死中求活(しちゅうきゅうかつ)
→ 難局を打開するため、敢えて危険に挑むこと。
どれだけ追い込まれていても、一発逆転できることはある。
それは歴史が証明していて、どういう場面がわかりやすいかを考えたときに、戦国時代だという結論に至った。
ということで、史実に残っている戦国時代の一発逆転劇を紹介していこう。
一発逆転した戦国の戦い
三方ヶ原の戦い
三方ヶ原の戦いは、1550年に現在の広島県東広島市の三方ヶ原で行われました、毛利元就と大内義隆の戦だ。
毛利元就は、大内義隆に対して反乱を起こし、大軍を率いて攻め込んだ。
当初、毛利軍は大内軍に対して圧倒的な兵力で攻撃したが、大内軍は頑強に抵抗し、毛利軍の前進を食い止めていた。
そして、大雨が降り、毛利軍の糧食が濡れてしまい、兵士たちは飢えと寒さに苦しんでいた。
この状況を見た大内軍は、夜中に奇襲をかけ、毛利軍を混乱させると、毛利軍は大損害を被り、撤退を余儀なくされた。
ところが、毛利元就は諦めたわけではなく虎視眈々と逆転のチャンスをうかがっていた。
そして、毛利元就は、大内軍が撤退する際に後ろから攻め込んで、大内軍を追い詰めたのである。
大内軍は大混乱に陥り、多数の死傷者を出して敗北すると、この戦いによって毛利元就は西国の覇権を握ることに成功したのである。
三方ヶ原の戦いは、毛利元就が自身の優位性を失わず、戦術的に巧みに逆転勝利を収めたことで有名だ。
また、戦場での天候や糧食など、環境要因が戦いの結果を左右することも同時にわかる戦だ。
川中島の戦い
川中島の戦いは、1553年から1564年にかけて、現在の長野県北部にある川中島で行われた、武田信玄と上杉謙信の戦だ。
武田信玄と上杉謙信は、ともに東国の覇権を争っていたが、お互いなかなか勝ち目がなく苦戦していた。
そこで、武田信玄は戦術を変えた。
従来の激しい突撃戦ではなく、機動力を生かした戦い方を展開したのである。
そして、上杉謙信が攻めてきた際には、迅速に撤退して敵を引きつけ、夜間に急襲をかけたり、隙をついて城を落とすなど、相手の弱点を見極めた戦い方をした。
この戦術のおかげで、武田信玄は一時は劣勢に立たされることもあったが、最終的には上杉謙信を撃破し、東国の覇権を握ったのである。
川中島の戦いは、武田信玄が戦略的思考を重視し、機動力を生かした戦い方を取ることで、一発逆転の勝利を収めたことを示している。
三千人の戦い
三千人の戦いは、1555年に山口県周南市の上山城で行われた、毛利元就が指揮する西軍が尼子勝久が指揮する東軍に勝利した戦だ。
尼子勝久が率いる東軍は、城下にいた毛利元就を攻めためていたが、毛利元就は3,000人ほどの兵を連れて城から出撃し、東軍に挑んだ。
東軍は、数に勝る西軍に対して、火攻めや石撃ちなどの攻撃を仕掛けた。
西軍は、激しい攻撃を受け、多くの兵を失ったが、毛利元就は最後まで戦い続けた。
そして、東軍の攻撃が手薄になったところを突き、敵将の尼子勝久を討ち取り、一発逆転の勝利を収めたのである。
三千人の戦いは、西軍が数的不利な状況でも、毛利元就の勇気と指揮によって一発逆転の勝利を収めたことを示している。
また、三千人の戦いは、毛利元就が西国を支配する中で、勢力拡大の一環として行った戦いでもある。
西国を中心とする勢力が東国の勢力に勝利したことで、戦国時代の勢力図が大きく変わるきっかけとなったのである。
桶狭間の戦い
桶狭間の戦いは、1560年に今川義元率いる駿河今川軍と、織田信秀率いる尾張織田軍の間で行われた戦だ。
この戦いは、織田氏が勢力を拡大する上で重要な勝利を収めた戦いとして知られている。
当時、今川氏は織田氏にとって大きな脅威となっていた。
ところが、今川義元は桶狭間の戦い前に、甲斐武田氏と対立しており、その軍勢と別れていた。
このため、今川軍は数で勝るものの、武将たちの士気が低下しており、織田軍の奇襲に対処できなかったという。
織田軍は、木曽義仲の一騎当千による奇襲攻撃を仕掛け、敵軍の前線を崩壊させた。
その後、織田軍は今川軍の本陣を攻撃し、今川義元自身も戦死したという戦だ。
桶狭間の戦いにより、織田氏は今川氏の脅威を大幅に軽減することができ、今後の勢力拡大に繋がったとされる。
また、桶狭間の戦いでは、織田軍が鉄砲隊を投入したことも注目されている。
当時、鉄砲はまだ珍しい兵器であり、今川軍はその威力を予想していなかった。
桶狭間の戦いによって、鉄砲が日本の戦場で一般的な兵器となっていくきっかけとなったのである。
姉川の戦い
姉川の戦いは、1570年に織田信長率いる織田軍と、徳川家康と武田信玄連合軍の間で行われた戦だ。
この戦いは、信長の支配下にあった尾張国の南方に位置する三河国を巡っての争いだった。
徳川家康と武田信玄は、三河国を巡って対立していた。
このため、武田信玄は今川義元を攻めていた織田信長と同盟を結び、共同で三河攻略を目指すことになったのである。
