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2023年2月27日 投稿:swing16o

お茶と茶道の歴史

詩人蛻骨(しじんぜいこつ)
→ 銘茶を褒め称える語で、良質なお茶は詩人の感性までも変えてしまうという意味。

お茶するという言葉は、ブレイクしようという意味になる。

お茶という言葉は名詞のみならず動詞にもなるわけだが、こういった表現は昔からあったと思う。

それほど、お茶というものは人をリラックスさせる効果があると思っている。

そして、一言でお茶といっても様々な種類があって、茶道というカルチャーもある。

そんなお茶の歴史をまとめみた。

お茶のはじまり

お茶は中国ではじまった。

広く一般的に普及し始めたのは唐の時代といわれており、都の長安では喫茶店が繁盛し、寺院では座禅の合間に茶を飲むことが行われるようになった。

のどの渇きを癒し、気分をすっきりさせる覚醒作用としての効果もあり、唐代の文人だった陸羽は世界初の茶書である茶経を書いた。

そして、茶経には、樹齢数百年の大茶樹の存在、製茶用具、風炉、釜、炭斗、茶を粉末にする薬研、茶の量を計る茶則、柄杓、茶碗、茶巾などの点茶用具のことが詳しく書かれている。

他にも、水の品質、中国の茶の産地などについての記録もある。

唐の時代の茶の飲み方

  1. 茶の葉を積んで蒸し固めて団子状にして保存する
  2. 飲むときには必要分を削って茶臼などで粉にする
  3. 釜の湯に入れて煮出す
  4. 杓ですくって茶碗に入れて飲む

唐の時代のお茶は、上述したとおりのように茶の葉を積んで蒸し固めて団子状の団茶といわれるものが中心だった。

これが、運搬に適しているため喫茶という文化が普及していったのである。

また、広東省から輸入した国では茶をチャ、あるいはチと発音しており、福建省から輸入した国ではテ、あるいはティーと発音していた。

それが、宋の時代になると、現在と同じ抹茶法に変わった。

徽宗が書いた、大観茶論にはの書かれている内容を簡単にまとめると下記のとおりだ。

  • 茶に湯を加えて軟膏状にし、さらに泡が立たないよう茶筅を振る方法
  • 抹茶を入れた茶碗に一気に湯を入れ、茶筅で混ぜる方法
  • 軟膏状に溶いた茶に湯を7回に分けて入れ、そのたび茶筅の振り方も変えて雲か霧のような細やかな泡が立つようにする方法

茶経と比較すると、より繊細な点茶法になったことがわかるだろう。

日本にお茶がやってきたタイミング

そして、日本にお茶がやってきたのは、奈良・平安時代だというのが有力な説だ。

中国の唐の時代に遣唐使や留学僧たちによって日本にやってきたわけだが、上述した茶の葉を蒸して固めた団茶の形で伝わったといわれている。

団茶は必要分を削って釜で煮出し、中国製の白磁や青磁茶碗、また山茶碗と呼ばれる粗製の国産茶碗で飲まれてた。

当時の茶はとても貴重なもので、天皇や貴族、僧侶など一部の高貴なひとたちの飲み物だった。

一方で、日本には山茶と呼ばれる自生の茶樹があったといわれている。

奈良・平安時代には主な寺院内に茶園が設けられ、茶が行事に使われると共に、来客などで振る舞われていた。

仏教で国の安泰をはかろうとする鎮護国家の思想が盛んだった時代背景から、盛んに寺院が作られ、寺院に付属する形で茶園が各地に拡まったという経緯だ。

国家安泰を祈るため多くの僧侶が、大般若経を読誦する行事を季御読経という。

これは、3〜4日間に渡って行われるもので、2日目には僧侶たちに茶を振る舞う、引茶という作法があった。

引茶では、行事担当の貴族が僧侶たちに茶を勧め、好みによって甘味料の1つである甘葛、生薬の一種である厚朴、生姜などの調味料を加えたといわれている。

和歌に登場するお茶

新古今和歌集という和歌集の名前を日本史でなんとなく習ったという記憶がある人も多いだろう。

そんな新古今和歌集は、平安時代末に編まれた和歌集で、その編者の1人である藤原定家は、独特の定家様と呼ばれる書風や定家色紙知られている。

千利休所持の茶壷である橋立は、古今和歌集の大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立から取られたものとして有名な一品だ。

