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2022年4月10日 投稿:ueda

世界中で再び注目を集めている禅という文化

虚心坦懐(きょしんたんかい)
→ わだかまりのない素直な心境、無心の状態。

無心と聞くと、いい意味で捉えられがちだ。

ただ、広辞苑での意味となると、若干印象が変わってくる。

  1. 心ないこと、何の考えもないこと、思慮や分別のないこと
  2. 情趣を解する心のないこと、無風流
  3. 遠慮なく物をねだること
  4. 邪念のないこと

この4つが無心の意味として書かれているのだが、1〜3まではそこまでポジティブではない。

今の時代にポジティブに捉えられ、仏教や禅で使われる無心は4の邪念がないことだということは明白だ。

仏教辞典には、明確に無心の意味が記してある。

心とは心の働きで、その働きがないことを無心という

仏教では、妄念を断滅した真心を指していうとされる。

また、心は対象に具体的な相を認めて働き、その相にとらわれるが、そのようなとらわれ、迷いを脱した心の状態、つまり無心こそが真理を観照できるとされる。

簡単にいうと、邪念がない状態である無心の状態でこそ、真理を追求できるということだ。

そして、仏教と並び禅という文化が今再び注目されている。

世界中で注目されている禅の世界とは?

禅は、坐禅などの修行を通じ、釈迦の悟りを自らの身を以て追体験することを旨としている。

つまり、宗教とは少々概念が異なり、修行の過程で言葉では表現できないなにかを会得し、釈迦の教えを学び取るものである。

禅という言葉そのものは、仏教における3つの実践行の1つである、禅定(ぜんじょう)の略なのだ。

1つのことに心を注ぐことを意味し、ある種の精神統一のことと捉えるといいだろう。

そんな禅は、約2500年前、釈迦がインドのブッダガヤの菩提樹の下で坐禅を組み、悟りを開いたことで、ここがスタート地点だともいえる。

ただ、一般的には、釈迦から数えて、28代目の弟子にあたる達磨(だるま)からだとされている。

南インドの王子として生まれた達磨が、修行の末に会得した禅を携えて中国に入った6世紀頃が起源だという。

日本に禅を拡めた人たち

日本において、禅が宗派として独立したのは13世紀、鎌倉時代初期のことだ。

その立役者は、もともと天台宗に学び、当時の宋へ留学した栄西(えいさい)と道元(どうげん)だ。

栄西は日本で最初の禅宗となる臨済宗を開き、その特徴は公案と呼ばれる特殊な問答にある。

臨済宗は貴族や武家といった上流階級の支持を獲得し、多くの有名な禅寺を残している。

そして、臨済宗の開創より30数年後に、道元が開いたのが曹洞宗だ。

ただひたすらに坐禅を行うその禅風は黙照(もくしょう)禅と呼ばれている。

ちなみに、曹洞宗の坐禅は達磨と同様に壁に向かって行うのに対し、臨済宗では修行者が対面して坐禅を組む。

その後、江戸時代に中国臨済宗の系譜を継ぐ高僧である隠元が来日帰化し、念仏と習合した禅である黄檗(おうばく)宗を日本に興す。

こうして、現代の日本における大きな禅の宗派は、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の3つとなったわけだ。

世界のトップエリートが禅にハマる理由

Appleの創業者であるスティーブ・ジョブズやTwitterの共同創業者のエヴァン・ウィリアムズが禅や瞑想を学んだことは有名な話だ。

そこにマインドフルネスが流行ったこともあり、近年は欧米で禅への関心が高くなっている事実がある。

その根底にエグゼクティブは、実践主義には限界があるという危機感を抱いていることがあるという。

つまり、論理的な思考だけでは突破できない壁があることを、知覚しているということだ。

だからこそ、自分の枠を超えるために哲学や思想を身につけなければと感じていて、世間で役に立たないと思われている哲学や禅に興味を抱くのではないだろうか。

禅を学ぶことで文化を受け入れることにも繋がるという。

例えば、日本人は麺を食べるときに音を立ててすする。

これは日本では当たり前のことだが、欧米では行儀が悪いとされているところもあり、不快に感じる人も多い。

それが、禅を学ぶことでただの音だという認識することで、なにも感じなくなるというのである。

重要なのは、自分自身が不快を受け止めることができるのかを知ることだという考え方だ。

また、聖徳太子が読んだとされる、維摩経には不二法門という考え方があることも知っておくといいだろう。

善と悪をわけているのは自分の頭の中であって、善悪はもともと1つだという考えのことだ。

人は善悪をわけることで、勝手に心地よくなっているというのである。

禅において大切だとされること

禅において3つの大切なポイントがあるという。

まずは信仰心、2つ目は精進、最後に疑問の3つが大切だとされている。

わかったと思った時点で、すぐにそれに疑問を持てという考え方である。

これが絶対だと思った時点で、固定観念に執われてしまっているというのだ。

確かにその側面はあるかもしれない。

一度理解したと思ってしまえば、生涯その考え方が変わらないという人も多くいるように思う。

それが巡り巡って、現代では老害といわれたりもするのではないだろうか。

あえて梯子を外すことを恐れないというか、自分がこうだと思ってガッーと突っ走ることがあっても、ふとした瞬間にそれを一気に崩す。

そういうことができる経営者が禅にも興味を持つ傾向があるという。

それがまさにスティーブ・ジョブズやエヴァン・ウィリアムズのような人たちだというのである。

まとめ

正直、私はそこまで禅というものに興味はない。

というのも、そういったメンタルケア的なものについては、あまり意味がないと思っているからだ。

それよりも、ハマりすぎておかしくなった人たちも知っているので、懐疑的なところも多々ある。

結局、自分がしんどくて、逃げる先やなにか楽になる方法としての手法として使われているように感じてしまうのである。

もちろん、否定するものではないし、そこに情熱を燃やす人たちがいても不思議はない。

禅の根本にも、苦しみから解放されるわけでもないし、そもそも完全な人間になれるわけではないという考え方があるそうだ。

そこをしっかりと理解した上でハマることは問題ないと思う。

人に強要するものでもないと思うし、あくまで自分自身の生き方をどこに置いて、なにを目指すのかを決めたときに禅というものが補助的に使えるかもくらいの気持ちが健全だと感じている。

 

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植田 振一郎 Twitter

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