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2021年8月12日 投稿:ueda

英雄ナポレオンはなぜ英雄という絶対的な地位を築けたのか?

雲蒸竜変(うんじょうりょうへん)
→ 英雄や豪傑が時期を得て、存分な活躍をすること。

いつの時代にも英雄や豪傑が現れ、一時代を築くと共に後世に語り継がれることになる。

英雄と聞いて思い浮かべる人物は様々だろうが、必ず名前が挙がるであろうナポレオン。

フランス革命時代の皇帝であることは知っているけれども、なぜ未だに英雄としての地位を確保しているのか、少々調べてみることにした。

英雄ナポレオン生誕について

ナポレオンが生まれたのは1768年8月15日で、場所はコルシカ島。

地中海にある島で、コルシカ島とサルデーニャ島が有名である。

現在は北にあるコルシカ島はフランス領、南のサルデーニャ島はイタリア領だが、もともとは自由都市ジェノヴァが支配していた。

そんな中、フランス王国が勢いを増しており、1768年にジェノヴァからコルシカ島を奪い占領した。

その3ヶ月後の8月15日に、コルシカ島の有力貴族ボナパルト家に生まれたのが、ナポレオンなのである。

ボナパルト家はもともとはイタリアの出身といわれており、由来はブオナパルテというイタリア語の名前だとされている。

ナポレオンが誕生した8月15日というのは、カトリックでは聖母マリアの被昇天の祝日。

ということで、本来ナポレオンはナポレオーネ・ブオナパルテとして生まれ育っていくはずなのに、その直前にフランス人になったというわけだ。

これもなにかの運命だったのかもしれない。

ナポレオンの幼少期

コルシカでは貴族とはいってもボナパルト家は、本国フランスでは取るに足らない存在だった。

当時、のし上がっていくには軍人としての地位を高めていくしかなく、1779年にナポレオンは9歳のときにブリエンヌ兵学校に入学する。

とはいえ、コルシカ島の出身ということもあって、孤独な学校生活だったといわれている。

その後、1784年10月にパリ士官学校へ進むが、父親の急死に伴い、1年半という短い期間で卒業して砲兵将校となる。

それから、ラ・フェール砲兵連隊に着任するのだが、駐屯地では特段やることもなく、当時のナポレオンは読書に明け暮れたとされる。

フランスの啓蒙思想家として有名なルソーの思想に強く共感し、コルシカ島の独立を支持したレナールには熱狂している。

その証拠にナポレオン自らも手記の中で、フランスのコルシカ島占領を批判している。

フランス革命による変化

1789年7月14日にフランス革命が起こる。

フランス革命は、フランスで領地を所有する貴族と高級聖職者が権力を独占していた構図が破壊され、ブルジョワジーと呼ばれる商工業、金融業の上に立つ者が権力を握った変化のことである。

当時は牢獄だったバスティーユが市民たちによって襲撃され、フランス革命が始まる。

8月になると軍の将校たちは、新体制に忠誠を宣誓する。

ナポレオンはフランス革命を支持していた立場だったが、故郷を気にするあまり休暇願を提出して、1789年9月から1791年1月まではコルシカ島に滞在している。

アンシャン・レジームと呼ばれる革命前の旧体制時代の支配層はフランス領のままでいることを主張したが、住民は革命派と王党派に別れて対立。

一方、本土では1789年11月に憲法制定国民議会がコルシカ島をコルシカ県と決定した。

1791年9月にフランスからコルシカ島に再び戻っていたナポレオン。

ただ、そのときにはコルシカ島内では、反フランス派が多くなっており、フランスへの対立が激しくなっていた。

翌年の1792年には、ナポレオンが副隊長を務める国民衛兵と群衆とのあいだで衝突が起こるまでに発展した。

その責任を取って、ナポレオンはフランスに帰還することになる。

フランス陸軍に復帰したナポレオンだったが、国王ルイ16世一家のいたチュイルリー宮殿をパリの民衆が襲撃する事件が起こる。

これを、8月10日事件と呼び、国王ルイ16世やマリー・アントワネットら国王一家を捕らえタンプル塔に幽閉した。

この事件により、フランスでは王権が停止され、9月21日に王権を廃して共和政府樹立の宣言がされることになる。

 

