三跪九叩(さんききゅうこう)
→ 何度も最敬礼すること。
三跪九叩は、1度跪いて3回頭を垂れるという動作を3回繰り返すという三跪九叩頭、清朝の皇帝に対する臣下の例だったことに由来している。
絶対服従を示す最敬礼というと聞こえがいいかもしれないが、一方では世界一屈辱的な礼ともいわれている。
その理由は、叩頭(こうとう)が額を地面に打ち付けて行うという礼の方法だからだ。
李氏朝鮮時代に実際に行われていたもので、李氏朝鮮は清(中国)の冊封に入っていた。
そのため、朝鮮の王は中国から使者が来ると迎恩門で、三跪九叩頭の礼で迎えさせられていたという。
そんな三跪九叩頭の礼は下記の手順で行われる。
まずは、中国の使者の跪け(ひざまずけ)の号令から始まる。
- 一叩頭の号令で手を地面につけ、額を地面に打ちつける
- 二叩頭の号令で手を地面につけ、額を地面に打ちつける
- 三叩頭の号令で手を地面につけ、額を地面に打ちつける
- 起の号令で起立する
これを3回くり返すので、合計9回ほど手を地面につけ、額を地面に打ちつけることになる。
額を地面に打ちつけるといっても、ただただ地面に打ちつけるわけではない。
額を打ち付けるところには石が置いてあり、額に血がにじむまで行うのである。
そもそも、血がにじまなければ誠意を持って迎えていないということになる。
そして、この儀式を行うための門が建てられていて、李氏朝鮮ではその門が迎恩門と呼ばれていた。
改めて三跪九叩頭の礼について考える
くり返しになるが、三跪九叩頭の礼とは、清(中国)の皇帝に対する臣下の礼のことだ。
つまり、三跪九叩頭を行って皇帝に拝謁することは、その臣下を意味していて国としては属国的な扱いになることを意味しているのと同義ということになる。
また、王になるにも、清(中国)の皇帝の許しがなければ簡単になれるものではなかった。
そんな歴史は、1894年のとある出来事をきっかけに変遷していく。
1894年に始まった日清戦争である。
日清戦争に勝利した日本は清と下関条約を結び、李氏朝鮮を清の属国から解放させると、李氏朝鮮は独立国となった。
その後、迎恩門が破壊されて、新たに清からの独立を祝うための独立門が建てられた。
ところが、この史実は教えられていないため、多くの韓国人は独立門は日本から独立した記念に建てられたと思っている。
ただ、それが史実だとすると明確に説明できない、大きくズレてしまう点があるのだ。
それは、独立門には1896年建立と刻まれているということである。
仮に日本からの独立を祝うために建てられたのであれば、日本が敗戦を迎えた1945年以降でなければならないはずなのだが、その説明がつかないというわけだ。
李氏朝鮮が清にさせられた約束
忠義の見せ方というか、最敬礼をする方法というのが、実際にどういうものだったのか紹介しておこう。
李氏朝鮮は、清(中国)に対して下記のような約束をさせられていたという。
- 朝鮮は清国に対し臣としての礼を尽くすこと
- 王の長子と次男および大臣の子女を人質として送ること
- 城郭の増築や修理については清国に事前に承諾を得ること
- 清に黄金100両、白銀1000両、20余種の物品を毎年上納すること
さらに、李氏朝鮮は貢物として、処女、美女、少年を毎年差し出すよう要求されていた。
少年たちは去勢されて宦官にされ、後宮で中国皇帝の側室たちの世話をさせられたのである。
この世界一屈辱的な礼を持って迎えるために李氏朝鮮では迎恩門が建てられたというのは上述したとおりだ。
また、李氏朝鮮以外にも、清(中国)の冊封に入っていたエリアがある。
李氏朝鮮の迎恩門が建てられたのに対し、そのエリアでは守礼門が建てられた。
首里城へ行ったことがある人はピンときた人もいるかもしれないが、琉球、現在の沖縄である。
琉球王朝は冊封使を迎えるために立派な門、守礼門を建てて、守禮之邦の扁額を掲げ、宮殿にて三跪九叩頭の礼をとっていたという。
