時期尚早(じきしょうそう)
→ それを行うにはまだ早過ぎることやまだその時期になっていないこと。
起業準備中なので、話を聞きたいというメッセージが未だにしばしばDMやメッセンジャーで来ることがある。
一時期は丁寧にそういったメッセージに対しても返していた時期もある。
まあ、何者でもない私のアドバイス的なものでも少しは役に立てるかと思い時間を費やしてきたわけだが、いつの間にか相手にしなくなった。
その理由は至ってシンプルで、時間の無駄だと感じたからである。
こちらがいくら熱量を持って語って、少しは刺さったと思ったとしても、結局なにも行動が変わらない人が世の中の大半だからである。
なぜ、そういう人たちに自分の中で最も価値の高いと思っている貴重な時間を割かないといけないのだろうと、アホらしくなり相手にしなくなったように思う。
相手の時間を無駄に奪っている意識がないという悪
あなたが相談に乗って欲しいとかアドバイスが欲しいと第三者が近づいてきたときに、それにきちんと呼応して返答をしたとしよう。
親身になって相手の立場に立って気持ちも鑑みて出した回答に対して、全くなにも受け入れていないと感じたら、どんな気持ちになるだろうか。
あるいは、自分がしたアドバイス的なものをそのまま受け入れて行動を起こした人がいたとしたら、どんな気持ちになるだろうか。
前者はもはやどうでもいいとならないだろうか。
一方で、後者は自分のしたアドバイスによって変な結果をもたらしたら申し訳ないという気持ちが働き、よりその人のために親身になろうとしないだろうか。
もっというと、自分のいうことをそこまで素直に聞いてくれるのであれば可愛く思えるし、嬉しさもあり、自分の方から気にかけるようにならないだろうか。
人の心理というのはそういうもので、世の中はそれを理解していない、ただただ自己満足のために相手の時間を平気で奪っているという意識のない悪で溢れている。
その中の1つが、冒頭に書いた起業準備中というイミフなワードだ。
それこそ、今回のテーマである時期尚早という感覚で発言しているつもりなのだろうが、そもそも起業は準備するものではない。
自分自身が心からやりたいことがあって、それを達成するために取る選択肢の1つが起業というものだ。
つまり、そこには時期尚早も準備もないのだ。
やるべきことをやりたいと思って動き出したらスタートで、そこには時期尚早などという概念はない。
時期尚早という言葉は逃げの言葉
私は時期尚早という言葉が苦手だ。
本当にネガティブな言葉だと思うし、ではまだはやすぎるとかその時期になっていないとは誰基準なのだろうかと思ってしまう。
もちろん、法律のようにお酒やタバコをのむには時期尚早だとか、婚姻関係を結ぶには時期尚早だといった具合いなルールとしての成立は認める。
ただし、自分の意思で決めることができるものに対しては時期尚早という概念などあるはずがない。
何事もできるだけはやくに興味を持ってのめり込むようにやってみることの方がいい。
というのも、人生はいつ終わりが来るかなんで誰にもわからない。
まだ今ではないと待っていて、そのまま人生が終わってしまったとしたら、そこには後悔しかないだろう。
だったら、失敗覚悟でとりまやってみるというスタンスがいいとは思えないだろうか。
そう思えない人は、なにかしらの言い訳をして、ただただ逃げているとしか思えないのである。
だから私は、時期尚早という言葉が苦手というか嫌いだ。
思い立ったが吉日という言葉があるように、ノリの良さみたいなものは本当に大切だと思っている。
一番に手を挙げることで生まれる道
誰かやってみないかという言葉に対して、周りの目を気にせずに真っ先に手を挙げたという経験をしたことがあるという人はどれくらいいるだろうか。
おそらく、多くの人がそういった場面ではいの一番に手を挙げるということはしないように思う。
自分1人でやるにはどうしても不安がつきまとってしまうというところから、萎縮してしまうことが理解できないわけではない。
けれども、よく考えて欲しい。