大量殺戮事件を起こしたパリの民衆に対して、ナポレオンは怒りの感情を隠しきれないまま、10月にはまたコルシカ島に帰還。

翌年の1793年2月、コルシカ島の南にあるサルデーニャ島への遠征軍の砲兵将校として、ナポレオンは初めての実戦を経験することになる。

ナポレオンはサルデーニャ島周辺の小さな島の攻略をしていたが、そのときの水兵たちが反乱を起こし、ナポレオンが加わっていた遠征軍は撤退。

戦いに負けたわけではないのに退却しなくてはならないという苦い経験をすることになる。

そして、実はこの遠征軍はコルシカ島の独立を画策するパオリに率いられていたということを、ナポレオンの弟であるリュシアンが告発する。

1793年4月にパオリはパリに呼び戻されたが、独立を支持する島民たちはボナパルト家を襲撃。

この影響で、ボナパルト一家はコルシカ島を脱出してトゥーロンへ逃亡。

1794年には、イギリスと同盟したパオリによってイギリス・コルシカ連合王国が誕生したが、1796年にコルシカ島はまたフランスに占領されてしまう。

ナポレオンは故郷を失い、1799年のエジプト遠征のときに立ち寄ったのを最後に二度とコルシカ島には足を踏み入れなかった。

コルシカ人としてではなくフランス人になる以外に、ナポレオンの選択肢はなかったのである。

フランス革命の転機

フランス革命は、1789年に起こったと先述したが、一度きりの事件ではない。

1792年に王権が廃されてフランス共和国が誕生したが、後ににジロンド派と呼ばれるブルジョワジーと呼ばれる商工業、金融業の上に立つ者が権力を握っていた。

フランス革命は、さらに進行して、1793年5月にまた革命が起こり、ジャコバン派が権力を掌握。

ルイ16世は1973年1月にすでに処刑されていたが、王妃マリー・アントワネットはロベスピエールに率いられたこのジャコバン派によって10月に処刑。

9月には、ナポレオンがトゥローンで砲兵隊司令官に任命され、イギリス軍をトゥローンから撤退させている。

その戦功により、ナポレオンは24歳で准将に昇格する。

軍人として順調な出世コースに乗ったかと思うと、ジャコバン派による恐怖政治が1794年7月27日のテルミドールのクーデターで終了。

ナポレオンもその一味とみなされてしまうことになる。

 

ジャコバン派を抹殺したテルミドール派は、今後のフランスの政治をどうするかでしばらくは迷走し、その一方で王党派の反乱が起こる。これをヴァンデミエールの反乱と呼んでいるが、この反乱を鎮圧するのに功績のあったのがナポレオンだった。このときの軍の最高司令官がバラスで、テルミドール派による総裁政府が成立したときの5人の総裁の1人がこのバラス。ナポレオンより6歳年上のジョゼフィーヌはバラスの愛人の1人だったが、若いナポレオンはその魅力のとりこになる。1796年3月2日にバラスはナポレオンをイタリア方面最高司令官に任命。その数日後にバラスが立ち会ってこの2人は結婚。

結婚してすぐにナポレオンは第一次イタリア遠征をし、イギリスと同盟していたオーストリアの北イタリアの領土を攻撃。

ニースからミラノを目指し、ロンバルディア平原のロディ橋で数倍の軍勢のオーストリア軍と戦闘。

ナポレオンはこれに勝利して、1976年5月15日にミラノを占領。

その後、ボローニャ、フェラーラなどを占領したあと、1797年1月のリヴォリの戦いで電撃的勝利をし、2月には北イタリアを占領。

これはパリでもニュースになり、英雄ナポレオンが誕生するきっかけとなる。

1797年6月29日にロンバルディア地方はチザルピーナ共和国となり、10月17日のオーストリアとのカンポ・フェルミオ条約で、オーストリアはヴェネチアを以外の北イタリアとネーデルラントを手放した。

