咬牙切歯(こうがせっし)
→ 歯を強く食いしばったり歯ぎしりすることで、転じて、恨みや憎しみが強いこと、激しく怒ること。
喜怒哀楽という感情を表現する四字熟語があるが、多くの人が知っているはずだ。
その文字のとおり、喜び、怒り、哀しみ、楽しみを表現しているわけだが、感情があるからこそ、人間なのである。
ただ、この感情表現には最も重要な概念に導くことができていないと真剣に訴える人を思い出すことがある。
喜怒哀楽の上に笑う、笑いという概念があり、それが人間の感情で最上位にあるものだというのである。
人間の感情で最上位にあるもの
日本にあるもので独特の進化というかレベルの高いカルチャーとして、お笑いというジャンルを挙げる人がいる。
この主張については、私も同感する部分は確かにある。
漫才、コントを含めて、いわゆるバラエティ番組というのが、テレビ番組の中心にあることは否定できないだろう。
そして、この意見は私独自のものというものではなく、上述したとおり人から影響されたものではあるのだが、妙に納得したことを覚えている。
くり返しになるが、それが笑いが人間の感情で最上位にあるものだという主張だ。
喜怒哀楽になぞってみたときに、喜びと楽しみについては笑いが連動することは理解できるので、そこはスルーしよう。
どれだけ怒っていても、どれだけ深い哀しみの中にいても、笑いが上回るというのである。
確かにそうかも知れない。
私も短気な方なのでよくわかるが、どれだけ怒っていても、怒りの矛先があまりにもポンコツ過ぎたりすると笑えてくる。
そうなると、怒りよりももはや笑いに変わってくるということだ。
これは哀しみについても同様で、どれだけ落ち込んでいても、面白いと思うことが続くとつい笑顔になってしまうということだ。
自殺しようとしていた人がお笑い番組をたまたま見て、自殺することを思い留まったなんていう美談を聞くことがあるが、それこそまさに好例だと思うのである。
つまり、喜怒哀楽の上の概念、人間の最上位にある概念は笑うこと、笑いにあるという考え方は、あながち間違っていないということだ。
イジることとイジメの境界線
こういう主張をすると、いじめの問題と一緒にするような人も出てくる。
つまり、笑いはいじめに繋がるというのであるが、なかなかセンシティブなところではある。
ただ、結論からいうと、笑いといじめはレイヤーが全く異なり、リンクしないというか交わることがないということである。
というのも、笑いは思っている以上に高度な技術にも関わらず、そのことを意識せずに誰もが自然にできることだからである。
笑いが生まれれやすい瞬間を考えてみると、誰かをイジるという場面がわかりやすいだろう。
これを、いじめという見方をしてしまうということである。
確かに紙一重に見えるかもしれないが、ある程度の関係がなければ、そもそもイジることはないはずだ。
簡単なことだが、全く知らないすれ違っただけの人を急にイジるということはないだろう。
そんな人がいたら、それこそヤバい人だ。
一方で、いじめについても考えてみよう。
基本的に、いじめも相手のことを少なからず知っているわけで、初対面の人をイジメようとは思わないはずだ。
なにかしらの理由があって起こす行動なので、そういう意味では入口はイジると同様というわけだ。
ただ、明確に異なる部分がある。
それがゴール、つまり目的の部分だ。
イジることは笑わせることが目的、つまりポジティブに持っていくことがゴールな一方で、イジメることは相手をなにかしらで貶めようとするネガティブに持っていくことがゴールになる。
要するに、人間は目的があるから行動するのであって、その目的がそもそも異なるので、イジることとイジメることはレイヤーが全く異なるということである。
笑うことで生まれる一体感
イジることがポジティブな方向に持っていくための手段だということは上述したとおりだ。
そして、イジることは笑わせるというポジティブな方向に持っていくという技法である。
その結果として笑いが起きて、その場にいる人が笑うというロジックである。
そして、この笑いで生まれる団結が、怒りの団結よりも哀しみの団結よりも圧倒的に強固であるというわけだ。
笑うことで生まれる一体感が最上位にあるということである。
実はこれは組織をつくっていく上でとても役に立つことだと考えている。
わかりやすいのは、学校の教室、つまり学生時代のクラスの雰囲気ではないだろうか。
一般的に面白い人とされる人は、はっきり言って面白くない人だ。
正確にいうと、ある一定の人たちには面白いと判断されるかもしれないが、その領域は実はかなり狭い。
30〜40人のクラスメートがいるとしたら、本当に面白いと思っている人は実はせいぜい5人程度で多くても10人程度だろう。
ただただ動きで笑わせようとしたり、クオリティの低いモノマネだったりする。
一方で、イジるという行為は全く異なる。
それは、イジり方を間違えると笑いは一切生まれないのである。
逆にいうと、上手にイジれば笑いが伝播して、全体が笑いに包まれるという相乗効果が起きるのである。
笑いという最上位の概念から生まれる一体感が団結するのに最適かつ最強な手法であるというわけだ。
なぜイジることに否定的な人がいるのか?
ところが、上述したとおり、イジることとイジメることを混同して考える一定層の人がいる。
なぜそんなことが起きてしまうのかについても、私は1つの解を持っている。
実はここにも小さいプライド問題が存在すると考えている。
つまり、イジられることに対してプライドがあって、バカにされているとか攻められていると過剰に反応してしまうということである。
そして、イジることに大前提にある程度の信頼関係がなければ成立しないという大前提を理解していない人だということもあるだろう。
再度主張しておくが、イジることは高度なことで、単独プレーではできないのである。
周りを巻き込んでいかなければいけないスキルなので、その理解がない人はそもそもイジることができないし、もっというとイジることが苦手な人はコミュニケーションを取ることが苦手な人だ。
イジることは決して悪ではなく、円滑にコミュニケーションを図るための手法の1つだということが受け入れられないから、イジることとイジメることを混同してしまうというわけだ。
まとめ
こうやって書くと、あなたはイジメられた経験がないから、そういうことができると主張してくる人もいる。
いやいや、勝手に決めつけないで欲しいと思うのだが、私も小学校5〜6年の頃にイジメられたという経験がある。
近所に住んでいた同級生がいて、いつの頃からずっと登下校を共にしており友人関係にあった。
ところが、ある時期から相手が一方的に敵対的な立場を取るようになった。
私がいつもと同じようにその子の家に朝迎えに行くと、お母さんが出てきて、その奥から勝手に人の家に来んなやというようなかなりの怒号が聞こえるのである。
明らかにその同級生の声であり、お母さんからは先に行ってもらえるかということを言われる始末だ。
そんなことが2〜3日続くと、迎えに行かないようになる。
そして、学校の棚に置いてあった私のテニスラケットを取ろうとすると、なぜか取れないといったこともあった。
くっついていて離れない感触があり、力いっぱい取ると明らかに瞬間接着剤で止められた跡があった。
そんな私の姿を廊下の置くから見て笑っている同級生が何人かいて、なんて陰湿なことをするのだろうと思った。
その記憶は未だに鮮明にあるわけで、よくいわれるようにイジメた人は覚えていないが、イジメられた人はずっと覚えているというまさにそういう状況だろう。
他にもいくつか同様にイヤな想いをしたことはあるが、これ以上は要望がない以上は書く必要もないだろう。
いずれにせよ、私がイジることとイジメられることの線引ができるし堂々とその主張ができるのは、イジメられたことがあるし、私は人をイジることができるからである。
【Twitterのフォローをお願いします】