美意延年(びいえんねん)
→ 楽しく生きれば長生きできるという意味。
美意延年という言葉の響きには、単に寿命を延ばすだけではなく、人としての美しさや生き方そのものを磨き上げるニュアンスが込められていると感じる。
古い文献をさかのぼると、養生や長寿の秘訣として「心身ともに健やかに暮らす」ことが強調されてきた。
例えば江戸時代に書かれた貝原益軒の『養生訓』には、心の持ち方や楽しみ方が健康と直結するという教えが見られる。
そこに美意延年と似通った思想がある。
もちろん、その根底にあるのは医学や栄養学の考え方だけではない。
絵画や和歌、茶の湯といった日本独特の文化を楽しむ精神もまた、美意延年を支える大きな要素だった。
古の貴族は移りゆく四季の情景を愛で、そこに豊かな時間を見いだしていたという。
そんなふうに美を感じながら生きる喜びが、結果的に心身を潤し、年齢を重ねるほどに深みを増す人生へとつながるのだろう。
ここで言う「美」は、見た目の華やかさだけではなく、自分の生き方や考え方を洗練させることに近い。
それは必ずしも贅沢をすることや、派手な趣味を持つことではない。
むしろ、どんな環境に置かれても、自分なりの楽しみを見つける姿勢や、視点を変えることで普段の景色を新鮮にとらえる力こそが、美意延年の源泉だと考えている。
人生100年時代をリアルに感じる家族のエピソード
人生100年時代という言葉が市民権を得て久しいが、自分の家族にはすでにそれが当たり前になっている。
母方の祖父は100歳を超えるまで生き抜き、父方の祖母は100歳を超えた今もなお元気で暮らしている。
これだけ聞けば、まさに人生100年時代の象徴のようだ。
厚生労働省が毎年公表する簡易生命表では、日本人の平均寿命が年々伸び続けている事実が示されており、2022年時点では女性87.57歳、男性81.47歳という数字になっている。
さらに総務省の統計によると、日本の100歳以上の高齢者数は9万人を超えており、その大半が女性だという。
まさか自分の身内がその統計の一部になるなんて、昔は想像できなかった。
子どもの頃は「おじいちゃんやおばあちゃんが100歳になる」なんてSFのような話だと思っていたが、今ではそれが当たり前の光景になりつつある。
そうなると、長生きの意味や価値を改めて考えざるを得ない。
人生の選択肢が飛躍的に増えていく以上、ただ年齢を重ねるのではなく、どう生きるかにフォーカスしたほうが圧倒的に面白い。
単に長生きするだけでは空虚だという事実
自分の祖父母のように100歳を超えて生きる人が増えている反面、誰しもが楽しく過ごせているわけではない。
医療が進歩し、介護サービスが整備されていることで寿命自体は延びやすいが、長生きがイコール幸せかというと、そう単純ではないのが現実だ。
自分自身も、他の高齢者の方を見聞きする中で、長い人生を持て余すように日々を送っている例も知っている。
結局のところ、人生が長くなったところで、「自分の人生、楽しめている」と言えるかどうかが大きな分かれ道になる。
厚生労働省の調査によれば、高齢者の生きがいとしては家族や友人とのコミュニケーションや、趣味の継続、地域活動などが上位に挙げられている。
つまり、誰かとのつながりや、興味を継続的に持つ姿勢が幸福度に直結する。数字の上での長生きはあくまで結果であり、そこに至るまでの過程に楽しさや充実感を抱けるかどうかがカギになる。
だからこそ、100歳を目指すこと自体が目的化するのは危険だと思う。
ゴールテープを切ったとして、その先に何があるのか。
もしそこに空虚さしかないなら、長生きしても「自分の人生は楽しかった」とは言えない。
むしろ、いつその時が来ても「あれだけ楽しめたから、もう十分」と思える生き方を確立するほうが、美意延年に近いはずだ。
「今が一番楽しい」と言える強さ
かつて母方の祖父に、「人生で一番楽しかったのはいつか」と尋ねたことがある。
その問いに対する答えは驚くほどシンプルだった。「今が一番楽しい」。
当時の祖父は90代半ばだったが、もう若い頃の体力はないし、戦争を経験した世代だ。特に広島という土地柄、戦争の傷痕が周囲に色濃く残っている時代を生き抜いてきた。
実際に被爆こそしなかったものの、あの年の夏の記憶が脳裏にこびりついて離れないという話を聞かされた。
戦後の混乱期や復興の流れの中で、決して豊かとは言いきれない時代をくぐり抜け、それなりの苦労をしてきたはずなのに、「今」が一番楽しいと言えるのは相当なマインドセットだと思う。
