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2023年2月23日 投稿:swing16o

理論武装することと準備することの違い

紙上談兵(しじょうだんぺい)
→ 紙の上で戦術を議論する意で、理屈だけで実践では役に立たないこと。

この手の言葉も他にも多くあるように思う。

机上の空論、絵に描いた餅、畳の上の水練といったあたりも同様に実践では役に立たないことを意味している。

頭でっかちなだけでは、実践では役に立たないということは昔からよく知られていたということだろう。

要するに理論武装するだけでは、どうにもならないということである。

理論武装する人の心理

世の中には非常に多くの人がいることはあえて書く必要もないと思うが、理論武装しがちな人がいる。

博識とされる人に多いタイプだと思うのだが、いわゆる天才ではなく秀才のタイプだと理解している。

それでは、天才と秀才の違いについて、ChatGPTに聞いてみよう。

天才と秀才の違いは?

私のイメージどおりの回答が返ってきたのだが、それがこちらだ。

「天才」と「秀才」は、両方とも優れた才能を持つ人を表す言葉ですが、その意味合いは異なります。
「天才」とは、非常に優れた才能や創造性を持ち、特定の分野で非常に優れた成果を出す人を指します。
彼らは天賦の才能を持っており、学習能力や創造性が非常に高いことが特徴です。
例えば、アルバート・アインシュタインやレオナルド・ダ・ヴィンチなどが有名な天才とされています。
一方、「秀才」とは、特定の分野において優れた知識や能力を持っている人を指します。
秀才は、非常に努力して知識や技能を習得することによって、優れた成果を出すことができます。
例えば、学問や芸術、スポーツなどの分野で優れた成績を収める人々が秀才とされます。
したがって、天才は天賦の才能を持っている人であり、秀才は努力によって習得した知識や技能を持つ人であると言えます。
ただし、両方の人々が優れた成果を出すことができるため、天才と秀才の境界線はあいまいな場合があります。

簡単にまとめると、天才は持って生まれたもの、秀才は努力して培ったものと言えるのではないだろうか。

となるとわかりやすくて、秀才タイプの人は努力をしているものだから、その過程を認めてもらいたいという欲求が少しはあるのだ。

つまり、これだけ勉強してきたのだから、これだけ練習してきたのだからというバイアスがかかって、上から目線になりがちだということだ。

それも意識していないところがたちが悪いというか、気がついたら理論武装しているという状態になっているのである。

そして、理論武装するタイプの人を見分けるのは実はとても簡単だったりする。

難しいことを難しく説明する人は、理論武装するタイプだと断言できる。

あるいは、難しいことを難しく説明すると相手に感じさせたら、理論武装するタイプだということも間違いないと言い切れる。

さらにプライドが高い人もこのタイプの人が多い。

理論武装することは善なのか悪なのか?

結論から言うと、理論武装することは、決して悪いことではない。

というか、何事もそうだと言えるのだが、その目的や手段によって異なることは大前提だ。

その上で、理論武装がという言葉は、主に政治的な文脈で使われることが多い。

具体的には、ある政治的な立場や思想を正当化するために、その立場や思想に関する理論的な根拠を強化することを指す。

となると、社会的正義や平等を実現するために、ある政治的な立場を支持するための理論武装は善であると見なされるだろう。

一方で、極端な思想や、他者を攻撃するために用いる理論武装は、悪であると見なされるといった具合いだ。

また、理論武装が善であるか悪であるかは、その過程でどのような手段を用いるかにも依存する。

例えば、虚偽の情報やデマを用いて、ある政治的な立場を正当化するような理論武装は、悪だろう。

けれども、正確な情報や論理的な論証を用いた場合、つまり真実に基づいて理論武装を行うことは、善であると見ていいだろう。

ただし、理論武装することは周りとの距離を置くことに繋がる場合が多いと私は考えている。

というのも、理論武装は論破することとイコールに近いからだ。

その人の考えや行動を潰してしまう可能性があるので、例えそれが正論であったとしても、理論武装する人からは人が離れていく傾向にあるというわけだ。

理論武装と準備の決定的な違い

上述したとおり、理論武装は時と場合によっては上手くハマることもあるだろう。

けれども、理論武装だけでは実践で使えない、通用しないという場合もたくさんあると思っている。

データ、過去の記録、経験といったあたりから理論武装をしていくわけだが、それが全ての場面に当てはまるとは限らないからだ。

ましてや、これだけテクノロジーの進歩が著しい現代社会では、変数が圧倒的に多くなるので、理論武装と実践では大きくズレる場合が生じやすいというわけだ。

ということで、私は準備することの重要性を説いている。

理論武装もある意味で準備するということにもなるが、理論武装は自分が主体になる場合がほとんどだ。

一方で、準備ということは理論武装と同様にデータ、過去の記録、経験といったあたりから揃えていく必要がある。

そんな中、決定的な違いは、相手の心理を存分に組み込んだものにしなければならないという点だろう。

ただただ、物理的にモノなどを準備する場合にも準備という言葉を用いるが、私のいうところの準備というのは、物理的なところに留まるものではない。

相手の気持ちを掴むために、建設的に物事を進めていくために、徹底して心理を加味して揃えていくことが準備の本質なのである。

準備の時点で結論のほとんどが決まっているという事実

なぜここまで準備することの重要性を説いているのかというと、準備の時点で上手くいくかどうかは決まっているからである。

なにが言いたいのかというと、準備が上手くできていなければ良い結果など生まれるはずもなく、しっかりと準備ができていた場合には比較的上手くいくことが多いというわけだ。

もちろん、徹底した準備を行っていたとしても空振りに終わる場合も多々ある。

けれども、良い結果をものにするためには準備をすることで確率を上げることができるというわけだ。

そのためには、引き出しはとにかく多い方がいい。

たくさんの引き出しの中に、1つでも多くのナレッジを入れておくといい。

その組み合わせを瞬時に行うことが準備することで、そこには経験が大きく影響すると考えているのだが、経験なくしても準備には時間をかけるべきだ。

それでは、経験が浅いと感じる場合、自分1人でやり切ることができないと感じる場合には、どうすればいいのだろうか。

当然、人間なので、初めてやることややってみたけれども自信がないということだって多々あるはずだ。

答えは簡単で共有すればいいのである。

共有することで、自分にはなかったような様々なアイデアが生まれて、それをまた1つの準備としておくことが可能になる。

とにかく、ぶっつけ本番でなんとかなると思っている人や、実際にそうしてきた人に伝えたい。

上手くいっている、良い結果を出していると感じる人は、必ず徹底した準備をしているものだ。

表面上はなにもしていないように見えても、徹底して裏側で準備をしている場合が多い。

そして、それを努力と呼ぶ人もいるだろう。

まとめ

実践に弱い人、本番に弱いと感じている人がいるとすれば、それは圧倒的に準備が足りない。

そのことを書いてきたわけだが、誰かの経験の上での理論武装は役に立たない場合が多い。

1つの引き出しとしてそういったものを備えておいてもいいが、使い道のない引き出しになる可能性も高い。

とにかく重要なことは、実践の場で、本番を何度も自分が手を挙げて自らが動き出すことだ。

世の中には理屈ではまとめることができないことが多々ある。

何度もくり返しになるが、物事を上手く進めていることが多いと思える人がいた場合、その人は徹底した準備を怠っていない人だと認識した方がいい。

一定数の天才はもちろんいるが、そこを目指しても近づくことはできない。

けれども、徹底した準備を怠ることなく、良い結果を生み出す確率を上げていくことは実は誰にでもできるということだ。

 

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植田 振一郎 Twitter

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