鼓琴之悲(こきんのかなしみ)
→ 親友と死別した悲しみのたとえ。
広島という狭い場所から解き放たれたいという想いで、高校を卒業して東京を目指した。
結果、1年浪人するというロスはあったが、2001年4月に念願の東京で生活をするという目標は達成することができた。
その後、社会人生活も始まり、学生時代を含めて約10年間という年月を東京で過ごした。
2011年を迎えたあたりからは上海に行くようになり、2013年5月まで上海と日本の往復をするという生活になった。
上海での仕事に一区切りを終えると、翌月の2013年6月には地元である広島に戻ることになった。
その年の9月に一報が入った。
それは、中学生時代の大半を共に過ごしていた友人の死だった。
中学生時代の友人たち
学生時代を振り返ると残酷な側面もある。
それはいい想い出ばかりであればいいのだが、そんなに都合良く物事は進まない。
当然イヤな想い出もたくさんあり、イヤだと感じる時間は学生時代だと永遠に感じることもあるということだ。
その典型例がイジメだろう。
将来のことを考えれば、学生時代など大した時間ではないのだが、そのときは長く感じるものだ。
例えば、中学校なんて3年間しかないのに、その3年間を過ごしている最中にいるときは、案外長かったりする。
そんな時間の感じ方をしている中で、イジメにあうと永遠に感じてしまうものも頷ける。
それに限界を感じて、自ら命を絶つような選択をしてしまう人が現れてしまうことも、わからなくはない。
一方で、そんな時代に出会った友人たちは一生の宝物のように思ってしまうという側面もある。
実際には、月日が流れていくと疎遠になっていくのがほとんどだが、私には記憶に残っている1人の友人がいる。
その友人がタイトルにもなっている、2013年9月に31歳で死別した友人だ。
広島に戻ってきて最初の衝撃
私は広島の小さい街が嫌いで、高校卒業後に東京を目指した。
結果、1年の浪人を経てということにはなってしまったが、東京行きの切符を手に入れると、約10年間という年月を東京で過ごした。
その後、上海で2年と少しの経験を積んだ後に、なんだかんだで広島に戻ってくる。
それが、2013年6月の出来事だ。
さて、なにをしようと考えていた矢先に、とある同級生から一報が入った。
それまでに地元である広島の友人との関係はほとんど絶っており、限られた人としか連絡が取れない状況だったのだが、その一報は一瞬耳を疑うものだった。
名前は伏せさせてもらうが、Mくんが亡くなったという連絡だった。
2014年当時の私たちは、31〜32歳になる年齢だ。
若くはないが、死と隣合わせにあるような年齢ではないことは理解してもらえると思う。
ましてや、Mくんはそんなに病気がちでもなく、むしろ明るくて活発だったタイプだ。
そんな彼が亡くなったというのが衝撃だった。
同級生のMくんとの出会い
私が同級生の死というものを近くに感じたのは、なにもMくんの死が始めてではない。
大学生のときに広島市内で酔っ払った同級生が遊びで橋から川に飛び込んで、そのまま溺死したという事件もあった。
その事件もそれなりに衝撃ではあったが、Mくんほどではなかった。
それはなぜか。
Mくんと過ごした距離感の違いだ。
私は中学生になると、陸上部に少しだけ所属していた時期がある。
たまたま陸上部に入った感じだが、そこにはMくんもいた。
それが、Mくんとの出会いだった。
そこから、Mくんと仲良くなるまでに時間はかからなかった。
というのも、上述したとおり、Mくんはとても明るく周りを盛り上げるようなタイプだったので、私もそんなMくんと一緒にいるのがとにかく楽しかった。
そして、家が近所だったこともあり、登下校もほとんど一緒だった。
朝は私がMくんの家の前まで自転車で迎えに行き、自転車の後部座席にMくんが乗って、いわゆるニケツで登下校していた。
まあ、自転車の二人乗りはダメなのだが、ここは時効ということで勘弁してもらいたい。
中学1年生のときは、私もMくんも比較的真面目に陸上部で放課後を過ごしていたのだが、中学2年生になると私たちは堕落する。