武田信玄は家臣の真田幸隆に10,000人の大軍を与え、信長の本拠地である岐阜城を攻めさせた。
織田信長は、岐阜城に残留する家臣たちを率いて、信玄軍を迎え撃った。
織田軍は、鉄砲隊を中心とした戦術で信玄軍を攻撃し、信玄軍は苦戦を強いられた。
ところが、真田幸隆は側面から織田軍を攻撃することに成功し、織田軍を後退させた。
すると、織田信長は自身が居た本陣に火を放ち、敵軍を誘き出した。
そんな織田信長の策略にかかり、大混乱となったのだが、この混乱の中で徳川家康の家臣の水野勝成が突撃し、織田軍の後方を切り崩した。
そして、この突撃により、織田軍は壊滅し、織田信長自身も負傷した。
姉川の戦いにより、徳川家康と武田信玄の対立は解消された。
賤ヶ岳の戦い
賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いは、1575年に現在の滋賀県東近江市にある賤ヶ岳で行われた、織田信長と浅井長政と朝倉義景連合軍の戦だ。
織田信長は、当時勢力を拡大していた浅井長政と朝倉義景の連合軍に対して、兵力的には不利な状況だった。
ところが、織田信長は独自の戦略を持っていた。
敵軍を誘い出すためにわざと山麓まで撤退し、敵軍が追い詰めて攻撃してくるのを待ったのである。
そして、敵軍が攻撃を開始した際には、織田信長は精鋭部隊を伏兵として配置していた山中から奇襲をかけた。
その結果、敵軍は混乱し、多数の死傷者を出して後退した。
この奇襲によって、織田信長はわずかな兵力で大勝利を収め、一発逆転を果たしたのである。
この賤ヶ岳の戦いは、織田信長が天下布武を掲げて戦国時代を統一する上での大きな一歩となった。
また、織田信長が独自の戦略を用いて勝利を収めたことで、戦国時代における戦い方の新しい可能性を示したとされている戦だ。
長篠の戦い
長篠の戦いは、1575年に現在の愛知県豊川市付近で行われた、織田信長と武田信玄の戦だ。
織田信長は、武田信玄の勢力拡大に対抗するため、多数の大名を味方につけて西国に進軍した。
ところが、武田信玄は織田信長の動きを予測し、数々の陣地を築いて抵抗した。
信長軍は、陣地を1つずつ攻略していくのだが、最期の陣地である長篠城はなかなか落とせなかった。
そして信長軍は、包囲を続けながら城内の糧食を断ち、信玄軍を飢えと寒さで苦しめた。
そんな状況で、武田信玄は予想外の一手を打って、反撃に転じたのである。
武田信玄は、自らの兵を川沿いに潜ませて信長軍を包囲し、同時に城内からも攻撃を仕掛けた。
すると、信長軍は敵の奇襲に驚き、大混乱に陥る結果となり、織田信長自身も矢に貫かれて倒れるという混乱を招いた。
そんな状況の中、信長軍はなんとか反撃し、敵を打ち破った。
長篠の戦いは、織田信長が圧倒的な兵力で信玄を攻め立てる中で、武田信玄が予想外の奇襲で反撃し、信長軍を混乱させたことで、一発逆転の勝利を収めたことを示している。
また、長篠の戦いは、武田信玄がその短い生涯で最期に立ち向かった戦いでもあり、彼の勇気と短い命を象徴する戦いでもある。
山崎の戦い
山崎の戦いは、1582年に京都の近くで行われた、石田三成が指揮する西軍が織田信長の軍勢を撃破した戦だ。
織田信長が死去し、その後継者争いが起きていた頃、石田三成が指揮する西軍は、徳川家康が率いる東軍に敗れ、兵を失っていた。
そんな中、石田三成は東軍に対して反撃を計画し、兵を再集結させた。
東軍は、石田三成の反撃を予測し、山崎の戦いで待ち伏せを仕掛けた。
石田三成の西軍は、東軍の陣地を突破するため、夜間に山道を進んで攻撃を仕掛けた。
これで東軍は、総崩れになるかと思われたのだが、徳川家康が人質を取るという作戦で一時的に西軍を押し留めた。
ところが、この作戦によって東軍の兵力が削がれたことを見透かした石田三成は、西軍に退却を命じ、その隙に総力をあげて東軍に反撃を仕掛けたのである。
すると、東軍は疲弊し、一時的に敗れるという結果になった。
そして、この勝利により、石田三成率いる西軍は一時的に反撃の勢いを取り戻し、戦国時代の勢力図が大きく変わるきっかけとなったのである。
山崎の戦いは、東軍が作戦を仕掛けて西軍を抑える中で、石田三成が予想外の反撃を仕掛け、一発逆転の勝利を収めたことを示している。
また、山崎の戦いは、織田信長の死後、後継者争いが激化した中で、武将たちが勢力争いをする中で、予測不能な展開が起こることを示す代表的な戦いの1つでもある。
まとめ
有名な戦国時代の戦をいくつか紹介してみたが、いかがだろうか。
こうやって見ていくと、戦国時代に名を残した武将たちは一発逆転した戦に登場することが多いこともわかる。
もちろん、実力があったことは否定しないが、同時に強運の持ち主だったということも言えるのではないだろうか。
運も実力の内というのは、史実にあるというわけだ。
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