黄金時代(おうごんじだい)
→ 一番栄えている時期、最盛期。
黄金時代とは、誰もが聞いたことがある言葉で、ポジティブに使われることは理解できると思う。
四字熟語の中に黄金という言葉が入っていることからも想像できるというわけだ。
ただ、なぜ現代社会でも黄金というものは価値があるものとされているのだろうか。
今回は黄金、つまりは金について詳しく書いていこうと思う。
紀元前6000年のシュメール文明と金
シュメール文明とは、チグリス川とユーフラテス川の間にあるメソポタミアにて、シュメール人たちが作り上げた。
その繁栄の時期は、なんと紀元前6000年。
この時代に既に金の存在は知られていて、さらに金を生活に取り入れていたとされている。
一説には、宇宙人と交信することで文明が栄えていたというものもあるほどの謎多き時代だが、金の装飾品が作られていたのは事実であり、これが世界最古の金製品だとされている。
紀元前5000〜3000年のトラキアの黄金文明
シュメール文明の次に注目すべきが、紀元前5000年から紀元前3000年ごろである。
現在のブルガリアにあたる地域に、トラキア人と呼ばれる人々が存在していた。
近辺のペルシャ文明やギリシャ文明と交流しながら、トラキア人は独自の文明を作った。
このトラキア人が作った文明は、黄金文明とも呼ばれている。
その名前のとおり、トラキア人はさまざまな黄金製品を残しているのである。
- 軍事儀式、宗教儀式に用いられていた王笏(おうしゃく)と呼ばれる杖
- 雄牛を型どった、社会的シンボルとして用いられるアップリケ
- 高度に装飾が施された金のネックレス、イヤリング、指輪、胸飾り、腕輪、王冠
- スフィンクス、鹿、ヤギなどを型どったリュトン(儀式などで用いる杯)
- フィアラ杯(饗宴に用いる皿状の杯)
- キュリクス杯(取っ手が2つ付いた杯)
といった具合に、多くの金製品がブルガリアの東部に位置するヴァルナ集団墓地遺跡から出土している。
この当時から社会的な身分を表したり、儀式に用いたり、王の権力を示したりと多くの目的で金が用いられていたのである。
また、トラキアは文字を持たず、戦が好きな文明として知られてきた謎の文明でしたが、非常に高度な金の精錬技術、細工・加工技術まで持っていたことも面白い。
紀元前3000年の古代エジプト文明と金
紀元前3000年を迎える頃になると、エジプト王朝が旺盛を迎える。
エジプト文明の中でも有名なのは、ツタンカーメン王の黄金マスクだが、パッとイメージできる人も多いだろう。
実はこの黄金マスクだけで、その価値は300兆円にも上るそうだが、ツタンカーメン王の周りで金が使われているのはマスクだけではない。
王が眠る棺には110キロもの金が使われており、非常に豪華な造りとなっているのだ。
古代エジプト文明において、金製品が重要な意味を持っていた理由は、その信仰にあるとされている。
当時の人々が信仰していたのは、太陽神ラーをあがめる太陽信仰だ。
太陽信仰において、金はラーの身体の一部とされていた。
このため、金は宗教上の非常に重要な意味を持つアイテムであり、祭祀や呪術、王族の儀式には欠かせないものと考えられていたのだ。
実際、宗教や王族に関連する場所やアイテムには、数多くの金製品が残されている。
このように、エジプト文明は金と共にあった文明ともいえる。
その紀元前1600年頃には新王国時代を迎え、優れた技術を持つ金細工師が、確かな社会的地位を獲得していたと伝わっている。
そして、金のインゴットの始まりもまた古代エジプト文明が起源とされている。
金のインゴットといえば、金の延べ棒といえばわかると思うが、古代エジプトでは、延べ棒ではなくドーナツ状に型どった塊で保管されていたとされる。
紀元57年の漢委奴国王印
中国には、後漢書東夷伝(ごかんじょとういでん)」と呼ばれる、古い資料ある。
この資料は5世紀前半に書かれたとても古いものですが、書かれている事柄はもっと昔の出来事である。
そこには紀元57年という大昔のことが書かれており、紀元57年、中国は後漢王朝の時代だった。