部活に行かなくなり、なにをするわけでもないが、放課後を共に過ごしていた。
Mくんの家に行くことも多く、まあそれなりにやんちゃなことをするときもあった。
Mくんと距離が生まれたタイミング
そんな感じで、Mくんとは中学生のときには、ほぼほぼ同じ時間を過ごしていたのだが、中学校を卒業すると距離が生まれていった。
高校が別々になったタイミングで、少しずつ距離感が生まれていった。
Mくんの行った高校は同じ中学校から進学する人も少なく、あまり楽しくなかったのか、数ヶ月で自主退学すると解体業で働き始める。
Mくんは中学3年生あたりから少々やんちゃな道を進み始めていたこともあり、高校を中退すると拍車がかかる感じもあった。
もちろん、高校を中退して解体業といった、いわゆるガテン系の道を進む人たちを否定するつもりはないが、中にはちょっとヤバい感じになる人もいる。
また、Mくんの家庭環境は複雑だった。
両親は離婚しており、継母がいたりと、中学生の当時はその環境についてなにも思わなかったが、今となればそういった環境も影響していたのではと思ったりもする。
いずれにせよ、高校時代にMくんとの距離は少しずつ生まれていき、卒業するころには音信不通くらいになっていた。
Mくんとの再会
そして月日は流れ、Mくんの訃報が入るわけだ。
正直、最初は葬儀に行くことを悩んだが、やはりここは行こうと決めて、葬儀場を訪れた。
そこで、二度と会話のできない状態になったMくんと再会するのだが、その姿は衝撃だった。
そこにいたのは、私が知っているMくんではなく、体重は100kgを超えようかというくらいの巨体が横たわっていた。
私も背は低いが、Mくんは私よりももっと低くて、おそらく165cmもなかった。
そんな身長の人が100kgを超えるくらいの巨体になっていることが、どういうことなのか理解できるだろうか。
ストレスや食生活の乱れももちろんあるのだが、死因を聞いてかなりショックを受けた。
高校中退後に一人暮らしをしていたMくんの生活は荒れていた。
ガスを吸っていたりという話を聞いたこともあって、正直付き合うのはちょっとマズいと思って距離を置いていたことも素直に認めよう。
その後、Mくんは結婚もしていて子どももいるということは、葬儀の場で知った。
結婚生活をしていても、荒れた生活の部分は多少残っており、とある風邪薬を一気に飲むことでハイになるということで、たまにそんな行動を取っていたらしい。
真似する人がいてはいけないので商品名は伏せるが、亡くなった日もお風呂に入る前に大量の風邪薬を一気飲みして、お風呂に入ったらしい。
そして、そのまま湯船の中で帰らぬ人になったそうだ。
正直、事故死なのか自殺なのかもわからない。
とにかく、中学生の私が共に過ごしたMくんの姿はそこにはなかった。
まとめ
Mくんの死が、久しぶりに同級生と再会するという場をもたらしたのだが、葬儀が終わると、ほとんどの同級生はその場を後にした。
私は焼き場まで行くことにして、その場を後にしたのだが、最後まで涙が出ることはなかった。
もちろん、悲しさはあったのだが、それよりもいろいろと話しを聞いて複雑な気持ちになったことの方が勝ったのだろう。
自分になにかできることはなかったのか、自分の無力さがなんともいえない複雑な気持ちにさせたように思う。
いずれにせよ、亡くなった命が蘇ることはない。
亡くなった瞬間に全ては過去のものになっていく。
広島が嫌で東京に出て、十数年という時を経て広島に戻った矢先に、中学時代をほぼ一緒に過ごした友人の訃報。
私が起業したのが、2014年2月なのでまだ起業する前だったのだが、Mくんの死が漠然と自分がいつ死んでも後悔のないようにというのは思ったかもしれない。
Mくんの死から、さらに9年の月日が流れたことになるが、その気持ちを改めて想い出させてくれるテーマだった。
9年前には想像もつかなかったが、私は今こうして、stak, Inc. のCEOとして日々過ごしていることを、Mくんにも伝えておこう。
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