クーデターの主役になるナポレオン

フランスの総裁政府は勢力圏を拡大し、フランス共和国の政治制度にならって共和国を建設。

その代表的な例が1795年のバタヴィア共和国建設で、これは現在のオランダにあたる。

ナポレオンがつくったチザルピーナ共和国もその1つではあるが、ナポレオンは総裁政府と相談せずに独断でしたために、総裁政府の不評を買ってしまう。

ただ、北イタリアからの戦利品などのおかげで、総裁政府におけるナポレオンの地位は不動のものとなる。

1798年にナポレオンはイギリス侵攻作戦の責任者になったが、イギリス本土攻撃は無理だと判断。

外務大臣タレーランの提案したエジプト遠征に切り替えた。

エジプトにはピラミッドやスフィンクスの像などがあるが、古代オリエントの文明に対してフランスは一種の憧れを抱いていたので、この遠征に学者もたくさんついて行った。

1798年7月1日にアレクサンドリアを攻略。

7月21日のギザの戦いで勝利し、カイロを占領するところまでは順調だったが、なにしろエジプトの猛暑に勝てず、ネルソン提督の率いるイギリス艦隊によってフランス艦隊は壊滅。

9月にはオスマン帝国がフランスに宣戦。

遠征軍を残してナポレオンはパリに逃げ帰ったのですが、パリでは勝利のニュースだけが伝わっていて、ナポレオンはエジプト遠征の英雄として迎えられた。

 

エジプト遠征は結局のところ成功しなかったのだが、ナポレオンはここでもまた英雄のオーラを獲得することに成功した。

しかし、国際関係はというと、イギリスとロシアとオスマン帝国が対仏大同盟を締結。

フランスは国際的に孤立する危機に直面する。

総裁政府はジャコバン派と王党派を押さえつける力をなくしたので、軍隊の力を借りてクーデターを計画。

総裁のひとりだったシェイエスはタレーランや警察大臣フーシェらとともに、エジプト遠征の英雄ナポレオンを担ぎ上げた。

1799年11月9日、革命暦ではブリュメール十八日にクーデターが行われ、議会がパリからサン・クルーに移されて、ナポレオンがその議会を警護する部隊の司令官になった。

この議会でナポレオンは議員たちを説得しようとしたが、議員たちの質問攻めにはさすがの英雄もその力を発揮できませんでした。

議会は元老会と五百人会の両院で構成されており、五百人会の議長はナポレオンの弟リュシアン。

そのおかげで、ナポレオンは五百人会に部隊を引き入れ、このクーデターの主役になった。

クーデターの主役から皇帝に

クーデターで総裁政府は崩壊。

クーデターの首謀者であったシェイエスはナポレオンの影に隠れ、ナポレオンがフランスの救世主になる。

1799年12月15日、共和国第八年憲法が公布され、革命は終わったという宣言とともに、ナポレオンが第一統領に指名。

この憲法によってフランスの今後の政治体制が決められるとともに、21歳以上の男子の普通選挙も規程される。

ナポレオンを含めて3人の統領の合議によって政策などが決定されることになっていたが、実質的には第一統領に権力が酋長していてあり、あとの2人の統領は相談役にすぎない。

立法府としては、元老院と護民院と立法院があったが、第一統領の権力の大きさに比べたらその権限は弱いものだった。

むしろ、法律や軍事などの専門家によって構成されている国務院の方が、第一統領を補佐して法案などを作成していたから、政府機関としては上位だった。

日本で男子普通選挙が導入されたのは1925年、ドイツでも1848年の三月革命のときの国民議会で決定されたわけで、フランスの先進性が表れている。

後にこの制度を利用して、1804年にナポレオンはフランス国民によって選ばれた皇帝になる。

 

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section>フランス革命は、フランス国内で大きな変化を引き起こしたばかりではなく、対外的にも戦争状態を生じさせた。ナポレオン自身もフランスの軍人として、イタリアやエジプトに遠征した。フランス共和国もこの戦争で領土を拡大したが、この時点では国際的に孤立し、拡大した領土も失っていった。ナポレオンは第一統領として、フランスの置かれていたこの危機的状況を克服する必要があった。国内問題としては、宗教問題で反乱をしていたヴァンデ地方に礼拝の自由を認め1800年に講和。また革命の騒動により国外に亡命していた人たちの帰国を促す。

