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2021年7月29日 投稿:swing16o

姪っ子や甥っ子を見て思う教育について

迂直之計(うちょくのけい)
→ 遠回りのようだが、実際は最も効率的・効果的な方法。

急がば回れ。

この一言に集約される四字熟語である。

この表現は確かに納得のできるものなのだが、実際に回っているときには気づかないように思う。

つまり、結果として回り道をしていたことに、後々気づくというロジックである。

そして、それがポジティブな要素として捉えられる。

でも、回り道をしなくても、最短で行けた方がいいに決まっている。

努力することを無駄に汗を流すことと一緒だと思っている人が多い。

急がば回れと無意味な精神論は似て非なるもので、後者はなにも生み出さないことを冒頭で述べておきたい。

未来予想は誰にもできないという事実

stakというIoTデバイスを世の中に生み出すことを決めた。

でも、まさかこんなことをやっているなどと、小学生や中学生の自分は想像もしていない。

それどころか、5年前の自分であっても今の自分の姿などわかるはずもない。

同様に来年のことや5年後、10年後のことなど変数が多すぎるので、誰にもわからない。

だからといって、なにもしないということは選択肢の中にない。

 

私には7人の姪っ子と甥っ子がいる。

その中の3人は小学生になって、一番大きな姪っ子は小学校6年生になった。

夏休みに入り、埼玉から広島の実家で過ごしている。

教師だった母親から毎日のように宿題を見てもらっているような状況だ。

この光景が30年近く前の夏休みと変わっていないことに違和感を覚えるのである。

その理由は夏休みの過ごし方の最適解ではないことにある。

教育について考える

未来予想はできないということだが、教育についてはとても重要だという考えを持っている。

ここには矛盾がある。

なぜ教育するのかといえば、未来に向けて教養や知恵をつけていくためである。

ということは、未来にどういったことが起こるかある程度の予測をしなければ、教育にならないからである。

この矛盾を考えたときに、30年前と同じ夏休みの過ごし方をしていてはダメだと直感でわかる。

日本の教育の最大の弱点である、平均的な人間を生み出そうとする教育が根本にあるからだ。

その際たるところが、どんな場面でも弱者に合わせようとすることである。

 

勘違いして欲しくないが、私は決して弱者を見捨てろと大胆なことをいっているのではない。

弱者はどんな場面にでも現れるから、ずっと弱者の目線で物事を進めていくと、なにもかもが中途半端に終わることを説いている。

例えば、数学が得意な人は必ずしも国語が得意ではない。

数学の授業の場面では強者かもしれないが、国語の授業の時は弱者となる。

別に科学が得意な人が体育が苦手という状況でもいい。

この場合には、科学が活用できる場面では強者であっても、運動をする場面では弱者だ。

というように、常に強者でいられる人など皆無なのだ。

オール5の成績を取ってきたような人であっても、そこは不変である。

自分自身が先生だったと仮定してみる

となると、教育とはどうあるべきなのか。

簡単である。

苦手の克服など一切する必要はなく、得意な部分をとにかく伸ばせばいい。

最悪なのは得意な分野が1つもなく、全てをほどほどにこなせるというタイプの登場だ。

苦手を克服しようとするとなにが起きるのか。

そもそも好きなことではないので長続きせず、もっと嫌いになってしまうということが往々にして起こる。

であれば、得意をとことん伸ばして、苦手なところを得意な人に補ってもらえばいい。

要するに弱者の部分に強者を連れてくればいいだけの話だ。

 

でも、自分に得意な部分がなければなんの魅力もない。

それでは弱者しか集まらなくなるのでチームや組織として成り立たない。

最低でも1つは誰にも負けない得意な部分を持っているということがマナーになるというロジックだ。

そうすれば補える部分が出てくるので、上手く回るようになる。

先生のあるべき姿

私の場合、両親が共に教育に携わるという職業だったため、先生という人に対して一般的な人に比べると、少々うがった見方をしているかもしれない。

先生しかしたことがない人が、なぜその人の将来向いている仕事がわかるのだろうか。

公務員として働いている先生が、なぜビジネスやファイナンスのことがわかるのだろうか。

そんな感じの先生からすると、嫌な生徒だったと思う。

 

けれども、その考え方の根本は今でも変わっていないどころか、むしろ強くなっている気持ちがある。

それは、ビジネスやファイナンスのことを幼少からきちんと教えていくべきだということだ。

そうすることで選択肢が圧倒的に拡がり、考える場面も増えて教養が増す。

そんな場面の教育ができるのは、今の先生ではない。

一般的な科目を教える先生がいることは否定しない。

そこに経営者やファイナンスに詳しい公務員でない人の授業を加える形に変更するのである。

それで、社会に出たときにある会社とはこういう形で動いていることやお金の仕組みを歴史からきちんと教育する。

実はいわゆる育ちがいいとされる多くの家庭では自然とこの部分の教育が施されている。

幼少期からその感覚があれば、挑戦するときに大きく道を外すことはない。

まとめ

社会に出る少し前や出てから全く知らなかった経済のことや株のことなどを知ったとき、衝撃が走ったことを覚えている。

こんな世界があったことをなぜ誰も教えてくれなかったのだろうと当時は不思議に思っていた。

ただ、今はその理由を説明することができる。

それは経験や知識がないので、単純に教えることができないからだ。

人になにかを教えようとするということは、当然自分自身が理解していなければならない。

そういった人がいないのであれば、生み出していくしかないし、教育も常に変化していかなければ未来への投資など不可能だ。

少しでも教える側に回れるよう日々の過ごし方を大切にしようと改めて思うのである。

 

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植田 振一郎 Twitter

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