普通なら「あの頃は若かったし、あれこれできて楽しかった」と過去を懐かしむのが自然だと感じるのだが、祖父はむしろ今の生活を充実させることに喜びを見いだしていた。
当時のことを改めて振り返ると、「過去に戻りたいなんて思わない。
今しかできないことがあるから」と言い切っていた姿が印象深い。年齢を重ね、身体能力が落ち、記憶力だって衰えはする。
でも、新しいテレビ番組を見て笑ったり、新聞に載っている世の中のニュースに関心を持ったり、家族との会話を心から楽しんだりする姿が確かにそこにあった。
過去と比較して嘆くより、「今」の光を見つけ続けるほうがよっぽど尊いと感じる。
楽しさを増幅させるためにできること
そう考えると、人生の楽しさを左右するのは、年齢でも財産でもなく、自分の意識次第ということになる。
趣味や遊び、勉強を始めるタイミングはいつでもいいし、それを通じて他者とつながれるなら刺激は尽きない。
実際、内閣府の「高齢社会白書」によると、高齢者になってから地域活動やサークル、ボランティアなどに参加し始める人も少なくない。
その結果、家に閉じこもりがちな生活から抜け出し、元気を取り戻す事例が多く報告されている。
楽しさは自動的にはやって来ない。自分で興味を持って動き、新しい場や人と交わる中で生まれてくるものだ。
身体が動くうちにしかできないアクティビティもあるだろうが、デジタル技術の進歩によって、オンラインを通じた学びやコミュニケーションの選択肢は格段に広がっている。
SNSを活用して友人や見知らぬ人と交流を続ける高齢者も増えているし、ネットショッピングで世界中の商品を取り寄せる楽しみを知る人もいる。
「そんなの若い人の遊びだろう」と言ってしまえばそこで終わる。
けれども、年齢の垣根を取っ払うほどに、意外な喜びが転がっているのが現代の特徴だと思う。
戦争を経験した世代がスマートフォンで動画を眺めながら笑っている姿を見ると、時代って本当に面白いと感じるし、それを拒否する理由なんて一つもない。
人生100年時代だからこそ、せっかく与えられた長い時間を使い倒すという発想が大切だと痛感する。
まとめ
最終的に目指すところは、数値的な長寿だけを追求するのではなく、「楽しみ続ける姿勢」が結果的に長寿をもたらすという逆転の発想だと思う。
美意延年という言葉が示唆しているように、日々を楽しみ、美しいものや心惹かれることに意識を向ける姿勢が、心身のエネルギーを保ち続ける鍵になる。
年齢を理由にしてやらないことを増やすのではなく、年齢を重ねたからこそ見える景色を味わう。
自分の場合は、stak, Inc.の経営という立場から「時間をどうデザインするか」を強く意識している。
毎日バタバタしていたら、せっかくの楽しいはずの時間があっという間に過ぎてしまう。
人を雇って組織を大きくすることも一つの手だが、超効率化を図って自分の自由度や発想力を最大化するほうが、結果的にクリエイティブな仕事ができると感じている。
人生の有限性を考えれば、やはり「今」が一番大切で、一番楽しいと思えるように行動したい。
何年生きるかではなく、どう生きるか。自分の祖母がそうであるように、100歳を超えてなお新しいことに驚き、笑い、語り合い、刺激を受ける人生はまさに美意延年の象徴だ。
過去の栄光を懐かしむのではなく、現在進行形で新しい発見に目を輝かせる。逆境にぶち当たっても、そこから何かしらの面白さを見つけ出そうとする。
そんな生き方をしている人は、周りにいるだけでこちらのモチベーションを引き上げてくれる。
人生100年時代という言葉が珍しくなくなった今、未来をどう楽しむかは一人ひとりの意志にかかっている。
家族や友人との関わり方、趣味や学びへの姿勢、そしてどんな仕事や活動に意欲を注ぐか。
すべては「今が一番楽しい」と言い切れるようになるための要素であり、その結果として健康が維持され、気づけば100歳を超えていたという結末のほうがずっと面白い。
結局、美意延年とは身体だけでなく、心をどう動かすかの問題なのだと痛感している。
過去でも未来でもなく、今この瞬間をもっと味わうことで、長寿という結果も自然についてくるという姿勢が理想形だと思う。
行動を起こすのに年齢というリミットはないし、むしろ長く生きる分だけチャンスも増える。
だからこそ、自分も経営者として、また個人として、「今が一番楽しい」と言い続けられる生き方を追求していきたいと心から感じている。
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