黄粱一炊(こうりょういっすい)
→ 人生が夢幻のように儚いことのたとえ。
人生が儚いということを感じるピークはどこなのだろうか。
ときどき、そんなことを考えてしまう。
というのも、年月を重ねていくと、必然的に人の死という場面に出くわすことが増えるからである。
使い古された表現だが、人生は一度きりである。
そして、絶対という言葉はほとんどのものに当てはまらないのだが、唯一無二の当てはまるものがある。
それが、人は絶対に死ぬということだ。
広島という特別な場所
広島という地名を聞いて、なにを思い浮かべるだろうか。
場所というか観光スポットとしては、おそらく多くの人が2つの場所を挙げるだろう。
1つは日本三景の宮島、もう1つは原爆ドームや広島平和記念資料館がある平和公園だ。
宮島については今回は語るつもりはないが、もう1つの原爆に関する平和教育について、自分自身の考えを述べておこう。
まず、広島という地を訪れるのであれば、一度は広島平和記念資料館へ立ち寄って欲しい。
ただ、訪れるタイミングというのがあると思っている。
それは、ある程度、大人になってから訪れるべきだというものである。
広島へ行ったことがあるかという質問に対して、修学旅行で行ったことがあると答える人にしばしば出会う。
修学旅行といっても、小学校や中学校の修学旅行で行ったというパターンについて想うことがある。
上述したとおり、広島に旅行で訪れる場合には、宮島と広島平和記念資料館の2つくらいしか観光する場所はない。
まあ、宮島はいいとして、広島平和記念資料館は小学生や中学生で訪れても、正直、意味がないと思っている。
というのも、ただただ見せられるだけでなにも学びがないという印象を持っている。
簡単にいうと、記憶に残らないから意味がないということだ。
私は広島出身で、広島にstak, Inc. という会社を創業している。
とはいえ、仕事の関係のほとんどは、広島の企業ではなく県外の企業ということもあって、しばしば広島をアテンドすることがある。
初めて広島に来るという人や修学旅行でしか広島に来たことがないという人には、必ず広島と聞いてなにをイメージするかを聞くようにしている。
広島のイメージ
まず、広島のイメージとして最も多いのが、お好み焼きだろう。
他にも、広島東洋カープ、マツダ、牡蠣といったあたりが多く挙がる。
飲食については私のオススメのところへ連れて行くし、野球観戦がしたいのであればタイミングが合えば手配をすることもある。
一方で、時間ができたからといって観光スポットとして案内するのは、何度もくり返しになるが、宮島と広島平和記念資料館くらいしかない。
宮島はお決まりのパターンがあるので、そのルートを案内するし、広島平和記念資料館へもアテンドする。
そのときに考えるのが、先に宮島を案内するのか、広島平和記念資料館を案内するのかということだ。
というのも、広島平和記念資料館をしっかり回ると、いろいろと考えさせられる。
戦争のことももちろんなのだが、生と死についてだ。
これは私が他の人よりもアテンドする関係もあって、行っている回数が多いからかもしれない。
1回1回はしっかりと見ることはないのだが、回数を重ねるうちに、前回見ていないところをしっかり見たりするので、結果全体のほとんどをしっかり見ていることになっている。
正直、広島平和記念資料館をじっくり見た後は、気分が落ち込む。
だからこそ、どのタイミングで連れて行くかは人によって変えている。
なぜ広島平和記念資料館にアテンドするのか?
広島で生まれ育った人にとっては当たり前のことなのだが、小学生くらいになると、毎年のように平和教育が施される。
広島で義務教育を受けた人で、はだしのゲンを見たことがないという人は皆無だろう。
広島平和記念資料館にも1回だけではなく、それこそ何回か遠足などでも行く機会があるのが一般的だ。
私は、この広島の平和教育が本当に嫌いだった。
いわゆる洗脳教育の一種だと思っていて、なんのためにやるのか、知らなくてもいいことをなぜ無理やり教えようとするのか、幼心に疑問しかなかった。
過去のことだし、その時代を知らなくても生きていけるし、過去に戦争があって原子爆弾を落とされたことについて、なぜ無理やり教わらなければいけないのか、本当に理解ができなかった。
でも、大人になっていくほどに、この考え方は変わっていった。
私は大学で東京へ出た。
そこで受けた衝撃の1つに、大学の同級生たちや東京で知り合った人たちに、今日は原爆の日だという会話をしても全くピンときていなかったことだ。
広島出身の人なら、原子爆弾が落とされた日が、8月6日であることはもちろん、8時15分に原子爆弾が投下されたことも当然のように知っている。
原爆投下による死者が20万人以上という記憶がある人も多いはずだ。
そんな私たちからすると常識である部分を全く知らないということが衝撃だった。
はだしのゲンで原爆が落ちが瞬間に目玉が飛び出るアニメ映像は恐怖でしかなかったし、記憶から消えることはない。
そんなことが知られていないことがショックだった。
別に原爆投下されたことを後世に伝えたいとか、悲劇二度と起こさせないようにといったような正義感のようなものは全くない。
けれども、こういった事実があったことをせっかく広島に来たのであれば、知っておいてもいいのではという単純な理由が、私が広島平和記念資料館へアテンドする理由だ。
東日本大震災や広島の水害で感じた違和感
一方で、2011年3月11日に起きた東日本大震災がある。
当時、私は東京の日本橋にいて、ちょうど打合せを終えて駅まで見送った後の出来事だった。
今までに体験したことのない地面の揺れに驚愕しながらオフィスに戻ると、東北地方の津波の映像をスタッフが見せてくれた。
最初にその映像を目にしたときには、現実なのか理解できず、戸惑うばかりだったが、時間が経つにつれてどれだけ大きな地震だったのかが鮮明になっていく感じだった。
東日本大震災では死者が15,000人を超えていると警察庁が発表している。
これだけ多くの人が災害で亡くなるというのはかなり大きな事態だ。
けれども、この話を広島ですると、どういう結果になるかご存知だろうか。
ほとんどの人が興味を持たず、へぇ〜という言葉1つで終わるのである。
一方で、広島でも何度か大きな水害が起きている。
東日本大震災ほどではないが、死者も多く出ており、それなりに話題にはなったはずだ。
これを首都圏で話をすると、どういう結果になるかご存知だろうか。
ほとんどの人が興味を持たず、へぇ〜という言葉1つで終わるのである。
このことから、なにが言いたいのかというと、死というのは自分の近くから物理的に遠ければ遠いほど他人事になるということだ。
つまり、身近に死を感じることがなければ、意識することなどないというわけだ。
まとめ
広島を出なければ、私は広島平和記念資料館へ広島に来た人をアテンドすることはなかったと思う。
くり返しになるが、広島平和記念資料館へアテンドすることに正義感や使命感のようなものは皆無だ。
むしろ、私は広島しか知らなかったときには平和教育に対しては、とても否定的な立場だった。
それが、なぜか広島平和記念資料館へアテンドするようになったのかは、死に対する感覚が大人になるにつれて変化しているからだと思う。
上述したとおり、災害による死への距離感が人によって大きく異なることへの違和感もそうさせているのだろう。
広島平和記念資料館を訪れた際には、是非見てもらいたいコーナーがあるのだが、特攻隊として死を覚悟した10代の少年たちが両親や親族にあてた手紙がある。
本来、死というのはいつ訪れるか誰にもわからないけれども絶対に訪れるものだ。
それが、国の命令によって決められてしまったという史実があることについて、なにも感じないという人はいないだろう。
細かいことや戦争の歴史的な背景について議論するつもりはない。
ただただ、死とどう向き合って生きるのかを問いかけている。
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