一度苦労すれば、長くその恩恵を得られること。また、わずかの苦労で多くの安楽が得られること。
一時代を築いたという表現を用いるのがバチッと当てはまる事例を考えてみた。
日本の歴史を振り返ったときに、圧倒している一族がいることに気づいた。
1603年〜1868年という長い間、トップに君臨した一族といえば、そうおわかりだろう。
徳川家康が天下と取ってから265年もの間、日本国を統治していたことは、冷静に考えるととんでもないことだ。
第15代将軍の徳川慶喜まで、誰もが学校で江戸幕府のことを学んでいるはずだ。
まさに、一度苦労すれば、長くその恩恵を得られることの典型ではないだろうか。
戦国時代が好きな経営者は多い。
武将はもちろん、人気のある軍師も多い。
私も戦国時代は好きで、学生時代にはいろいろと城巡りをした典型的なパターンの1人である。
修復されている城が大半とはいえ、現世まで残っていることは、単純にスゴいと言わざるを得ない。
現代ならともかく、あの時代に現在価値で何十億円という予算をかけて、3年以内に築城していることはモノづくりにも繋がるところがあるように思う。
そんな中、こんな記事を見つけた。
大河ドラマにもなっている、徳川家最後の将軍、徳川慶喜に関する記事だ。
江戸幕府の歴代将軍の中でも、賛否両論が最も多いのが、この徳川慶喜だろう。
というのも、臣下を見捨て、自分だけ生き残ろうと逃げ出したという史実がピックアップされることが多いからである。
時は慶応4年(1868年)。
官軍と旧幕府軍が政権の主導権をめぐって、京都で激突し、鳥羽・伏見の戦いの火ぶたが切られた。
このとき既に徳川慶喜によって大政奉還が行われていたので、政権は朝廷に返上されていた。
ただ、この戦いで旧幕府軍が主導権を取り戻すことは不可能ではなかった。
ところが、徳川慶喜は総大将の身でありながら、戦の途中で大阪城を脱出した。
この江戸への逃亡劇があまりにも印象が強く残ってしまい、大政奉還も無責任に政権を投げ出したという評価に繋がっているのである。
果たして、本当に徳川慶喜はそんな人物だったのだろうか。
私はこの見方には否定的な立場だ。
この記事にも書いてあるが、彼の最も大きな功績は開国したことである。
もともと、将軍になることに興味がなかった彼が、半ば成り行きで将軍になり政権を握ることになった。
そんな徳川慶喜は定見がない、つまり自分の意見がないと揶揄されることも多い人物だった。
くしくも、彼が生きた時代は、まさに開国を迫られたときである。
尊皇攘夷の考えが蔓延する中、彼はこう言い放ったとされる。
世界万国が天地の公道に基づいて互いに交誼を図っている今日、わが国だけが鎖国の旧習を守るべきではないと。
この一言で徳川慶喜の人物に対して、一気に見方が変わるのである。
世論というのは恐ろしく、まさに今はコロナの話題で持ちきりだ。
大衆はTVを中心とした、いわゆるマスメディアに影響されることが多い中、英断することができない政治家ばかりだ。
真のリーダーシップを発揮した、なによりも証拠になる一言のように思うのだ。
265年も続いた天下に自分の代で終止符を打つという判断はなかなかできないだろう。
リーダーとは、どうあるべきなのか、最近考えさせられることも多い。
stak社の進むべき方向、企業としてあるべき姿はCEOである自分の判断が大きく影響する。
すぐに結果に結びつかない判断も多く、未来に過去の判断の是非が問われることがほとんどだ。
けれども、その1つ1つの判断にいちいち時間をかけてはいられない。
未来を切り拓くために。
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