汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)
→ 牛が汗をかき、棟につかえる意味から、それほど蔵書が多いというたとえ。
牛が汗をかき棟につかえる意味からといわれても、私にはいまいちピンと来なかった。
より調べてみると、本が非常に多くて、牛車に積んで運ぶと牛も汗をかき、家の中に積み上げれば棟木にまで届いてしまうという意味らしい。
単純に本が多いことを意味するらしいが、私は勝手に牛を怠惰な象徴として擬人化し、本が多い場所にはそんな怠惰な牛ですら集まってくる魅力があるということだろうと思った。
そりゃ牛に悪いから謝れという話なのだが、そういう意味にした方がいいような気もしなくない。
この解釈から派生させる形になるが、自分の興味のあるもの、つまりハマるものがあれば、どんな状況でも自ら訪れるというか行動を起こすはずだ。
その理由は、単純に楽しくて充実しているからに過ぎない。
それをたった一言で逆側に押しやる言葉がある。
それが、ブラックという言葉だ。
ブラックという言葉が与えるもの
(出典:日経ビジネス)
まず、書いておきたいのは久しぶりに時間の無駄だと心から思える記事であることを述べておこう。
こんな記事が日経ビジネスに書かれていることにも驚きだが、1記事としてカウントされていることに著者も媒体も共にレベルの低さを露呈しているとしか思えない。
時間のない人のためにリンクを最終ページにしておいたが、簡単にいうとスタバに労働組合ができた理由がモバイルオーダーで頻繁に注文が入るため、現場がパンクしていることにあるというものだ。
そんな中身のないスカスカな記事なのに、タイトルにアマゾンという言葉を使い、ブラックという強烈なワードを織り込むことで、明らかにバズを狙っている。
いや、改めて書くが本当に酷い記事だ。
スターバックスがブラックだと煽動しようとしているとしか思えない価値のない記事だ。
私と同様に、てっきりテック系のことだと思って読んだ読者も少なからずいるのではないだろうか。
ただただ、ブラックというネガティブに便利な言葉を使えばアクセス数が稼げるだろうという安易な著者の考え方が浮き彫りになるだけだった。
このように、時代に合わせて生まれてくる言葉はときとして強烈にネガティブに使われることがある。
私はこのブラックという言葉に違和感しかない。
ブラックという一言は純白もグレーも漆黒に変える
こんな現場を何度も見てきている。
それは会話の中で、そんな職場環境はブラックだから辞めた方がいいとか転職した方がいいと第三者が発言するような場面だ。
その第三者は家族や友人であったりすることも多いが、当事者ではない。
あくまで、その人から聞いた内容だけで勝手にブラックだと決めつけているという場面だ。
これは、本当はそうでもないのに、ブラックという強烈なワードを入れれば、本来はそこまで悪いと思っていないことも、やっぱり悪いんだというバイアスがかかる可能性が高い。
軽い気持ちで話したのに、やっぱりブラックなんだと勝手に脳が認識し、一気にネガティブに捉える方向に流れるということだ。
それだけ、現代社会では、ブラックという言葉が強いインパクトを与える力を持ってしまったのである。
ブラックという表現は、純白を黒に変えるだけでなく、グレーも黒に変えてしまう強力な力があるということだ。
つまり、簡単に使っていい言葉ではない。
ブラックという言葉に惑わされてはいけない理由
ブラックかどうかは、必ず自分で決めて欲しい。
他の人に判断を委ねてはいけないし、他の人がブラックだからといって、自分で確かめもせずにブラックだと決めつけてはいけないということだ。
このあたりも絶対に勘違いして欲しくないのだが、stak社のCEOとして、ブラックを推奨しているわけでもないし、ブラックな環境を作ろうとしているわけでもない。
本当に物事にハマっているときは、いわゆるブラックという環境にあったとしても、自分自身はそう思っていないということである。
例えば、夜遅くまで働くこと、会社に泊まり込むようなことがあっても、自らが好んでやっている場合もあるということだ。
これは、周りから見ればブラックの定義に当てはまるだろう。
ただ、あくまで自分自身で決断して、自らがその場に飛び込んでいる状況なのである。
要するに、基準は自分が決めることで、ブラック企業などと関係のない人が決めることではないということだ。
少なくとも、私はそういう環境で多くを学んだ。
ブラックとホワイトの境界線
あなたはどうなることを望んでいるのだろうか。
私が社会に出たときは、多くを学びたかった。
なにも知らない若造が急成長するには、不器用でもとにかく働くしかなかった。
となると、会社に寝泊まりするようなこともあったし、今でいうと完全にブラックな環境にいた。
けれども、それは自らが望んでというか、そんな意識もない中で勝手に自分でそうしていた。
もちろん、体力的にしんどいと思うことがなかったとは言い切れないし、必ずしも良い環境で働けていたとも言い切れない。
とはいえ、確実にいえることがある。
それは、私はそういう状況にいたことが今に繋がっていて、そんな選択肢を取った自分が間違っていなかったと心からいえる。
周りからすれば黒だったかもしれないが、私にとっては純白だった。
まとめ
何度もくり返すが、第三者が簡単にブラックという言葉を使ってはいけない。
ブラックな環境だとわかっていても、そこを脱するために努力を行っている最中かもしれないし、時代が変われば変化に対応していかなければならない。
その期間はブラックという見え方になっても仕方がない部分もある。
スターバックスがモバイルオーダーという新しいテクノロジーを導入することで注文が殺到して現場がパンクする自体が起きているからブラックだという安直な意見は最低だ。
モバイルオーダーを導入することで注文が殺到しているということは、そこにニーズがあるということだ。
つまり、ビジネスとして成立することが確実にわかっている。
後はその体制を上手に整えていけばいいだけの話なのに、現場がパンクしているから労働組合ができてブラックだと関係のない人間が吠えている。
百歩譲って、その状況が永遠と改善できていないのであれば、ブラックだと批判することはできるかもしれない。
それを表面だけを切り取って記事を読ませたいからバズりそうなワードを使って集客を狙うなど、言語道断だ。
これぞまさにテクノロジーに対する冒涜だと私は思っている。
ブラックの基準はその場にいる人が、その人の判断で決めることで、ビジネスにおいては黒が白に変わることも往々にしてあるということを主張しておきたい。
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