法の歴史と日本の近代的法制度

2022-08-13 投稿: 植田 振一郎

綱紀粛正(こうきしゅくせい)
→ 規則を厳しく適用し不正をなくすこと。

規則を設けるということは、ルールをつくるということである。

なぜルールを設けるのかというと、秩序を守るためといったポジティブな考え方だと思う人もいるだろうが、私はそうではないと考えている。

守ることができない人がいるから規則やルールが生まれるのであって、全てが円滑に回っているのであれば、本来なら規則やルールなど必要ないはずなのである。

ただ、人は複数のコミュニティや組織で活動をせざるを得ないので、必然的に規則やルールを整えていく必要があったというわけだ。

法の歴史

法の歴史は古く、紀元前3000年頃の古代エジプトにまで遡るといわれている。

伝統の重視、修辞的な文言、社会的平等性の尊重、公平性の重視を特徴とする12編に分別された民法があった。

そして、その民法の概念は古代エジプト神話の女神であるマアトに基づいていた。

その後、紀元前2200年頃に、古代メソポタミアの南部に位置したシュメールの支配者であるウルナムムが、平易な表現からなる、現存するうちで最初の法典を策定した。

法典といっても、もしなにかがあればどうするといった非常に簡易的なものであった。

それから、紀元前1760年頃にハンムラビ王がバビロニア法典を発展させた。

ハンムラビ王は、バビロニアの至るところにこの法典を散在させ、国民が閲覧できるように体制を整えた。

バビロニアは、西アジア、メソポタミア南東部、チグリス・ユーフラテス川の中下流域地方を指しており、 世界最古の文明の発祥地とされる。

そこに根付いたのが、一度は聞いたことがあるであろう、ハンムラビ法典である。

こうして南アジア、東アジアといった具合に世界各国で紀元前の頃から法典が生まれていくのである。

日本の法の歴史

1301〜1400年の14世紀、その前半に後醍醐天皇が短期間掌握した政権を建武政権という。

建武政権とは公武合体政権、つまり公家と武家の寄り合い所帯のようなものだ。

そんな政権の性格を考えるためには、公家法と武家法の相違点や関係性を理解しないといけない。

公家法の前身は律令法であり、さらにその母法は唐の律令法だ。

一方、武家法も、公家法から生まれた本所法(荘園法)や国衙法(こくがほう)を母体としている。

このあたりをトータルに見ていかなければ、当時の法文化の実態はわからないというわけだ。

そして、日本では奈良時代と明治時代に2回ほど体系的な法の継受が行われている。

いずれも社会変革を促すために、見本とする法体系を継受しているのだが、異質なものを単に持ってきたようなものではなく、しっかりと受け継いでいるということだ。

具体的には、古代においては律令法を継受するために法そのものだけではなく中国文化全般を採り入れているし、近代においては文明開化に象徴されるように、欧米人の生活スタイルも受け入れている。

しかも、古代と近代ともに、きちんと段階的な継受をしているのである。

律令法とは、645年に起きた大化の改新以後の中央集権的国家の制定した公法を中心とする法体系のことだ。

大化の改新によって支配権を握った畿内および近国の貴族層が、従来のように地方族長を媒介として全国を支配するのではなく、官僚機構によって人民の末端に至るまで統治するための法のことをいう。

