眥裂髪指(しれつはっし)
→ まなじりが裂け、髪の毛が逆立つほどの怒り。
私は短気だと思う。
その自覚はあるし、なぜそうなのかということについても説明ができる。
私の短気なところが出てしまうのは、大抵がなぜそんなこともできないのだろうと思ってしまう場面だ。
つまり、普通に考えればそんなことにはならないだろうというときに、想定外の時間を奪われたときが最も短気さを自覚するときだ。
具体的な例を1つ挙げるとしよう。
例えば、コンビニで長蛇の列ができていたという想定だ。
私の前に並んだ人が2つ、3つの商品を手に取っている。
その人の支払いの順番になったときに店員さんが商品バーコードをスキャンしていく。
商品すべてをスキャンし終われば当然支払いとなるわけだが、そこで財布をカバンからゴソゴソ取り出して、小銭を探し始める。
現金で支払うのであれば、並んでいる間に準備しておけば、少しでも時間が短縮できる。
なによりも、このご時世に未だに現金を使っている。
私はこういうことに対して、本当に無駄な時間を取られていると感じてしまう。
そして、そんなことでイライラしなくていいじゃんと思う人もいるだろう。
それがまたストレスに感じることもあるわけだが、肝心なことは無駄に時間を奪われることに対する嫌悪感だ。
明らかに自分のミスではなく、防げたはずのことで時間が奪われることを極端に嫌う。
まあ、最終的にはそんな場面に出くわした自分自身の責任だというところで落ち着かせるわけだが、瞬時にそこに持っていけるようになるまでは、まだ時間がかかりそうだ。
短気は損気という概念
短気は損気ということわざを聞いたことがある人は多いだろう。
怒りっぽく短気な性格では損をすることが多いという意味だ。
すなわち、思考や行動が急で短絡的だと、よく考えずに間違った判断をしてしまったり、他人との関係を悪化させたりする可能性が高いという教訓を示している。
つまり、ゆっくりと時間をかけて事を進め、冷静に状況を見極めた方が良い結果をもたらすことが多いというのがこの言葉の背景にある考え方だ。
もちろん、言わんとしていることは理解できるのだが、どうも昔からこのあたりが苦手だ。
なぜなのかを考えたときに、逆説的ではあるが、怒りを原動力にしている自分がいるからのように思うのだ。
なにが言いたいのかというと、そんなこともできない自分に腹が立つという、いわゆる負けず嫌いな性格が根本にあると考えている。
良くいえば、自分自身を律しているというか、自分に厳しく接しているという見方ができるはずだ。
ただ、だからこそ、他の人にもそんなこともできないのかと厳しく当たってしまう部分も出てきてしまう。
これが短気に繋がっている部分なのだという解釈だ。
それこそが、自己中心的で自分のことしか考えていないと否定的に思われるかもしれないが、冷静なときでも私のこの感覚はそんなにズレていないと思う。
つまり、瞬間的には短気は損気ということも理解しているが、自分の中ではその処理ができない。
なぜなら、全員がもう少し時間という概念を大切にすることで、防ぐことのできる怒りがたくさんあるからだと思っているからだ。
怒りを原動力に変える
改めて読み直してみても、自分を正当化するための言い訳のように聞こえるかもしれない。
けれども、私自身は怒りを原動力に変えているのも事実だということは明確に宣言しておきたい。
くり返しになるが、なぜこんなことも自分ができないのかという悔しさに似た感覚が怒りとなって自分自身を動かす。
この感覚が根本にある。
そして、そんな怒りからの言動で1つずつクリアしてきたからこそ、今の自分が形成されている部分が大きいと感じている。
これもポジショントークになってしまうかもしれないが、その方がバイタリティがあるように思うのだ。
何度もくり返しになるが、感情の起伏を抑え、淡々と冷静にこなしていくことも重要だということは十分に理解している。
それでも、瞬間的に怒りが発動する場合がまだまだ多い自分を未熟者だと言われても、そこには怒りが湧くことはない。
むしろ、自分自身がよく理解している部分なので、そういう風に冷静に見てくれる人に対しては好意的な印象を受ける。
怒りという感情との向き合い方
怒りが湧くときと湧かないとき、それがなぜなのかを考えると、本来、怒りというのは非常に強いエモーションで、それがもたらすエネルギーは大きい。
