騏驥過隙(ききかげき)
一瞬の出来事。また、時の過ぎ去ることが早いたとえ。
第1回目の緊急事態宣言が出されたのが、いつだったか覚えているだろうか。
緊急事態宣言は、新型コロナウイルス対策の特別措置法に基づく措置として、2020年3月13日に成立した。
つまり、間もなく2年が過ぎ去ろうとしているわけだ。
振り返ると、2020年の4月は全く動けずに、広島の自宅にほぼほぼ引きこもり状態だったことを思い出す。
対面で人に会うことが許されず、出かけようとしても実質出かけられない状況だった。
例えば、飛行機で東京に行こうとしても、広島発の飛行機が1便しかなくて、その出発時間も21時前後といった感じだった。
そして、羽田空港から広島への便は早朝の7時前後。
これは実質、東京に来るなということで、コロナウイルスじゃなくて、クルナウイルスだと揶揄していたことが懐かしい。
2年という月日が生み出したもの
この2年で世の中は大きく変わった。
それも、ネガティブな方向になったところが大きいように思う。
冠婚葬祭で親族ですら対面が許されなかったり、病院での面会もできない。
お見舞いも行けなければ、出産の立会いもできず、初孫なのに会う頃には歩き始めていたなんてことも当たり前のように聞く。
小学校の給食では黙食なんていう言葉もできて、オンライン授業に対応できない教師が続出している。
マスクをしていなければ注意され、アルコール消毒の設置されていない場所を見ない日はない。
なにかあれば、コロナだからということで解決できるという免罪符が成立した。
なによりも、この閉塞感がいつまで続くのか、本当にこのままでいいのか、向き合っている人が少ないように感じる。
周りの人がしているから、メディアが伝えているからという理由で、エビデンスを確認することもなく、よくわからない恐怖に怯えている。
そして、コロナが落ち着いたらという合言葉が未だに飛び交っている。
もはや、2年の月日が経っているのに、未だに収束するということを唱えている人はやはり思考停止している。
合理的な判断の重要性
私は、新型コロナウイルスに対して、マスクをしなくていいとか、反ワクチン派でもない。
実際にマスクもつけているし、ワクチンも接種したし、最低限のマナーはわきまえて日々生活をしているという自負がある。
移動することも多いので、PCR検査も6回受けている。
その上での冷静な主張であることは理解してもらいたい。
生活の一部を切り取るだけでも、やはり異常だと思ってしまう場面があまりにも多いと感じるのだ。
先日聞いたのは、私には姪と甥が7人おり、小学校に通っている姪と甥が3人いる。
小学校6年生、4年生、2年生というラインナップで、3人が同じ小学校に通っている。
その小学校の4年生のクラスでコロナ陽性の生徒が出たらしい。
そのときの学校の対応は、小学校4年生は10日間の自宅待機で、それ以外の学年は3日間の自宅待機というものだったそうだ。
つまり、小学校6年生の姪と小学校2年生の甥は3日間だけ家にいて4日目には登校するのだが、4年生の甥は残り7日を自宅にいるのである。
ここになにも違和感を覚えず当たり前のように指示を出している学校は、やはり異常だと思ってしまう。
同じ小学校内で起きていることで、自宅待機の日数に差を出すことで解決できることなのだろうか。
自宅待機の日数にもなんの根拠もなく、それを強いられる各家庭にどれだけ負担がかかるか、考えたことがあるのだろうか。
合理的な考え方ができないトップがいると、こういう無意味な対策を平気で指示してしまう。
自分たちだけ特別な判断はできないと、周りの目を気にして全員の意見を受け入れようとして、結局最も中途半端な対応をしている。
今一度、合理的な判断を的確にリーダーシップをもって行う人が増えて欲しいと願うばかりだ。
経済の停滞が生み出すもの
私はまがいなりにも経営者という立場だ。
人命が大切だということは百も承知で、人生は生きていることが大前提だ。
でも生きていくためには生活をしていかなければならない。
そうなると、現代社会では仕事をして対価を得るということが根底に必要になる。
ここの部分を経営者は常に考えて行動を起こしていかなければならない。
そこに制限がされると、誰も守れなくなってしまうことは声を大にして言いたい。
そして、なにもしなくなったツケは思っている以上に大きく帰ってくると断言できる。
コロナのせいにしてサービスを止めたり、不毛な新しいルールを設けることで生まれるのは、閉塞感だけだ。
一度止めたことを新しくやることが、どれだけハードルが高いかを考えて欲しい。
人は基本的に楽な方向へ流れる。
なにもしなくてもお金がもらえるのであれば、なにもしないという人が圧倒的多数派だということだ。
でも、誰でもわかると思うが、なにもせずにお金を生み出し経済を回せることなどあり得ない。
今は政府主導で多くの税金が補助金や助成金という形で企業にも投入されているが、その根本にあるものは税金だ。
様々な税金があるが、企業が経済活動をして納めた税金が巡り巡って補助金や助成金になる部分は非常に大きい。
企業が雇用を生み出すことで個人の税金も賄えていることも視野に入れるべきだろう。
この循環がまだ保たれているように見えるが、限界が近づいていることはもっと理解した方がいい。
だからといって、新型コロナウイルス前と同様に、どうぞとなってもすぐにはエンジンがかからない部分も多々あるだろう。
つまり、この閉塞感が続けば続くほど、コロナが収束したらという合言葉が形骸化するということだ。
まとめ
人生はただただ生きていくだけでは意味がない。
人生は豊かに生きなければならない。
豊かさに判断は人によって大きく異なることは十分に理解しているが、2年間という月日は決して短くない。
学生時代を思い出して欲しい。
一般的に小学校は6年間、中学校は3年間、高校は3年間、大学は4年間という括りだ。
そのうちの2年間を大人たちの勝手なルールで無駄にしている青春時代を過ごしていることを考えるだけでも理不尽でしかない。
マスク越しでの会話が当たり前になると感情の読み取りが苦手になるということも理解できる。
友人たちに会うこともできず、旅行へ行くことも許されずの人生が本当に楽しい人生だと思えるのだろうか。
新型コロナウイルスを遠ざけるのではなく、共存する方法を科学に基づき合理的に考え、前に進んでいくしかない。
少なくとも私はそういう言動をしていくことを改めて宣言しておこう。
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