三拝九拝(さんぱいきゅうはい)
→ くり返し頭を下げて人に物を頼むこと。
頭を下げることができない人が世の中には案外多い。
なにもそれは大々的に謝罪をしろといっているわけではない。
例えば、肩がちょっとぶつかったときとか、持っていた荷物があたったときなどに、即座にすみませんとかごめんなさいという言葉が出ればお互い気持ちよく終わるだけなのにという場面だ。
ぶつかったり、あたったりしたことに気づかない場合もあるかもしれないが、明らかなときは瞬発的に謝罪の言葉を発すればいいのになかなかできないのである。
この話をすると、私が結婚をしておらず、子どももいないから理解できないといわれることがあるのだが、せっかくなので主張させてもらおう。
子連れの親子と遭遇することは頻繁にある。
そんなとき、子どもが騒いだり走り回ったりすることは、まあ許容範囲内だ。
とはいえ、ぶつかったり、あたったりするとなると、トラブルの元にはなってしまう可能性はある。
こんな場面での親御さんたちの言動に疑問を呈することがしばしばある。
それは、母親が子どもの名前を大声で叫んで、ダメでしょと叱責するという言動だ。
いやいや、まずはぶつかった私に一言、すみませんと謝るべきだろうというのが私の主張だ。
そして、その後に自分の子どもを諭すというのが、親としての対応ではないだろうか。
それを子どもを大声で叱責することで全部をチャラにするというのは、あまりにも身勝手だと思うのである。
その親からすると、そんな光景は日常茶飯事でいちいち対応できないという反論も理解はできなくもないが、一言すみませんということができないのが不思議だ。
また、そんな子どもに両親がいた場合に、すみませんとサラッといってくるのは父親である場合が多いように思う。
と書くと、また批判を浴びそうだが、私の所感なので悪しからず。
いずれにせよ、私がいいたいことは、ちょっとした一言で全員が上手くいくのに、それができない人があまりにも多いという嘆きだ。
小さなプライドを持って生きている人たち
プライドを持って生きていくことに関しては特段なにもいうことはない。
ただ、小さなプライドを引きずりながら生きている人があまりにも多いことに気づかされる。
例えば、あなたが土下座することで周りの人立ち全員が上手くいくことがあったとする。
つまり、あなた1人の行動で全方位的に拡がることがあったとしよう。
そんなときに間髪入れずに土下座ができるだろうか。
私はなんの躊躇もなく土下座をする。
けれども、世の中の多くの人はプライドが邪魔をしてその行動が取れない。
これが私のいうところの小さなプライドのところである。
わかりにくいかもしれないので、具体的な場面を書いていこう。
IoTという言葉を知っているかという状況に遭遇したとしよう。
知っていればもちろんスルーすればいい場面なのだが、全く知らない言葉だったとする。
そんなときに、シレッとIoTがなにかをあなたは聞くことができるだろうか。
その場でググるという選択肢であっても全然問題ないが、あえて聞くことでコミュニケーションが取れるということもある。
となると、恥も外聞もなく瞬時に聞くことができるというスタンスは案外大切なのだが、できない人が多い印象だ。
また、ワンチャンという言葉を若者が使っている場面で、最近の若者は意味のわからない言葉を使うとなった時点でアウトだ。
これは、完全に思考停止した状態で、新しいものを拒絶する姿勢に繋がっている証なのである。
また、若者が使っている言葉を自分自身が使うことに抵抗があるといったり、若者に対してへりくだって意味を聞くことができないといったことも小さなプライドに当てはまるといっていい。
つまり、小さなプライドを抱えて生きている人は思考停止しているといっても過言ではないだろう。
小さなプライドを捨てることで変わる世界
上述した小さなプライドを捨てることで視野は圧倒的に拡がる。
くり返しになるが、プライドを持つことに対して否定するつもりは毛頭ない。
けれども、そのプライドが本当に必要なものなのかについては、考える必要があるということを主張している。