だからこそ、自分自身が行動するための重要な原動力にもなる。
そういう意味では、怒り自体は悪いものではない。
問題は、その怒りをどう扱うか、どう向けるか、どう制御するかということだ。
怒りは、そのまま放出されると、周囲の人々や自分自身に対して大きなダメージを与えることがある。
ところが、怒りを適切にコントロールし、自己改善や問題解決のための原動力に変えることができれば、それは非常に価値あるエネルギーになるというわけだ。
また、怒りを感じること自体は、人間が社会生活を営む上で必要な感情の1つであるとも言える。
それは、ある種の不平等や不公平、あるいは自分自身の期待に反する何かが存在することを示している。
その怒りを自分自身の内部に向けることで、自己改善や自己成長を促すことができる。
つまり、怒りは自分自身を向上させるための重要なエネルギー、原動力となる。
私の場合、自分自身の非効率や不適切な行動に対する怒りは、それを改善するための強力なモチベーションになるということは上述したとおりだ。
それから、他人に対する怒りも、その人に対する理解やコミュニケーションの改善を促すためのきっかけになる。
そう考えると、怒りは絶対に否定すべき感情ではないというのが私の主張だ。
とはいえ、その一方で、怒りを感じることとそれをどのように表現するかは別問題であることも理解している。
怒りを感じることと、それを適切に表現し、それを生産的なエネルギーに変えることには、典型的な型というものがない。
それは、自己制御や感情のマネジメントといった、人間関係の中で非常に重要なスキルを必要とする。
ツラツラと怒りについて書いてきたが、結局のところ、怒りは感じるものであり、それをどのように扱うかは自分次第であるということだ。
いくら偉そうに言葉を書き並べても、私自身もまだまだ未熟者で、怒りを感じたときの反応を完全に制御することは難しいことはわかっている。
ただ、私はその怒りをコントロールし、それを建設的な形に変えていく方法を常に模索している。
私がそれを達成するための1つの手段として挙げることができるのは、自己反省だ。
自分自身の怒りの原因をよく考えてみると、それが自分自身の非効率や不適切な行動によるものであることが多い。
自己反省を通じて、私は自分自身の行動パターンや思考パターンを見つめ直し、それらを改善することにより、怒りを生産的なエネルギーに変えることができる。
自己反省の過程で、自分の欠点や間違いを認識し、それを受け入れることで、自分自身を理解し、受け入れることで、自分の行動や思考を律することが可能になる。
怒りが出てくる瞬間に自己反省を始め、その怒りをなにか生産的な形に変えるための糧に変えていく。
これが、私が思う怒りと向き合う方法だ。
まとめ
自分自身の不完全さを受け入れ、それを成長のための力に変えるプロセスが怒りとの向き合い方だと述べた。
そして、これからの私も怒りの感情を抑えるだけでなく、それを自己成長のエネルギーに変えるために日々を過ごすことになるだろう。
そして、その過程で、自分自身の感情をコントロールするスキルをより高め、自分自身と他人との関係をより良くすることができるようになることを期待している。
怒りは、ある種のエネルギーであり、それ自体は悪ではない。
重要なのは、それをどのように扱うか、どのように向けるか、そしてどのように制御するかだ。
怒りを正しく扱えば、自分自身を前進させ、行動を促すエネルギーになりうる。
それは、未熟な自分を鍛え上げ、成熟した自分を生み出すための原動力になる。
そして、それには自己反省と自己認識が不可欠である。
自分がなにに対して怒り、それがどのように自分の行動に影響を及ぼしているかを理解することが重要だ。
また、自己反省によって自分自身の欠点や問題点を見つけ出すことができれば、それを改善するための具体的なアクションを起こすことが可能になる。
その結果、自分自身がより効率的で生産的になるだけでなく、他人との関係も改善し、全体としてより良い環境を作り出すことができる。
これが怒りという感情を人間が持っている理由になるのではないかと哲学的な一言で締めくくっておこう。
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