一字の使い分けによって、人を誉めたりけなしたりすること。
細かいことが気になる人、細かいことを指摘されるとあからさまに嫌悪感を出す人、いろんなタイプの人間がいる。
多様性に対して世は寛容になりつつある。
一方で、SNSが情報発信や情報収集ツールとして定着したことを利用して、一部を切り取って悪意ある情報への置き換えも進んでいる。
全文を読めば全く違う内容だったりする発信も、タイトルと画像だけでPVを稼ごうとする無価値な記事で溢れている。
そして、時間があるのか、他にすることがないのか、そんなフェイクニュースに食いついて叩きにいく人が一定層いるのも事実だ。
ターゲットにされた人が再起不能になるまで叩かれることも珍しくなく、方っておいてもまた新しいターゲットが生まれる。
いつの日からか、その人のことを知らないのに、否定から入ることをやめた。
周りの人からの評判が悪くても、自分が会ったときに感じたことが真逆だったということも多々ある。
その逆も然りなのだが、是々非々で判断しなければいけないことを理解しているつもりだ。
とあることに関しては同じ意見であっても、別のことになれば意見が違うことも当然ある。
それなのに、そこは考え方が違うと指摘すると、嫌いとか感覚が合わないといって感情をむき出しにするのは、いかがなものだろう。
全く考え方が同じ人と一緒にいることが居心地がいいと感じている以上、成長などない。
というか、世の中に全く自分と同じ考えの人などいないはずだ。
そんなことはないという人は、相手が無理して合わしている可能性があることを十分に理解すべきだ。
それから、世の中には様々な人で溢れていて、時代とともに受け入れ方が拡がっていく。
ここ数年の間に少しずつ浸透してきたHSPというワードを知っているだろうか。
Highly Sensitive Personの略称なのだが、とても敏感な人を指す。
具体的には、丁寧で深い情報処理を行ったり、過剰に刺激を受けやすかったり、感情の反応が強くて特に共感力が高かったり、些細な刺激にも反応するといった例が挙がっている。
病気や障害を表すものではないとのことだが、自分自身について考えてみると、そこそそ当てはまるところもあるように思う。
特に丁寧で深い情報処理を行うところで、車のナンバーや電話番号の並びに意味を見出そうとするなどと書かれている。
もちろん、全てにおいてそんなことを考えるわけではないが、なにかストーリーがあるのではないかとか結びつきを勝手に考えてしまうことはある。
他にも、聞きたくなくても周りの声が勝手に入ってきたり、過剰に刺激を受けやすいという側面も少なからずある気がする。
このあたりについては、もっと図太くありたいという気持ちもあるし、無視すればいいと自分にいい聞かせたりすることもある。
その一方で、こういった感覚が一切ない人は、クリエイティブなことだったり、相手の立場に立って考えるということが苦手なのではないだろうか。
他人を喜ばせたりすることが好きとか、エンタメにも向いていない気もする。
それであれば、HSPよりの人間でいた方がむしろいいのではと最近は考えるようになった。
想像力というか先のことを考える力や巻き込んでいくためのストーリーを考えることは、おそらく多感な方がいい。
切り拓いていく際には、図太さというか周りを一切気にしない強いハートのようなものが重要な要素になる。
でも、そのきっかけを作るものも必要となる。
この絶妙なバランスが、stakにいい影響を与えることができるようになればいいと思っている。
人が作った仕掛けの上で楽しさや嬉しさを味わうことも嫌いではないが、自分が仕掛けたもので楽しさや嬉しさを味わってもらいたい。
私はそんな人間だ。
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