そして、あなたのその無意味なプライドがもしかすると人生において足枷になっているのではないかということに疑問を持った方がいい。
そのプライドを半歩譲る思いやりがあれば、物事がスムーズにいくのであれば、譲ればいいという発想を持ってみてはどうだろうか。
お互いが半歩譲るというマインドを持っていれば、世の中はもっと円滑に動くと確信している。
自分の考え方や思いを曲げないというのは、一見するとカッコいいとか職人気質だというポジティブなワードに置き換えられがちだが、全てに当てはまるわけではない。
それを捨てることで拡がる世界があるのであれば、私は喜んでそちらの世界へ行く。
なぜなら、そこには今までに見たことのない景色が拡がっているからである。
そして、当然だが、その景色は小さなプライドを捨てられる人にしか見ることができない。
上手くいかないことが多いと感じている人は、人生を豊かに生きるということがどういうことなのか、今一度立ち止まって考える時間を取るといいだろう。
最もたちが悪いのは、小さなプライドをしっかりと抱えて生きている人は、そのことに気がついていないことだ。
そういう人たちに共通する特徴は、プライドが高いことや小さなプライドを持っていることを伝えると、そのことに関して猛烈な反発をみせることだ。
そのあたりも含めて、自分の中に悪影響を及ぼしている小さなプライドがないかを定期的にチェックすることをオススメする。
半歩ずつの思いやりの影響力
サラッと半歩ずつという言葉を織り込んだが、このことについては、せっかくなのでもう少し深堀りしておきたい。
冒頭に肩がちょっとぶつかったという例を挙げたが、この場面はなぜ起こってしまうのか。
それは、半歩ずつの思いやりが足りないことが要因だと私は思っている。
どういうことかというと、狭い道で先方から歩いてくる人がいた場合、すれ違うときにお互いが半歩ずつ外側に避けるという意識があればいいということだ。
そうすることで、お互いが気持ちよくすれ違うことができる。
とまあ、こんな当たり前のことなど書く必要がないくらい当たり前のことなのだが、実際にこれができている人は本当に少ない。
もちろん、気が付かないという場面もあるとは思うが、しっかりと目にすることができることの方が圧倒的に多いと思われる。
となると、この半歩ずつの思いやりで多くのトラブルは未然に防ぐことができると思っている。
そして、なにもこれは、すれ違うときだけではなく、レジで並んでいるときに自分の番になったらすぐに対応できるように事前に準備をしておくことなども半歩ずつの思いやりだ。
もっというと、車で運転する場面をイメージしてもらいたい。
狭い道で対向車が来たときにどちらも譲らなければずっとそのままの状態になってしまうことは必至だ。
そんな無駄はお互いが避けたいので、どちらかが必ず譲るというのがマナーになっている。
ということは、しっかりと思いやりが機能している場面があるわけだから、もっと日常に思いやりがあってもいいと思うのである。
それも多くの思いやりを求めていない。
狭い道ですれ違うときの半歩の思いやりで十分なのである。
まとめ
日本人は世界の中でも指折りのマナーの基準が高いとされている。
そのことに関しては私も完全に同意だし、大変喜ばしいことであることは間違いない。
けれども、当たり前の部分に関してのギャップが比較的大きいと感じているのも事実だ。
つまり、半歩の思いやりが当たり前にできている人とできていない人のギャップが大きいということだ。
あなたの人生の主人公は、間違いなくあなた自身だ。
なので、無理に周りに同調する必要はないし、そのことを強制するつもりも矯正する立場でもない。
けれども、周りを見渡したときに、あなた自身が半歩の思いやりをみせることで上手く進むことが多いのであれば、その足枷になっていたのは、小さなプライドであることが多いはずだ。
私は小さなプライドを捨て、新たな景色を見ながら高みを目指した方が充実した日々が送れると確信している。
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