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2025年1月18日 投稿:swing16o

変わらない美学は現代社会で得なのか損なのか?

万古長青(ばんこちょうせい)
→ 永久に変わらないこと。

万古長青という言葉が持つ響きには、人の心をどこかしら強く引きつける力がある。

絶対に変わらないもの、どんなに時代が動いても変質しない価値観や思想を貫くことが崇高だと信じている人は少なくない。

だが、その「変わらない」姿勢が本当に正しいのかどうか、現代社会においては大いに疑問がある。

なぜなら、この時代は誰の目にも明らかなほど進化のスピードが上がっているからだ。

インターネットの普及、AIの台頭、IoTの進化など、ここ10〜20年で様々なテクノロジーが驚異的な進歩を見せ、さらに今後も加速度的に発展していく見通しが強い。

つまり、何もかもが短いスパンで大きく姿を変えていく局面に立っている今、「変わらない」ことの価値は本当に守り切るべき美学なのか。

万古長青という言葉の由来と背景を振り返りつつ、不変の美学を信奉する人々がなぜ変化を拒むのか、それによって生じるリスクは何なのかを検証してみる。

万古長青の歴史と背景

万古長青という言葉は、もともと「万古(ばんこ)にわたっても、青々としている」という意味を持つ。

主に中国の古典に由来するとされ、季節の移り変わりによって変色することのない松や柏などの常緑樹を指して使われることが多かった。

大昔の人々にとって、自然界にあって四季を通じて変わらず青い葉を茂らせる常緑樹の姿は、まるで永遠の生命力の象徴だった。

そのため「時代が移ろいでも絶対に変わらない価値」の例えとして、儒教や仏教などの教えにも影響を与えてきた。

実際、戦国時代の武将たちは、松や竹のモチーフを兜や家紋に採用していた例がある。例えば武田家の軍旗や家紋にも、神聖視された文字や植物が多数あしらわれている。

人は古来から変わらない自然物に対して、畏敬や信仰を抱いてきたのだ。

さらに江戸時代に入ると、町人文化が花開き、浮世絵や歌舞伎など多彩なエンターテイメントが生まれたものの、武家や大名の間ではやはり万古長青、つまり絶対に揺るがぬ信念や伝統こそが尊いという風潮も根強く残っていた。

その影響は明治以降も一部の人々の心に引き継がれ、伝統工芸や芸能を守る象徴となった。

また、日本の大企業が掲げる経営理念や企業スローガンにも、万古長青的なフレーズが潜んでいるケースがある。

常に変化を恐れず挑戦を続けるという意味ではなく、「永遠に変わらぬ信条を守り続ける」スタンスを前面に打ち出す企業も見受けられる。

この姿勢が事業の継続性を担保してきた歴史も事実としてあるので、一概に否定はできない。

ただ、歴史を冷静に見渡すと、世の中は常に変わってきた。

人間の文明も科学技術も、絶え間ない変化を経て、今の形にたどり着いている。

例えば蒸気機関の発明や電気の普及、インターネットの誕生など、革命的なブレイクスルーをいくつも乗り越えながら社会は前進してきた。

この事実を踏まえると、万古長青の象徴的な意味合いが、今の時代に完全にフィットするのかは疑問が残る。

変わらない美学と現代社会

不変や永遠にこだわる人はなぜ生まれるのか。

一つの理由は、人間の心理的な防衛本能にある。誰しも自分が安心できる枠組みを壊すのは怖い。

新しいものを導入するには労力がかかるし、場合によっては失敗のリスクを背負う。

だからこそ、慣れた仕組みや考え方を手放したくないと思うのが人間の性質だ。

さらに、日本社会には「空気を読む」という文化が根深く存在する。

周囲の意向や伝統を重んじるあまり、自分自身は進化を望んでいても、「周りがこうだから」「前例がないから」と変わることに抵抗を示す。

すると周囲も同調しあい、結果としてみんなが変化を避ける空気に包まれてしまう。

これが「不変こそ正義」という誤解を支える一因になっている。

ただ、変化を拒む姿勢は今の超高速で動く社会において明らかにデメリットが大きい。

IoTやAIの進歩によって業務効率や生活の質が劇的に向上するチャンスがあるのに、それを取り入れないまま過ごすのは、自ら利益を投げ捨てているようなものだ。

もちろん、何が自分にとって本当に必要で、何が不要かを見極める作業は必須だが、最初から頭ごなしに「そんなの知らない」「昔からこれでいい」と思考停止になるのは損失が大きい。