このように、新古今和歌集を茶道具の銘にしたものがあるという歴史も面白い。

また、江戸時代に定められた中興名物茶入の多くが和歌を銘にしており、古今和歌集などの和歌集や伊勢物語の内から取られていることもわかっている。

そして、茶の湯が和歌への注目を始めたのは武野紹鷗が定家筆の色紙を茶席の掛物としたことが始まりだととされいる。

当時唐物茶道具が幅を利かせている中で突如日本的な和歌色紙が現れた。

それ以降は、今井宗久、明智光秀、豊臣秀吉、石田三成たちの茶会に和歌色紙が使われたといわれている。

このように和歌や和歌集は茶の湯が盛んになると歌を詠む公家貴族たちばかりではなく、武家の間にも掛物や茶道具の銘としても取り入れられていったのである。

茶道という文化

茶道とは、抹茶を飲むことを中心に茶室や露地、掛物や茶碗などの茶道具、点前、精神性などが融合してつくり上げられた1つの文化だ。

そんな茶道は、鎌倉時代に栄西によって伝えられましたといわれてる。

栄西は比叡山の僧侶で、中国を経てインドに向かおうとしたけれども、果たせずに当時中国で流行していた禅を学んで1191年に帰国した。

その後、禅宗と抹茶法を日本に伝え、船が着いた平戸に茶の苗木を植えて茶園を営んだとされている。

当時の抹茶は座禅の際の眠気覚ましと健康薬として使われていた。

また、栄西の書き残した、喫茶養生記には抹茶がいかに体に良いものであるかを中国の最新医学書などを利用して説明されている。

つまり、この頃から抹茶が健康飲料として効果があるということが書かれているのである。

その後、栄西は寿福寺や建仁寺を建設し、禅宗と抹茶法を拡めていった。

栄西の広めた喫茶法は、四つ頭の式、四頭式茶礼、四頭茶会と呼ばれている。

抹茶が入れられた天目形の茶碗が参客に配られた後、給仕の僧侶が湯を注いで茶筅で茶を点てて回るというものだ。

現代でも四頭茶会は建仁寺や建長寺などの現在の禅宗寺院でも行われていて、参加することができる。

建仁寺の四頭茶会は、2012年3月に京都市登録無形民俗文化財に指定された。

お茶の歴史

鎌倉時代に栄西がお茶文化のきっかけをつくってから、日本全国にお茶が伝わり、日本でお茶の製法などが独自の発展を遂げた。

茶道にも触れたが、その創始者は村田珠光で、茶道(わび茶)が始まる。

その茶道(わび茶)は、やがて茶人である千利休によって、現代にも知られている茶道が完成されたのである。

そして、日本だけでなく他の国にも中国からお茶が伝えられ、拡がっていったという歴史がある。

お茶を飲むという喫茶の習慣は、シルクロードなどの交易路を通じて、中国からイランなどの中東方面、ロシア、モンゴル、チベットなど各地に拡がっていった。

明代(明王朝時代:1368~1644年)に入ると、比較的製造が簡単で安価な釜炒り煎茶が中国のお茶の主流となっている。

また、意外かもしれないが、ヨーロッパにお茶が伝わったのは、少し遅く、大航海時代末期の17世紀になってからだ。

1610年にはオランダが日本茶も輸入していて、日本茶がヨーロッパで紹介されたのはこれが初めてだといわれている。

ヨーロッパでのお茶は、まずはオランダ、フランス、イギリスなどの国の上流階級の間で広がり、徐々に一般民衆にも知られていった。

ヨーロッパの国の中でも特にお茶についてこだわったのが、イギリスだった。

中国からお茶がイギリスへ伝わるとたちまち紅茶がとても人気となった。

ところが、自国で栽培ができなかったため、わざわざ中国から大量のお茶や磁器を輸入していたという時代背景がある。

自国でお茶の生産をしたかったイギリスに転機が訪れたのは、1823年だった。

イギリスがインド北部アッサム地方を支配していたビルマ(現在のミャンマー)を制圧した際にお茶の木を発見したのである。

アッサムの名前からピンと来た人も多いと思うが、それからイギリスはお茶の栽培と製造に挑むことになる。

その後、お茶の栽培と製造に力を尽くしていたイギリスは、1838年にはアッサム地方、1852年にはダージリン地方で紅茶の製造を開始する。

さらに最新の蒸気機関などを使った近代的かつ合理的な製法の確立によって、英国式紅茶が誕生したというわけだ。

まとめ

現代のお茶文化は大きく2つにわけることができる。

  • 緑茶や烏龍茶を中心とする喫茶文化
  • 紅茶文化

前者は、お茶の始まりの国である中国と1000年以上の歴史と独自の茶文化がある日本、高級茶生産地の東アジアにおける、緑茶や烏龍茶を中心とするお茶文化のことだ。

そして後者は、インドやセイロン(現在のスリランカ)、アフリカ各地などの産地を中心として広がっている英国式紅茶の製法をベースに発展している紅茶文化のことである。

いずれにせよ、世界中にカフェという文化のきっかけとなったところにお茶という存在があることは明らかだろう。

お茶を飲むことでリラックスできるということは、長い歴史の中でどこか本能的にインプットされているところなのかもしれない。

 

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植田 振一郎 Twitter

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