可愛がる。
そんな状況で、織田信長は弟の織田信勝とぶつかり合うことになるのだが、戦になったときには心を痛めたのか、さすがに母親の仲介が入った。
だた、弟の織田信勝は2回目の裏切りを働いてしまう。
これには目を瞑れなくなった織田信長は、織田信勝を誘い出し殺してしまう。
若い頃から骨肉の争いの中にいた織田信長は、だからこそ強い精神力が育まれていったのではないかと推測される理由がここにある。
余談だが、弟の織田信勝の可愛がっていた母親の土田御前は、織田信長や同腹の妹の市と共に暮らし、彼らの子である織田信忠や茶々の面倒をよく見ていたと言われている。
織田信長の偉業
織田信長の戦で有名なところだと、今川義元を打ち破った桶狭間の戦いや武田軍を大敗に追いやった長篠の戦いが挙げられるだろう。
そして、上述したが、鉄砲の導入や楽市楽座といったカルチャーを取り入れたことでも有名だ。
それ以外にもあまり知られていない逸話を紹介していこう。
清州城の城主だった時代の逸話
まだまだ若い城主の織田信長に民も家来たちも不安顔を隠せなかったという。
大うつけ者と呼ばれていた人物なので当然といえば当然なのだが、そんな民や家来のために織田信長はよく祭りを開いていた。
そして、祭りを盛り上げるために、織田信長は今でいうコスプレをしていたという逸話がある。
織田信長の選んだコスプレは天女。
天女のコスプレをして、領民のために優雅に舞い踊ったと言われている。
安土城の城主だった時代の逸話
とても美しい城だったとされる織田信長が築城した安土城。
そんな安土城が年に数回、さらに美しく輝く日があったと言われている。
それは盆の時期で、盆が来ると織田信長は安土城に提灯を飾り付け、天守閣を闇夜に浮かび上がらせたという。
現代のライトアップだが、それを戦国時代に実施していたというのである。
また、安土城の城内を一般公開していたという逸話も残っている。
そもそも城というものは、現代の軍の総司令部と同等の位置づけで、軍事機密事項が満載のところだ。
それを躊躇なく皆の衆に開放すると招き入れて存分に見せていたというのだから、織田信長の奇才ぶりがわかると思う。
さらに、城に入った人たちは、さらに驚きに包まれたという。
それは、織田信長の宗教的な考え方によるもので、御利益のない神に祈るぐらいなら自分を拝めという主張だ。
神を祈るよりも織田信長自身を崇めた方がよほど御利益があるということで、安土城内に寺を建てると、自分のご神体を奉ったというのである。
織田信長のネーミングセンス
織田信長の逸話に関しては現代のマーケティングやブランディングにも多少関わるところにもいくつかある。
それは、ネーミングセンスで織田信長には実子だけで20人以上がいたとされている。
そして、戦国時代には幼名をつけるのが一般的だった。
くり返しになるが、織田信長の場合は吉法師がそれに当たるわけだが、織田信長が子どもたちにつけた幼名が異彩を放っているのだ。
まずは、長男の織田信忠。
彼の幼名は奇妙丸で、生まれたときに織田信長が信忠の顔を見た際に奇妙な顔をしているなと思ったからつけたとされている。
次に、次男の織田信雄。
彼は、織田信長の趣味であった茶から想像したのか、はたまた信雄の髪がそう見えたのか、茶筅(ちゃせん)と名づけられた。
茶筅とは、茶道の道具の1つで、シャシャシャと音を立てながらお茶をかき混ぜるモノのことだ。
その後、周りから止められたのか三男から五男までは割と普通な幼名がつけられるのだが、六男のときにまた変わった幼名がついた。
その幼名は、大洞(おおぼら)で、漢字はさておき、読み方がおおぼらなので、おおぼら吹きという言葉を簡単に想像する。
また、ホラ吹きとか、ハッタリをかますといった意味があるので、幼名にするには相応しくないと普通は考えるだろう。
それから、七男に至っては、もはや名前を考えるのが面倒臭くなってきたのか、小洞(こぼら)とつけている。
続いて、八男の幼名には、八男の母親が側室のお鍋の方だったことから、それになぞってつけられた名前が与えられた。
その名を酌(しゃく)という。
ここまで来るともはや笑いが止まらない感じだが、まだまだ続く。
九男の幼名は人、十男は良好、十一男は縁といった具合いだ。
現代でいうところのキラキラネームなのかもしれないが、発端は織田信長だったのかもしれない。
織田信長の感性
織田信長といえば下記の詩が有名だ。
鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス
この詩にあるとおり、確かに強引な一面があったり、大量虐殺をくり返しているという史実もある。
一方で、とにかく目新しい物事が大好きだったということも忘れてはいけない。
目新しい服装、目新しいモノはもちろんなのだが、なによりも、目新しい考え方を持っていたという人物だということが最も重要なことだろう。
外国の服装をしてみたり、西洋の甲冑を纏ってみたりと奇抜な服装にも抵抗がなく、当時の日本にはなかったとされる地球儀を手に入れたり、骨董の収集にも余念がなかったという。
モノだけではなく、出会った外国人の中には黒人もいて、なぜ肌が黒いのかを知るために延々と肌を洗わせたという逸話があったりもする。
そういった好奇心が旺盛だったからこそ、目新しい考え方が生まれたのだろう。
他の戦国武将が思いつかなかったような戦術を実行できたのも、こういったマインドがあったことが大きかったと勝手に思っている。
まとめ
織田信長の残虐性に対して、こんな見解を示している人もいる。
例えば、有名な比叡山焼き討ちについては、比叡山の坊主たちの悪行があまりにも酷く、もはや坊主に非ずということで焼き討ちをしたのではいないかといったものだ。
他にも、浅井長政親子の遺体から髑髏の盃をつくり、正月の酒宴で使用したという逸話についても、見せしめという見解が強かったが、敗れた敵将への敬意の念を表していたといったものだ。
そして、織田信長が好んでよく舞ったといわれる、敦盛。
人間五十年下天の内をくらぶれば夢まぼろしのごとくなり
この一節を聞いたことがある人も多いと思うが、その意味は、天界の流れを考えると人間がせいぜい生きていられる五十年など、夢まぼろしのようなものだということだ。
奇しくも織田信長が本能寺の変で自害したとされるのが、齢四十九。
ほぼほぼ当たっているということになるわけだが、そういう覚悟で人生の後半戦を戦っていこうと改めて感じた次第だ。
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