国内の不満を解消するために、1800年4月にナポレオンはアルプスの山を越えて第二次イタリア遠征をした。

ルーブル美術館にある白馬にまたがった有名なナポレオンの絵はこれを描いたものだが、これももちろんナポレオン一流の脚色。

オーストリアとのマレンゴの戦いでは苦戦し、ドゼー将軍の活躍によりなんとか勝利したものの、ドゼー将軍は戦死。

そのため戦勝の立役者はナポレオンになった。

国内では1800年12月24日にナポレオン夫妻の暗殺未遂事件をきっかけにして、ジャコバン派をはじめとして反対派を徹底的に弾圧。

新聞や文学作品・演劇に対する検閲が行われ、言論や集会の自由も失われ、警察による監視体制が強化された。

見かけ上は治安が良くなることに成功した。

フランス国民に選ばれた皇帝

国際的に孤立していたフランスだったが、マレンゴの戦いのあと、1801年にオーストリアと結んだリュネヴィルの和約で、北イタリアを取り戻す。

その後、スペインを味方にして、ロシアやアメリカとも和解。

1802年にはイギリスとアミアンの和約が結ばれ、1792年から続いていた戦争は終結。

フランスはふたたびヨーロッパ大陸での覇権を手に入れ、第一統領のナポレオンはまたまた英雄になる。

また、ナポレオンとジョゼフィーヌとの結婚のときに司祭が立ち会わなかったように、革命のときからカトリックなどの既成の宗教は排除されていたが、ここでナポレオンは宗教問題にも取り組んだ。

1801年にはローマ教皇庁との協約であるコンコルダが結ばれ、8月15日に批准。

この日はナポレオンの誕生日でもあり、翌年からは盛大な祝典が催されることになる。

また、プロテスタントのカルヴァン派とルター派にもカトリックと平等の権利が与えられ、さらに1808年にはユダヤ教も公認宗教になる。

相次ぐ戦争で疲弊した国家財政を1800年にフランス銀行を設立するなどして健全化。

地方行政も、ナポレオンによって任命された県知事が行うようになった。

こうして、ナポレオン個人に、国家のあらゆる権力が集中するようになり、そのためナポレオンはしばしば独裁者とも呼ばれている。

 

成年男子による普通選挙が1802年に行われ、そこで、10年の任期だった第一統領の終身制が認めらた。

これでナポレオンは実質的にフランスの王ということになった。

フランス革命の自由・平等の思想は、その後の法の基本になったが、これをまとたのがナポレオン法典と呼ばれるフランス民法典。

これは1804年3月21日に公布されたが、その同じ日に王党派の陰謀事件に関与したとして王族のアンギャン公が銃殺された。

王族を処刑したことで、共和派はナポレオンへの支持を強めた。

ナポレオンはこれを機に、古代ローマ帝国の鷲をシンボルにして、皇帝になることを決意。

9月にはカール大帝の宮廷があったアーヘンに行き、そして12月2日、パリのノートルダム大聖堂にローマ教皇ピウス7世を呼んで、戴冠式を行った。

ローマ教皇から帝冠を奪い自らの手で戴冠した。

フランス国民に選ばれた皇帝なので、ローマ教皇はあくまでも飾りに過ぎなかったということで、ナポレオンこそがこの世界の第一人者ということになった。

ヨーロッパ大陸を再編

1803年にはアミアンの講和が破れて、またイギリスとの戦争が始まる。

イギリスとの戦争の次に、1805年にはロシアがまた対仏大同盟の主導して、イギリスのほかに、オーストリア、さらにはプロイセンとナポリ王国がこの同盟に加わった。

1805年10月21日、スペイン沖でフランスとスペインの連合艦隊とイギリス艦隊が海戦。

これをトラファルガーの海戦と呼んでいますが、ネルソン提督のイギリス艦隊は圧勝。

ナポレオンのイギリス上陸作戦の計画は消えた。

しかし、大陸では12月2日にロシアとオーストリアの連合軍に勝利。

このアウステルリッツの戦いを、フランス皇帝・オーストリア皇帝・ロシア皇帝の三帝会戦とも呼んでいる。

これによって、ナポレオンはイギリスをあきらめて、ヨーロッパ大陸制覇を目指した。

 

