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2022年9月6日 投稿:swing16o

不自由の中にある自由という矛盾

高談闊歩(こうだんかっぽ)
→ 自由に議論して大股に歩くこと、自由で得意なさま。

あなたは自由だろうか。

このシンプルな質問に対して、多くの人は、否と回答するのではないだろうか。

では、どういう人が自由だと思うか。

このシンプルな質問に対して、多くの人は、お金持ちだと回答するのではないだろうか。

自由という概念

くり返しになるが、自由という概念は自分にはなくて、お金持ちにあると思われている傾向が強いのは事実だろう。

そして、多くの人が自由が欲しいと思っていにも関わらず、現実には手に入らないものだと勝手に思っている。

なぜ、そんなことになるのか。

それは、自由に対する概念をきちんと考えたことがある人が少ないからだと思っている。

私の中では結論が出ていて、タイトルに結論を書いてしまったが、自由とは不自由の中にある概念なのである。

どういうことなのか、具体的な事例を挙げて説明をしていこう。

自由を掴むために必要なもの

冒頭から自由、自由と連呼しているわけだが、自由を掴むためになにが必要なのか。

実際は、あまり深く考えたことがない人がほとんどだと思うのだが、だからこそ多くの人はお金があれば自由が手に入ると思っている。

それは、自由を手に入れた人がどういう人なのかというイメージを挙げるように問えば、よくわかるはずだ。

その回答として多く挙がるのは下記のようなことだろう。

  • なんでも好きなものが買える
  • 豪華な家に住んでいる
  • 豪華な食事ができる
  • 一生お金に困らない
  • どこでも好きなところへ行ける

このあたりに紐づく回答になることが多くなるという自信がある。

それは、単純にないものねだりの部分もあるが、妬み嫉みに近い感覚もあり、もっというと自分はそこにたどり着けないと勝手に思い込んでいる節すらある。

そして、上述した自由を手に入れた人のイメージは大きく2つにわけることができることに気づいて欲しい。

1つ目はお金、つまり経済的に圧倒的な余裕があるということ、そして2つ目は時間、つまりいつでもという時間的制約が圧倒的にないということだろう。

まずは、この一般的な人の持つ自由というイメージがここにあることを覚えておいてほしい。

自由の条件がお金だとした場合

それでは、上述した自由に対するイメージの1つである、お金について考えてみよう。

圧倒的なお金、つまり経済的な余裕があれば、それは自由ということなのだろうかというわけだ。

なんでも好きなものが買えるということに関してだが、好きなものを買うというのは、どういったもののことをいうのだろうか。

例えば、時計が好きでいくつも時計を買ったとしても、そんなにたくさんをつける必要もなければ、なかなか手に入らない時計も多い。

時計よりも高いものとなると、車や家といったものがあるが、同様にいくつも持っていたとしても、そもそも意味があるのだろうか。

確かに大金持ちの中には、そういった人もいるが、そもそも一般人だった人が自由を得るために必要とする、好きなものが買えるというレベルは知れているという主張がしたいというわけだ。

豪華なものが食べられるということについても、せいぜいその金額は知れているし、一生お金に困らないという金額はいくらのことを言っているのだろうか。

こういったことを1つずつ因数分解していくと、実はお金、つまり経済的な余裕というのは、そこまで金額の大きなものではないことに気がつくというわけだ。

というか、一般的な人が100億円とか、1,000億円といった金額を提示したとして、そのイメージがつくだろうか。

すでにそこに大きな乖離があるのである。

自由の条件が時間だとした場合

次に、自由に対するイメージのもう1つの、時間について考えてみよう。

時間が圧倒的にあるということは、どういうことなのかというと、毎朝仕事に行くために起きなくていいとか、土日祝日などカレンダーに関係なく好きに動くことができるということだろう。

これについては、自分自身の体験も踏まえて書いてみよう。

私は月に半分はstak, Inc.の拠点である広島、もう半分は東京にいるといった生活をもう何年もしている。

そんな生活のリズムというか、大幅に狂わされたタイミングがある。

それが、新型コロナウイルスだ。

2020年4月に第1回の緊急事態宣言が発動された。

直前の3月も同様に活動していた私は4月も同様な活動をする予定でいた。

もちろん、まだなにもわかっていなかった新型コロナウイルスに対する最善の予防には努めることは大前提で、そんな中でもやるべきことは山のようにあったからである。

ところが、広島と東京を往復する飛行機はかなりの減便になった。

1日10往復程度はあったのが、2020年4月には1日1往復しかなくなったのである。

それも、広島空港発が確か20時発とかで羽田空港に着くのは21時30分とかで、反対に羽田空港発は7時とかで広島空港着は8時30分といった具合だ。

こんな時間の飛行機しかないので、実質動けない状況に追い込まれたわけだ。

当時はコロナウイルスではなく、クルナ(来るな)ウイルスのせいで東京にいけないとった揶揄をしたのを覚えている。

新幹線で行けばいいという人もいるだろうが、新幹線ですらかなりの減便になっていたし、そもそも広島と東京間の4時間とか耐えられない。

そして、新幹線に限っては、10分に1本は出ていたから待ち時間など感じたこともなかったのに、新幹線が未だに戻っていない路線もあって新幹線は待つこともあるという感覚になっている。

こんな状況だった、2020年4月は一度も東京に行くこともなければ、広島市内を出ることすらなかったと記憶している。

かろうじて家から出るような生活で、時間は有り余っていた。

無駄に午前中も午後にも1時間以上お風呂に入って、Netflixを見たりといった生活をしていたわけだが、本当にもう1ヶ月この生活が続くと考えたら耐えられなかった。

実際は、5月には少しずつ飛行機も増えてGW明けには再び出張をくり返していたが、当時はよっぽど信頼のある人であってもそのことを言うことを控えていた。

特に地方では、こんな中で出かけるなんてという風潮が強く、本当に生きづらい環境だった。

なにが言いたいのかというと、いくら時間があったとしても、やることがなければ全く価値がないということである。

お金があれば時間も買えると思っている人がいるが、これは半分合っていて半分間違っている。

お金で買える時間は、あくまで目的があって買えるもので、なにも目的がない人がいくら時間を買ったとしても、そこに自由が伴うことはないということだ。

まとめ

自由はどこにあるのか。

それは不自由の中にあるということが、私の答えだ。

つまり、自由を求めているうちは自由が手に入ることなどないということで、不自由であるときが実は自由だったりするというわけだ。

逆説的というか矛盾しているように聞こえるかもしれないが、これが真実なのである。

なにかを求めているときは実は自由で、目的や目標があることは不自由ではないのである。

なにもないことの方が自由に見えて実は不自由だということに気づかない人は、全力で人生を駆け抜けていないと言い切ることができる。

こうやって書くと、仕事人間だと否定的な捉え方をする人もいるが、私は別に仕事のことだけを言っていない。

プライベートであっても全く同じことが言えるはずで、そもそも仕事とプライベートを分けていること自体がナンセンスであることも何度も主張している。

あなたが今、自由を感じれないほど多忙であったとしても、それはすでに自由を手に入れていることなのかもしれない。

そして、あなたが手に入れようと思っている自由は実は不自由であるかもしれない。

ほんの少しだけ休憩して、たまにはそんなことを考えてみてもいいかもしれない。

 

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植田 振一郎 Twitter

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