守禮之邦の守禮とは皇帝に対する礼を意味しているのである。
違和感を残した首里城祭り
ご存知のとおり、首里城は火災が起きてしまい現在は再建中だ。
そんな首里城火災が起きるまで沖縄で毎年開催されていたイベントの1つに首里城祭りがある。
華やかな琉球王朝時代を体感できる首里城祭りといった謳い文句になっているのだが、その祭りの中でいつの間にか三跪九叩頭の礼の儀式が復活していた。
イベントの解説では、清(中国)の皇帝が派遣した使者を迎えて行われた新しい国王の任命の儀式が再現され、訪れた人たちが厳かな儀式の様子に魅了されていたとなっている。
冊封儀式の意味を知らない観光客がそんなイベントを見れば、おそらく随分丁寧に厳かに清(中国)からの使者を迎えていたという印象を受けるだろう。
ただ、実際は清の属国であることを示すための、世界一屈辱的な礼といわれている三跪九叩頭の礼が行われているのだ。
ここに対して少々違和感を覚える一定数の人がいたということも知っておくといいだろう。
歴史や政治は複雑なのである。
三跪九叩頭の礼を求められた特命全権大使の対応
歴史や政治が複雑だという話のついでに、こんな話もあるようなので参考までに書いておこう。
1873年、台湾出兵の処理に赴いた特命全権大使の副島種臣は、清(中国)第10代皇帝の同治帝に謁見した。
その際、三跪九叩頭の礼を求められた。
当時、清(中国)では未だに日本を含んだ欧米の諸外国に対しても皇帝への土下座のごとき三跪九叩頭の礼を強要していた。
そんなときに副島種臣が取った行動は下記のとおりだった。
- 第一に自分は特命全権大使として対等な国家の結果の全権大使であること
- 第二に中国の尚書という本によれば外国から客が訪れたら恭敬の態度でお迎えしなければならないとあること
この2つを主張し、特に2つ目の主張はあなた達は先祖の法道すら破るのかという反論だったわけだ。
これには、中国の古典まで言及しながらの反論だったため、中国の官史たちは言葉を失ったという。
結局、一方も退かなかった副島種臣は、最終的に立礼で通した。
そして、副島種臣は欧米の外交団も巻き込んだ交渉を粘り強く、1ヶ月半も続けると、ついには謁見を拒否して帰国する決意まで示した。
これには清側も狼狽し、謁見の事はすべて日本大使意見の如くすべしと返答を得ることができた。
こうして、1873年6月29日に欧米の外交団とともに皇帝に謁見した。
そのときの儀式は、3回立ち止まって敬礼をして中央に進み、一礼してお祝いを述べ、同治帝の言葉を聞いてから退出というものだった。
また退出の際、3回敬礼するというものだった。
それから、副島種臣がいよいよ帰国に向けて出航するとき、清側は150本もの錦の旗を立て、21発の祝砲で見送ったという。
これは、ライバルながら天晴と評価した証拠である。
この出来事は近代外交史において、外国との国交は朝貢のみ受け付けるという中華帝国の歴史を初めて打破した快挙として記録されているというわけだ。
まとめ
敬意を表することはとても重要なことだと思うし、礼儀や礼節をもって相手に接することはマナーでもあるし、ある意味で当たり前のことだ。
当然そこには力関係が顕著に表れてしまうという側面もあるのだが、強者にただただ無意味に従うというのはどこか間違っているのかもしれない。
現代の接待ににているところもあるのかもしれないが、相手の言うがままを受け入れることが接待ではないだろうし、かといっていい加減すぎるのも良くない。
究極なのは利害関係がなくても最敬礼できる人柄なのだろうが、人間関係や感情というものは複雑なので、それもなかなか難しい。
私も願わくばそういった人になりたいとは思うが、その域に達するにはまだ時間がかかりそうだ。
もしかしたら生涯そんな対応ができない側の人間かもしれないが、それは礼儀や礼節を知らないということとは全く違うということも主張しておこうと思う。
【Twitterのフォローをお願いします】