1806年にはナポリ王国を攻撃し、ナポリを陥落。

さらに、以前にフランス共和国にならって建国されたいくつかの共和国を王国にして、ボナパルト家の兄弟などをその王にした。

また、神聖ローマ帝国に属していたドイツの領邦を改変し、バイエルンやヴュルテンベルクは王国になったのですよ。

1806年にナポレオンの主導のもと、ドイツ諸侯によるライン連邦が結成される。

これで有名無実だった神聖ローマ帝国も名実ともに消滅。

ドイツ諸侯のなかでナポレオンに敵対するのは、プロイセン王国とオーストリア帝国だけになった。

プロイセンもイエナ・アウエルシュテットの戦いで敗北。

これを機にプロイセンは内政改革に着手して、反撃の機会を模索。

1807年にナポレオンはポーランドに軍を進め、ロシア・プロイセンとティルジットの和約を結んで、その結果ワルシャワ公国が誕生。

ドイツ西部のプロイセン領だった地域をウェストファリア王国にして、ナポレオンは末の弟ジェロームをその国王にした。

ヨーロッパ大陸の地図はすっかり塗り替えられた。

1806年にナポレオンがプロイセン王国の首都ベルリンで出した大陸封鎖の勅令に、ロシアも加わり、ヨーロッパ大陸にはもうナポレオンの敵はいなくなったように見えた。

ロシア遠征の失敗

1812年にはフランス帝国の版図は最大になったが、ロシアとの関係は悪化した。

ロシア皇帝アレクサンドル1世は、オスマン帝国と講和して、ナポレオンとの戦争に備えた。

1812年、ナポレオンは60万人以上の軍を率いてロシアに進軍。

6月24日にはついにロシアの国境を越えた。

ところが、ドイツとポーランドとイタリア兵を加えたこの大軍は、逆にそのために軍隊としての統一性がなかった。

一方でロシアの作戦は、ナポレオン軍をロシア内部に引き込むこと。

勝利しながら進軍しているように見えたナポレオン軍は、9月14日にモスクワに迫ったのですが、ロシアはモスクワを放火。

そのため食料も得られなくなったナポレオン軍は退却し、冬将軍に敗北した英雄ナポレオンは、12月末にプロイセンにたどり着く。

ナポレオンの失速

失敗してもそれを補ってあまりある幸運に恵まれてきたナポレオン。

ただ、ロシア遠征の大失敗は伝説の英雄を地にたたき落とした。

かつて最後までナポレオンに抵抗したプロイセンとオーストリアはふたたび反ナポレオンとなり、イギリスの財政援助によりまた対仏大同盟が結成される。

ライン連邦諸国も反ナポレオンに転じて、1813年10月のライプチヒの戦いでナポレオンに勝利。

この戦いを諸国民戦争とも呼んでいるが、それはドイツ人の統一を目指す動きがこの戦争で明らかになったからとされている。

1814年1月に、対仏連合軍はフランスに侵入。

3月31日にはパリに入ったため、4月1日に元老院はあわてて皇帝を廃位し暫定政府をつくることを決議。

4月4日にナポレオンはフォンテーヌブローで退位。

5月3日には、ルイ16世の弟のプロヴァンス伯がルイ18世となり王政復古。

 

ナポレオンによって書き換えられたヨーロッパの地図をどうするかについて、オーストリアのメッテルニヒ外相の主導により、1814年9月にウィーン会議が開かれる。

会議は踊る、されど進まずというように、華やかなウィーンに集まったヨーロッパ各国の首脳たちたったが、ヨーロッパをフランス革命以前の状態に戻すことを目標としたこの会議は迷走。

意見の一致をみないまま、会議はただ夜の晩餐会や舞踏会のためにあるようなものと皮肉られる。

この情勢をみたナポレオンは、1815年2月26日にエルバ島を脱出、パリに戻って皇帝に復位。

これをナポレオンの百日天下といいますが、ヨーロッパ諸国はナポレオンがふたたびフランス皇帝になることを望まなかったので、6月18日にワーテルローでナポレオン軍と戦闘。

この戦いで敗北したナポレオンは、今度は大西洋にあるイギリス領の孤島セント・ヘレナ島に流刑となる。

7月8日にはルイ18世がパリに戻ってまた王政復古。

ウィーン会議そのものは、ナポレオンのエルバ島脱出を機に、6月9日にウィーン議定書を決めて閉幕。

セント・ヘレナ島に流されたナポレオンは、1821年5月5日に死去。

まだ51歳だったので、ナポレオン暗殺の伝説も生まれることとなった。

まとめ

フランスの高級ブランデーの名前にもなっているナポレオン。

歴史だけを振り返ってみても、特段のスゴさは感じられない。

ただ、彼は自分の売り込み方がとても上手だったとされている。

今でいうマスコミを巧みに使ったブランディングが功を奏し、皇帝の地位を築いたとされている。

英雄の1人を振り返ってみたが、いかがだろうか。

 

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植田 振一郎 Twitter

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