家族が集まり、睦まじく楽しむこと。
恥ずかしい話、私の家族は一家団欒という言葉からはかけ離れている。
父、母、姉、私、弟の5人家族の構成なのだが、全員が揃って最後に食事をしたのは、私が小学生のときではないだろうか。
そんな記憶もないくらい、家族という単位に関しては少し他の人と目線がズレているかもしれない。
父親がギャンブル狂でとか、母親がとんでもないヤサグレたとか、そんな盛り上がりそうな話題があればいいのだが、そういうわけでもない。
ただただ、父親と母親の夫婦関係が冷めていることが当たり前の家庭で育った。
父方の実家に母親が行くことはほぼなく、逆もまた然りで、どっちかの田舎で家族全員で宿泊したという記憶が一切ない。
こんな話を他の人にすると驚かれる。
けれども、私からすると家族全員でご飯を食べるということが信じられないというか、いわゆる一家団欒というもののイメージが全く沸かないのである。
完全に破綻している夫婦関係を続けている父親と母親の感性が全く理解できず、どこか冷めたところがあるのは否めない。
一方で、姉と弟は子宝にも恵まれて、おそらく一家団欒の形を手に入れていると信じたい。
私の場合は、stak社がそれに置き換わるものだということで、一旦は美談としておこう。
そんな私の感覚からすると、一家族単位というのはどうしてもズレてしまうと思うので、こんな観点からの話に切り替えてみようと思う。
以前、江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜のことを書いたときのエンゲージメントが高かったので、同じような目線で話をしてみよう。
そんな中、一家団欒というテーマに結び付けられそうな記事を見つけたので、まずは一読して欲しい。
徳川家康がなぜ15代後までの265年も一族を反映させることができたのか、その礎がよくわかる。
今でこそ江戸の拠点となった現在の東京は日本の首都で世界でも有数の大都市だ。
ところが、戦国時代の末期、現在の関東地方は田舎とされていたエリアだ。
豊臣秀吉が天下統一を成し遂げるための最後の大仕事が、当時そのエリアを牛耳っていた後北条氏を攻略することだった。
後北条氏の拠点が小田原で、徳川家康もこの戦いに豊臣秀吉側で加わっていた。
攻略を終えた豊臣秀吉が徳川家康に命じたのが、関東への移封、つまりは国替えだ。
小田原は重要拠点になるから、家臣の中から信頼できる者を充て、徳川家康は江戸に築城するように命じた。
徳川家康の拠点は三河で今の愛知県や静岡県だったのを強引に関東に移させたのだ。
ときの都は大坂(今の大阪)と京都である。
徳川家康の力を恐れた豊臣秀吉ができるだけ遠ざけた結果である。
当時の江戸周辺は低湿地帯が多く、とても価値のあるようなエリアではなかった。
そんな土地に新たに城や街をつくるのは至難の技であると誰もが考えた。
後北条氏の拠点であった小田原や鎌倉に拠点を構えることが無難だというのが定石。
でも、徳川家康の考え方は違った。
大坂が拠点となっていた理由は河川や海の水運を上手に使ったところ、つまり物流の大切さをわかっていた。
そこで、関東エリアの河川を制することを始めたのだ。
日本一の流域面積を誇る利根川は、江戸市中にたびたび洪水被害をもたらしていた。
徳川家康は文禄3(1594)年に、利根川の付け替え工事に乗り出す。
江戸湾に流れ込んでいた利根川の流れを太平洋に面した銚子へと移すというかつてない大工事を行ったのだ。
そこから31年もの歳月をかけて完成させている。
徳川家康は、慶長5(1600)年に関ヶ原の戦いで勝利してから、天下普請の発令、要するにインフラ整備を命じた。
諸大名の力を図らせる目的もあり、忠誠心を見せるために多くの大名が徳川家康の命に従った。
徳川家康は元和2(1616)年にこの世を去るのだが、まさに彼の戦略がその後の江戸の繁栄に繋がっているのだ。
まさに先見の明があったということだろう。
ピンチはチャンスというありきたりな言葉をあえて使わせてもらおう。
逆境に立たされたとき、目先の利益だけを求めず、長期戦に備えることも視野に入れることの大切さを日本の歴史から説いてみた。
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