古代の法体系の継受

日本の法は、7世紀(601〜700年)初めに、十七条憲法でまずは政治理念を官僚達に植え付けるところから始まる。

7世紀半ばより部分的な法のとして、既にある国内の慣習法となじむものから受け入れていき、7世紀後半に体系的な法の継受を行っている。

飛鳥浄御原律令とそれに続く大宝律令がそれにあたる。

要するに、政治システムをはじめとした文化のパッケージを取り入れる準備を行った上で、中国法(律令法)を体系的に取り入れているのである。

近代の法体系の継受

実は、徳川吉宗が将軍の座にあった江戸時代の享保期以降、幕府は中国法を熱心に勉強している。

その合理性や体系性を学び、幕府法や藩法の立法に役立てたのである。

その影響もあり、江戸時代後半には合理的な思考法を持つ者が登場し始めており、幕藩体制の中で官僚制は根づき、都市型文化も開花していた。

つまり、西欧法をはじめとする近代文化を採り入れる準備は江戸時代には既にできていたといえる。

古代の法体系と近代の法体系の共通点

古代から近代まで通じる法の継受の手法には共通点がある。

それは、中国の文化圏ではありつつも、政治的な支配を受けていたわけではなく、属国として法を押しつけられたわけでもないということだ。

つまり、日本は先進の文化を自主的に摂取していったという経緯がある。

その手法は、まず海外の法を継受する際に、自国の法制度や法慣行をきちんと研究し、国情に合わないものは削除および修正をしている点にある。

それから、母法以外の他の外国法もきちんとチェックしている。

母法というのは、例えば古代日本における唐の律令法などがそれに該当する。

近代の例では、欧米諸国の王位継承法を比較検討しながら、なおかつ伝統法にもとづき編纂された皇室典範が該当する。

もし、そこに制定されていない内容を日本で立法する場合には、唐代以前の中国法に、その正当性の根拠があるのかを探している。

こういった手法は、先進諸国に一人前の国家として認められるためには必要なことであったわけだ。

つまり、正当性の根拠を他の外国法から見出そうとし、内から見ても外から見ても恥ずかしくないようなものに練り上げているのである。

近代的法制度の形成

1853年の開国以来、不平等条約の改正と富国強兵を至上命題とした日本は、早期の近代化を果たすため、急ピッチで欧米式の法制度を整備する必要に迫られた。

まず、国内法の代表として、国家が守らなければならない最高法規としての憲法がある。

開国後の日本では、まず1889年(明治22年)に、大日本帝国憲法が発布された。

ただし、現在の憲法とは大きく異なり、大日本帝国憲法では天皇が国の政治の在り方を決めることとされており、国民の人権は天皇から与えられたものとされていた。

また、議会も裁判所も天皇を補佐する役目とされていた点で、欧米式の憲法に比べると、大日本憲法では君主である天皇と国の権限がかなり大きかった。

この大日本帝国憲法は、終戦後の1946年(昭和21年)に新たに日本国憲法が、大日本帝国憲法の改正という形で制定されるまで続く。

そして、憲法のもと、国家が国内の治安を維持し、また犯罪者を更生させるために科す刑罰について、国家が勝手に国民を処罰できないように、犯罪の基準を明確にした刑法が制定された。

一方で、国民が自由に行う経済活動や、家族に関することには国家が介入しないことが望まれる。

こうして、自由な国民同士の関係を規律することで国民の活動が円滑に進むようにし、また国家の介入を許さないようにすることを目的とした民法も制定された。

その後、19世紀以後には国際社会の規模が拡大するにつれ、一国と一国の間の約束事だけでなく、戦争や平和の際の世界的なルールを設ける必要が生じてきたという流れだ。

日本で立法された法の運用

これまでは立法の過程を書いていったわけだが、実際に立法された法をどのように運用していったのかについても日本ならではの特徴があると國學院大學の長又高夫法学部教授はいう。

それは、律令法は元来古代のものではあるが、明治に至るまで国家公法として機能しているのである。

どういうことかというと、律令法を体系的に継受して以降、律令法を基本法としながら、他方で特別法を次々に立法し変化し続ける社会に対応させていったということだ。

つまり、時代のニーズにあわせて立法的法解釈を行っていったのである。

これが日本の法文化の大きな特徴の1つであり、明治まで律令法が生き続けた理由だという。

まとめ

法治国家が当たり前の現代を生きている私たちだが、そこにも常に歴史が紡がれている。

大日本帝国憲法に象徴されるように、今とは全く異なった法律のもとに人々が生活していたわけだ。

改定されたのが、1946年なので76年前の出来事だということは、ついこの前までは全く最高法規が掲げられていたわけである。

こうして歴史を振り返っていくことでいろいろと見えてくる世界があるというのは、法の世界でも同様だということである。

 

【Twitterのフォローをお願いします】

植田 振一郎 Twitter

stakの最新情報を受け取ろう

stakはブログやSNSを通じて、製品やイベント情報など随時配信しています。
メールアドレスだけで簡単に登録できます。