才気煥発(さいきかんぱつ)
→ 優れた才能が外に表れ出ること。
優れた才能とは、どういった才能のことなのか、とても抽象的な概念である。
誰にでも得意な分野があると同時に苦手な分野というものはある。
私がよくいうのは、苦手な分野を克服するのではなく、得意分野をひたすら伸ばすようにしろというものだ。
そして、最近思うのだが、自分の苦手分野は比較的、理解している人は多いかもしれないが、得意分野を理解しているという人は少ないように思う。
なぜ、そんな傾向が強くなるのかを考えてみたときに、やはり教育の問題に行きつくのである。
義務教育という教育現場の実態
教育を受ける権利というものが、日本国憲法第26条で保障されている。
これによって義務教育をほとんどの人は受けていくわけだが、小学校、中学校がそれに当たるということになる。
この期間で教わるのが、いわゆる教育の部分なのだが、明確な課題は多々あるのも事実だ。
何度も主張していることの1つに、未だに1人の教師が主要科目を教えるという小学校のスタンスは明らかに間違っているというものがある。
専任にすることでの弊害が生じることは理解できるが、それよりも大きな弊害が生じているように思う。
その理由は至って単純なのだが、あなたが小学生だったときに得意な科目と苦手な科目はなかっただろうか。
私には明確にあったし、得意な科目の授業は楽しかったし、苦手な科目の授業は本当に憂鬱だった。
そんな経験をしたことがあるという人は決して珍しくないだろう。
というか、万能な人間などいないので、得意と苦手があって当たり前なのだ。
そんな当たり前の教育現場で、どういう教育をしていくことがいいのだろうか。
苦手分野を克服させようとする教育
義務教育でよく行われることが、苦手分野があると、その分野を克服させようとするという指導である。
これが教育の根本であるかのようになっているところがあるように思うが、そもそもこの方向性では差は縮まらないということだ。
なにが言いたいのかというと、自分が苦手だと思っている分野のことであっても、他の人からすると得意な分野であることもあるわけだ。
算数が苦手だという意識のある人がいる一方で、算数は得意だという人も当然いるだろう。
また、算数が苦手であっても国語は得意という人もいるだろうし、逆もまた然りだ。
苦手な分野を得意分野にすることは、なかなか難しい。
そもそも苦手だという意識がある科目に対して、単純に頑張ろうと思えないのが人の心理というものだろう。
勉強するという行動が起こせないというか、気分が乗らなければ、そもそも行動を起こすことなどないはずだ。
それを無理やり克服させようとして、得意になるだろうかと一度立ち止まって考えて欲しい。
しんどい思いをしている時間はとにかく長く、そんな時間が続くことは苦痛でしかないだろう。
ただただその時間が過ぎ去って欲しいということしか考えないはずなのに、テストの点数が悪かった場合には赤点といった評価をする。
そして、授業の後や長期休みに入ったときに補習をさせたりするわけだが、これが教育現場では当たり前になっているのである。
これがなにを意味しているのかというと、弱者に視点を合わせているのである。
いい意味での表現をしようとするならば、平等に扱うということになるのだろうが、そもそもなにもかも平等にすることなどできないという理解がない。
というよりも、そもそも平等に扱うということを意識している時点で平等にはならないということがわかっていない。
くり返し主張しておくが、苦手分野を克服させようとする教育は、弱者に視点を合わせている教育とイコールだ。
得意分野が理解できない教育
誤解して欲しくないのだが、一定レベルの教育は、得意でも不得意でも受けておいた方がいいということを書いておこう。
教育と教養は似たような概念だと思っている人も多いかもしれないが、全く別のレイヤーの話だ。
教育とは知能を身につけることで、教養とは心の豊かさのことだというとわかりやすいのではないだろうか。
結論からいうと、教育に重きを置きすぎると苦手分野を克服させようとする方向に進み、教育に重きを置くと得意分野を見つけようとする方向に進む。
日本の教育は平等が素晴らしいという概念が根本にあるため、前者が主流となってしまうわけだが、それでは教養は身につかない。
当たり障りのない平均的な人間が量産されるのである。
そして、得意な分野がなんなのかがわからないから、将来なにをやっていいのかわからないとか、目標が目的がないという人も多々生まれてしまうわけだ。
状況が悪ければ、得意分野になるかもしれない可能性を潰してでも苦手分野へ向かわせようとする傾向すらある。
例えば、野球が本当に好きで本気でやっていきたいのにプロになんてなれるはずないからといって他のことをさせたり、音楽をやりたいと言ってるのにどうせ才能なんかないとやらせてもらえないといった具合いだ。
確かにそういった考え方も理解できなくもないが、可能性を潰しているというかもしれないということに気がついていない。
好きなことは得意な分野になりやすくなるというのは理解してもらえると思う。
ところが、いわゆる教育では、そんなものが上手くいくはずがないと外的要因によって潰されている可能性も少なからずあるということだ。
苦手分野の克服をやめて得意分野に特化する
苦手分野はいつまで経っても基本的には苦手だ。
一方で、得意分野はいつまで経っても基本的には得意だ。
となると、得意分野を伸ばしていった方がいいはずなのに、なぜそういう傾向にならないのだろうか。
それは、苦手分野の克服をさせようとさせるが故に、自分がなにが得意なのかがわからないという状況が続くからだと思う。
もちろん、全員とはいわないし、自分がなにが得意なのかを見極めて進むことができるという一定層の人はいるだろう。
けれども、得意分野というものは自分では案外気づかないものなのである。
なぜなら、当たり前にできてしまったりするので、自分では得意だと思っていなかったりする場合も多いからだ。
だからこそ、先生や親といった第三者目線の評価というものが重要になるのである。
その人がどういったことが得意なのかを俯瞰で見ることで、好きなジャンルが得意に変わるように、得意が誰にも負けないくらいの得意になるように誘導することが大切だ。
先生や親の仕事はそこに尽きると思っている。
この子はこの分野が好きだなと思ったら、その好きな分野を伸ばすためにそっと寄り添って得意になるように、さらに得意になるようにサポートすることが重要なのである。
このマインドが幼いころから身についていれば、自分の得意な分野がなんなのか自分自身でもしっかりわかる大人になるというのが私の持論である。
まとめ
教養のある人にならなければいけない。
生まれてきた以上、これは断言する。
なぜなら、先述したが、教養というのは心の豊かさだからである。
心の豊かさがない人は幸せを掴むことは難しいだろう。
なにをもって幸せかは人によると思うが、抽象的な幸せを掴むためにも教養は必要だ。
教養を身につけるためには教育が重要になるわけだが、教育は知能を身につけることだと書いた。
ここで肝心なのは、知能とは全てを自分自身が身につける必要などないということだ。
自分が難なく仕入れることのできる知能は、自分の好きな分野、つまり得意分野の知能なので、そんな知能はどんどん仕入れていけばいい。
一方で、どうしても抵抗のある知能は、自分の嫌いな分野、つまり苦手分野なので、そんな知能は無理に仕入れようとする必要はない。
なぜなら、その知能を持った人を連れてくればいいだけだからである。
ましてや、テクノロジーの進歩により、ある程度の知能は人間でなくても仕入れることも可能な時代だ。
ただ、そんなテクノロジーを使いこなすためには、自分自身がなにが得意なのかを俯瞰で見ることができなければ、なんの役にも立たないという警鐘も鳴らしておこう。
【Twitterのフォローをお願いします】