軽諾寡信(けいだくかしん)
→ なんでも軽々しくうけあう者は信用できないということ。
人生で初めて聞いた言葉で、その意味を知ったけれども、なんとも納得できない言葉である。
深く考えずに物事を簡単に引き受ける人は、約束を守ることが少ないためにあまり信用できないということらしいが、これは明らかにおかしな解釈だろう。
毎回深く考えながら答えを出しているようでは、何事も達成することなどできないはずだ。
人生は選択の連続で、瞬時に判断しなければいけない場面は多々ある。
以前書いたこちらの記事は、noteでも取り上げてもらったこともあり、かなりの反響があった記事だが、まさにこれが人生だ。
これほどまでに決断の多い人生で、軽いノリで返事していかなければ、どうやって物事を判断するというのだろうか。
信用を得るためにまずやるべきこと
これは何度も書いているが、私はスタートアップにしかいたことのない人間だ。
そんな環境にいるときに重視されることは、とにかくスピードであることもまた、くり返し書いてきていることだ。
1つの判断に時間をかけてはいけないというか、時間をかけているとまたすぐ別の判断をすべきことがやってくる。
それが重なるとどうなるか。
自分のところでプロダクトが停滞することで、周りに迷惑がかかる。
その結果、仕事のできない人ということになるわけだ。
私と仕事をしたことがある人ならわかると思うが、私はレスがはやいことは理解してもらえると思う。
もちろん、どうしても外せない打合せ中や飛行機の移動中や深夜の時間帯であれば即レスできないこともあるが、基本的には1時間以内に返事はしているはずだ。
別にこれは意識してやっているわけではなく、もはやそういう身体になってしまったといった方が正しいだろう。
上述したが、私のところで仕事が止まることをとにかく避けたいのである。
そして、このレスのはやさは信用を積み上げていくに当たり、非常に重要なことだという自負がある。
レスのスピードについて
どのツールでもいいが、見たのになにも反応をしない人がいる。
会話が終了していたり、返さなくてもいい内容であれば全く問題はないのだが、明らかにレスが必要なことに対しても反応をしない人がいる。
こういう人をあなたは信用するだろうか。
別に仕事のことでなくてもいい。
例えば、どこかのお店に食事に行こうという話になったとしよう。
お店を取ってもらった場合に苦手なものがないかとか、何時に待ち合わせをしようかといった最低限のやり取りは発生するはずだ。
にも関わらず、相手からの返信が遅くてなにも決まらなかった場合、その人と今後も付き合っていこうと思うだろうか。
もちろん、そういうことに対してなにも思わないという人もいるだろう。
それくらいでイライラするなという声も少なからずあると思うが、こういう人は往々にしてなにをやっても上手くいかない人だと思っている。
というのも、自分のその無意味な時間をかける行動で周りの人にどれくらいの迷惑がかかっているかがわからないような人が長い目で見たときに信用などされるはずがないからだ。
そして、信用というものに対する考え方が浅はかだということも主張しておきたい。
信用は1日や短期間で積み上がるものではなく、小さな小さな積み重ねが少しずつ少しずつ信用となり、その人の価値となっていくわけだ。
さらに、信用は一瞬にして崩壊するということも忘れてはいけない。
どんなに親しい間柄であっても、やはりそこには相手を思いやる、気遣う気持ちがなければ、いい関係が続くことはない。
間違った信用の積み重ね
ただ、昨今の流れを見ていると、私でさえ非常にやりづらくなったと感じることが増えたことは事実だ。
なぜそこまで降りていかないと理解してもらえないのだろうという場面が増えたということだ。
そして、この原因をゆとり世代とかZ世代とかそういう区切りで解決しようとするからこそ、余計にややこしくなると考えている。
つまり、世代がどうとか時代がどうとかそういったことをいちいち細かく考えずに、自分の主張をしっかりすればいいということに重きを置いているということだ。
下手な忖度や持ち上げられることは瞬時に気がつくということは、相手に対しても決してやってはいけないということだ。
なにも偉そうに語るつもりはないが、それくらいの経験値は十分にあるので、間違った信用を積み重ねようとしてはいけないし、させてはいけない。
となると、導いていくということが必要になる。
黙っていればわかるだろうとか、なにもいわなくてもそう動くだろうと勝手に思い込むことを極力やめるようにしている。
いちいち細かく、ここはどうなっているのかとか、意味はわかるかということを聞く機会が増えた。
いろいろと考えた結果、この言動が最もスピード重視、今でいうタイパのいいやり方であることに気がついた。
そしてこのやり取りが正しい信用を積み重ねていくための基礎になるということだ。
どのポジションで生きていくのかを考える
ただし、このやり方というか考え方はすべての人に当てはまるわけではないので注意が必要だ。
働いている人の多くは自分を俯瞰で見ることができていない。
というのも、自分の得意な分野、苦手な分野、なにをやっているときが楽しいか、今からの人生をどのように生きていきたいかといったことを真剣に考えたことがない。
とにかく、ただただ1日1日を過ごしている人が、どれほど多いのかということに気がつく。
もちろん、その人の人生なので私がとやかくいうつもりはないし、どうでもいいといえばそれまでなのだが、果たしてそんな人生が心から楽しいのかと老婆心ながらに思ってしまう。
その人たちが知らなくて私が知っていることが1つだけあるのも、また事実だ。
それは、圧倒的な熱量から生まれる達成感だ。
狂気じみた空気なのだが、それが力となってプロダクトを成し遂げたときに、言葉では表現できない達成感がある。
この達成感がなによりも快感で中毒性があることは、何度も書いてきているとおりだ。
それなのに、定期的にこういったことを書くのはなぜだろうか。
それは、その経験をしたいと思っているのに塞いでいる人に定期的に会ってしまうからである。
どのポジションで生きていくのかを決めるのは、あなた自身だ。
なんでも軽々しくうけあう者になろう
結論、なんでも軽々しくうけあっていい。
というか、なんでも軽々しくうけあわなければ何者でもない人に依頼など来るはずがない。
全くなにも知らない赤の他人に仕事を依頼しようと思ったときに、ごちゃごちゃ細かいことを言ってくる人に任せようと思うだろうか。
少なくとも私は思わない。
二つ返事で受け入れてくれて、自分が思っていた以上の成果物を出してもらえたら、最高ではないだろうか。
そして、その人にまたなにかあったときには依頼をしようと思うだろう。
ここに1つ小さな信用が生まれたことになる。
まとめ
なんでも軽々しくうけあっていいが、勘違いして欲しくないのは、うけた以上はプロとして徹底して成果を出せということだ。
その課程や努力している姿など微塵も見せなくていい。
そんな小さい人間のやることに時間をかけるくらいなら、とにかくあらゆる人から依頼が来るような人になるために、どんどん軽々しくうけあえばいい。
そこに信用が生まれ、あなたという人の価値ができていく。
そうすれば、必然的に安請け合いという言葉から離れていくことになる。
これが起業して9年目に入った私の実体験である。
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