ここで注目すべきデータとして、内閣府が2020年に行った調査「科学技術と社会に関する世論調査」がある。

その中で「新しい技術に対して興味がある」と回答した人は全体の74%にのぼった一方、「新しい技術はなんだか怖い」と回答した人も54%存在した。

つまり多くの人がテクノロジーに興味を持ちながらも、同時に不安を抱いている状況がある。

興味があるのに行動しない背景には、「変わらないことが美学」という思い込みが根付いている可能性が高いと言える。

テクノロジーと進化を拒絶するリスク

時代を振り返ると、技術を拒絶した組織や人は例外なく衰退している。

例えば映画業界でいうと、フィルムからデジタルへ移り変わりに対応できなかった企業は市場から姿を消した。

かつてカメラフィルムで一世を風靡したコダックも、デジタル技術にうまく乗れず経営破綻に追い込まれたという事例がある。

これは万人が知るところだろう。

一方、AI時代においても同じ構図が見られる。

AIを導入した企業と導入しなかった企業では、生産性やコスト削減に圧倒的な差がつくようになってきている。

具体的には、製造業におけるAI活用による不良品検知の効率化が大手企業の生産コストを20%近く削減したデータが海外の事例として報告されている。

これに対して、AIは信頼できないという先入観を拭えず従来の目視検査に固執した企業は、全体の利益率で10%以上の差をつけられたという。

こうした数値は米国の調査機関LNS Researchが2019年に発表したレポート「The State of Industrial Digital Transformation」によるもので、日本でも類似の傾向が現れている。

また、IoT機器の導入例としては、工場設備の稼働状況をセンサーで監視し、故障の予兆をAIが自動分析するシステムを導入した企業が約30%のメンテナンスコスト削減につなげたというデータもある。

これは日経ビジネスが2021年に取り上げた事例で、IoT導入に積極的だった自動車部品メーカーの成功例だ。

変化を受け入れるかどうかが、企業の継続性や競争力を大きく左右することが明確に分かる。

ここで「自分は関係ない」と思う個人もいるかもしれないが、実はそうではない。

時代の変化についていかない個人は、労働市場でも不利になる可能性が高い。

AIやITスキルをある程度持っている人と持っていない人で、賃金格差が広がり始めているというデータも国際労働機関(ILO)の調査報告書に出ている。

具体的にはプログラミングやデータサイエンスのスキルがあるだけで平均年収が25%以上高くなるという報告があり、その傾向はこれからさらに強まると見られている。

不変を貫く美学は伝統や文化を守る上で重要な局面もあるが、テクノロジーや進化を一律に拒絶してしまうと、企業や個人が社会的に取り残されるリスクが飛躍的に上がる。

その結果、経済的にも損失を被り、最終的には生活や将来のキャリア形成に大きな穴をあけることになる。

変化を受け入れるための具体例とエビデンス

変化を受け入れると言っても、なんでもかんでも新技術を手当たり次第に導入すればいいという話ではない。

大事なのは、自分の目的や価値観を明確にしつつ、テクノロジーや新しい考え方を「まず試してみる」姿勢を持つことだ。

結果的に合わなければやめればいいし、合えばそのまま取り込んでいけばいい。頭から否定するより、遥かに建設的といえる。

例えばIoTの世界では「PoC(Proof of Concept)」と呼ばれる概念がある。

これは新しい技術やサービスを大規模に導入する前に、小さくテストを行って効果を確認する方法だ。

実際、大手自動車メーカーのトヨタや日産も新技術の導入前には必ずPoCを行い、成功事例から学んで徐々に本格展開へ進めるアプローチを取っている。

また、AIを導入する際のハードルとして「自分たちに関係ない」「導入コストが高い」という声もよく聞く。

しかし、クラウドベースのAIサービスを利用すれば、初期コストを極めて低く抑えられる。

Amazon Web Services(AWS)やMicrosoft Azureなどのプラットフォームを利用して、数千円単位から試験的に導入する企業が増え始めているという報道がIT専門誌でも目立つ。