そのときの初代皇帝は光武帝で、後漢書東夷伝によると、この光武帝が倭の奴国に印綬を授けたという。
印綬とは、つまり印鑑のことで、漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)と呼ばれている。
純金製の印鑑で、印文は漢委奴國王となっており、この漢委奴国王印は、1784年に福岡県の志賀島の農民が発掘したという史実を思い出した人も多いだろう。
この金印は、漢の光武帝から福岡市近辺に当時存在した、奴国の王に授けられたと考えられている。
15〜17世紀の大航海時代の金をめぐる争い
大航海時代には、世界のトレジャーハンターたちが金を追い求めて海を渡った。
そして、そこには金をめぐる戦いの歴史と文明の存亡をめぐる歴史がある。
南アメリカのペルーに位置するアンデス山麓は、マチュピチュ遺跡があることで有名だが、このマチュピチュ遺跡は、滅亡したインカ帝国の遺跡として知られている。
というのも、インカ帝国では、たくさんの金が採掘されていた。
そして、この噂をスペインの軍人、フランシスコ・ピサロが聞きつけて侵略したのである。
その方法は、当時のインカ帝国の皇帝アタワルパにピサロは友好的なフリをして近づいた。
しかし、最後にはいいがかりをつけて、火砲でインカ帝国を攻撃。
この攻撃でたくさんの人々が亡くなりましたが、アタワルパは生け捕りにされ、ピサロは皇帝の身代金として金を要求した。
結局、132万6,539ペソ(およそ6トン)の金がピサロに渡され、皇帝アタワルパは釈放されずに処刑された。
その後、インカ帝国は滅びるわけだが、1533年の出来事であることは覚えておくといいだろう。
このように、大量の金が大帝国を築き上げもし、また滅亡させもすることを歴史が物語っている。
世界の金貨のはじまり
人間の歴史に貨幣という概念が登場したのは、古代文明の時代であったと言われている。
古代メソポタミア文明や古代エジプト文明において、穀物や家畜、絹といった商品が、通貨としての役割を担っていた。
要するに、古代文明の中で人々はこうした商品をやり取りすることで、経済を回していたのだ。
こうしたタイプの貨幣を商品貨幣という。
商品貨幣で物をやり取りするためには、商品そのものを取引の現場に持っていく手間がかかる。
大きな物を扱うのは非効率だということで、文明が発展していく中で、徐々に金、銀、銅などの金属を貨幣として扱うようになる。
こうして、金属を鋳造して作った貨幣を鋳造貨幣という。
その世界最古のものは、紀元前670年頃に使われていたエレクトロン貨だといわれている。
この頃、トルコ周辺で栄えていたのがリディア王国であり、ここで造られたのがエレクトロン貨だ。
エレクトロン貨は、リディア王国内のバクトーロス川からとれた砂金を使って鋳造された金貨の一種である。
いわゆる純金ではなく、銀が数%含まれた自然金を加工したものだといわれている。
日本の金貨の歴史
日本の金貨のはじまりは、世界とは少し差があって鎌倉時代だ。
ただ、鎌倉時代には、金はまだ鋳造貨幣としては使われておらず、砂金のまま、袋や奉書紙、竹筒に入れて持ち歩いて、取引のときに重さを測って使われていた。
その後、室町時代には、室町幕府は貨幣を鋳造しなかったが、明の国から貨幣を輸入して流通させていた。
戦国時代になるとさらに南蛮貿易もさかんになり、貨幣の新しい精錬法が伝えられる。
これによって、全国の大名が鉱山開発を進めた結果、金がたくさん産出されるようになるのだ。
その結果、金判がたくさん流通するようになったという流れである。
まとめ
今は西暦2021年だ。
ということは、世界最古の金製品があったとされる紀元前6000年前から現在まで、8000年の歴史に金は並走していることになる。
これだけ長い年月、金は重宝されてきたのだから、今後もこの概念を簡単に変えることは難しいだろう。
金の価値は下がらないといわれる所以なのかもしれない。
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