そんな場面に出くわしたとき、本当に1人ぼっちになるのだろうかということを、よく考えて欲しい。
もちろん、自分1人でもやり切るという覚悟は必要になるだろうが、実際はそんな真っ先に手を挙げた人が1人ぼっちになることは稀である。
なぜなら、そういう人の周りには人が集まりやすいからである。
それから、本当に大丈夫かなということで心配して近づいてくれる自分よりも立場が上の人が現れる可能性も高い。
なぜなら、その人が上手くやってくれることで、自分にもメリットがあるからである。
真っ先に手を挙げた人は自分のスキルアップやキャリアアップを図っているという下心があるだろうし、要するにお互いにとって下心がある状態であることは否定できないだろう。
となると、相互にメリットがあるわけだから、自然と協力体制になるというロジックだ。
好循環を生むチャレンジ精神
何事も恐れずにチャレンジしようなんていうことをいうのは飽きたというか、ありきたりすぎてつまらない。
ということで、違う目線からなぜそんなことを思うのかを考えてみよう。
例えば、ウニという食べ物がある。
好き嫌いはあれど、現代社会では当たり前のように食べられる高級食材として知られている。
けれども、不思議に思ったことはないだろうか。
なんであんなにトゲトゲしい食べることが難しい食材を食べようと思った人がいたのかということだ。
そんなに無理しなくてもと思うのだが、ウニを最初に食べた歴史は古くは縄文時代にまで遡るといわれている。
当時は食べるものも少なかっただろうし、いろいろと試したのだろうが、そんな中でもウニを食べようと決意した人がいたわけだ。
もしかしたら、罰ゲーム的なものだったかもしれない。
お前が食べろよとか、イヤだよ、そんなこというならお前が食べろよ的なやり取りがあって、ジャンケンみたいなゲームで負けた人が食べた。
そしたら、これマジで美味いから、お前も食べてみろよと。
ウソつくなよとかいいながらも食ってみたら、いやいやマジで美味いじゃんみたいな、そんなのが起源かもしれない。
そんなことを考えると同じような食材はたくさんあるだろう。
いずれにせよ、先人たちが紡いできたもので、チャレンジした人が過去にいたという事実は変わらない。
こういう目線からもチャレンジするということはイノベーションを生むと勝手に思っている。
時期尚早と早熟の違い
ここで、1つの疑問が出てくる。
それは、なんでもはやくから始めると要領を掴むので、やったことがない人と比べると当然のことだが、スピードや適格性は上がる。
ただし、それは必ずしも能力があるということとイコールではないということだ。
たまたまはやく始めただけで、単純に早熟な可能性がある。
後から同じことを始めた人に、あっという間に追い抜かれるなんてことは、人生においてはザラにある。
短距離走や長距離走を思い浮かべてもらいたいのだが、基本的に追いかける方が追いかけられるよりも結果が出やすい。
目の前に明確な目標があるのだから、逃げ切るよりも追う側の方が有利というわけだ。
なので、その人の価値を高めていく上で能力があるのか、ただただはやく始めただけなのかの見極めは重要になる。
だからこそ、私は時期尚早という言葉が腑に落ちないところにも繋がる。
多くのことにチャレンジする方が、この早熟なだけだったときのリカバリーが効くからである。
そして、そんなマインドが染みついていれば、もう一度チャレンジして再び上位に立てる可能性だってある。
まとめ
時期尚早という言葉に違和感を覚えている理由について書いてみたが、いかがだろうか。
私の主張は理解してもらえたと思うが、要するに、今ではないということを理由に逃げている人がいるような気がしてならないのである。
それよりも、すぐに行動に移すことができるようなマインドセットする方が、あらゆる面においてポジティブになれる気がしている。
なにかやりたいことがあったり、始めようとしているものがある人に改めて伝えたい。
今すぐに動き始めるべきだ。
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