こうした小さな実験を積み重ねることで、意外なところに新しいビジネスチャンスが生まれるケースもある。

個人レベルでも、例えば無料で使えるプログラミング学習サイトやAIを活用したオンライン学習プラットフォームが充実している。

小学生から利用できるプログラミング教育ツールが増えたことで、親世代が「変わること」に抵抗を示さなければ、子どもの将来の可能性を大きく伸ばせると言われている。

実際、スタンフォード大学の研究で「プログラミング教育を早期に始めた子どもは、13〜18歳の段階で論理的思考や問題解決力において平均20%以上の差をつける」というデータがある。

ここでの差は学歴だけでなく、将来の職業選択にも直結すると見られている。

さらに、SNSや動画配信プラットフォームを活用して自分の作品やアイデアを広め、収益を得る個人クリエイターが急増している。

YouTuberやTikTokerが典型的な例だが、実際にトップ層のYouTuberは年収数千万円から数億円規模の報酬を得るという報道も珍しくない。

これを「くだらない」と斬り捨ててしまうのは自由だが、そこには確かに巨大なマーケットが生まれている。

変化を受け入れた人たちだけがその果実を手にしている現実がある。

こうした事例を踏まえると、変化を拒絶して「昔ながらのやり方」を守ることが必ずしも悪いわけではないが、テクノロジーや進化に対して門戸を完全に閉ざす行為は、ほとんどの場面で損をすることになると言える。

特に今後10年、20年で世の中が大きく変わる可能性が高い中で、そのリスクはますます高まるだろう。

まとめ

世の中には「変わらないこと」を美学と捉える人が一定数いる。

しかし、万古長青の原義は確かに「永遠に青々と生い茂る存在」だが、それは無理に現代社会のあらゆる事象に当てはまる概念ではない。

不変の伝統や文化に価値を置くことは素晴らしい面もあるが、テクノロジーや進化を拒絶することとは同義ではないはずだ。

人類史を振り返ると、私たちは常に変化を受け入れてここまで来た。

農耕の開始、産業革命、情報革命、そして今のAI革命まで、全ての転機で拒絶派と受容派に分かれながら、最終的には受容派が主流となってきた。

これは、変化を取り込んだ方が豊かさや利便性を得られるからに他ならない。

もちろん、どんな技術にもリスクやデメリットは存在する。

でも、それを理解した上で使いこなす力こそが現代を生き抜くために必要だと思う。

なにより重要なのは、自分の頭で考えて取捨選択することだ。

試してみて合わなければ捨てればいいし、合うと判断したら活用すればいい。

最初からフル拒否してしまうのは、人生の可能性を自ら狭める行為だと考えている。

万古長青という言葉を理解するのは良いが、それを理由に一切の変化を拒むのは少々安易に過ぎる。

自分の人生や事業において、本当に必要なものは何か、なぜ必要なのかを考え抜き、その上でテクノロジーや新しい概念をどう活用していくのかを検討するのが筋だと思う。

現代社会では、AIやIoTをはじめとした新技術が続々と登場している。

これを脅威と見るかチャンスと見るかで、企業や個人の未来は大きく変わる。躊躇している間に競合や他の個人が先に進んでしまうかもしれない。

小さく試してみて、そこで得たデータや経験をもとにさらに一歩進む。

そうやって自分なりに成長していくことこそ、真の意味で強い「万古長青」に近づく手段だと信じている。

 

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植田 振一郎 X(旧Twitter)

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