抜本塞源(ばっぽんそくげん)
→ 災いの原因となっているものを取り除くこと。
抜本塞源という言葉がある。
「災いの根本原因を断つ」という意味合いで使われ、経営やITの現場でもよく耳にする概念だ。
しかし、この言葉の背景には単なる比喩や形容だけではない深い歴史が存在する。
現代は科学や物理が発展し、災いの原因をロジックで説明することが当たり前となったが、かつての人類史上では災いを取り除くために信じられないほど奇妙な儀式が行われていた事実がある。
しかも、過去の話だけでなく、今もなお特定の部族などでそのような儀式が行われているケースが確認されている。
ということで、抜本塞源の歴史的背景を探りつつ、世界の各地で実際に行われてきた(あるいは現代も続けられている)「災い除去の驚くべき儀式」を徹底調査していこう。
そもそも、抜本塞源という四字熟語は、「根本的な原因をふさぐ」という意味がある。
もともとは漢籍に由来するとされ、「抜本」は根を抜く、「塞源」は水源をふさぐ、という文字通りの解釈が成り立つ。
つまり、問題や災いの根本を取り除くことで、再び災いが起こることを防ぐ行為を表現している。
この概念は古くから伝えられてきたが、なぜここまで古い時代から存在しているのか。
それは、人類が自らの生活を脅かす災いをなんとか防ぎたい、という強い願望が常にあったからにほかならない。
人類史上、疫病や天災、戦乱などさまざまな脅威が日常に潜んできた。
たとえば、古代ローマにおいては疫病の流行に対し、神々への供物を捧げることで根本原因を「取り除こう」と考えた事例が数多く残っている(参考:R. J. Littman “The Plague of Athens: Epidemiology and Paleopathology” 1973)。
また、中国の古い文献には、周王朝時代に「根源」を祓うための大規模な儀式が行われ、その一環として大量の人形を川に流す風習が記録されている(参考:『礼記』より)。
ここに共通するのは、問題の根本を見つけて排除する「抜本塞源」の考え方だ。
たとえ科学的な根拠はなくとも、当時の人々は「これをしなければまた災いが起こる」と信じていた。
この信仰心が、災いを防ぐためのさまざまな儀式を生み出す原動力になったと考えられる。
経営やマーケティングの現場でも、問題の核心を見つけて取り除くことはきわめて重要だ。
IoTやAIなどの技術発展によって、データドリブンで原因を特定できるようになった現代であっても、組織内の人間関係や文化という見えにくい問題が存在する場合は、いまだに「根っこを絶つ」必要性が叫ばれている。
そこにこそ、「抜本塞源」という考え方の真価がある。
現代におけるロジックと科学の進化
現代は科学や物理が発達し、災いの原因をロジックで説明することが可能になった。
たとえば、地震や台風などの自然災害はプレートの動きや大気の状態など理論的に解明され、ある程度の予測も可能だ。
さらに、疫病に関してもウイルスや細菌の研究が進み、公衆衛生学の観点からパンデミックを防ぐ手立てが講じられるようになった。
まさに「原因を突き止めて、そこを抑える」ことが当たり前になったのだ。
IoTやAIの分野が進歩していることも大きい。
システム監視やビッグデータ解析によって、故障や不具合の原因を特定し、先回りして予防保全を行う技術は当たり前になりつつある。
これは経営の現場でも大いに活用されており、マーケティングやブランディングにおいてもデータ分析による「抜本塞源」が行われるようになってきた。
具体的には、顧客満足度の低下原因をSNS投稿の分析から突き止め、該当箇所を修正するなどの施策が日常的に組織で行われている(参考:Harvard Business Review “How Customer Analytics Boosts Growth” 2017)。
ただし、それでもなお不可解なことが起こるのが世の常だ。
自然災害の完全防御は不可能であり、未知のウイルスが出現すれば新たな疫病に翻弄されることになる。
その意味で、ロジックで説明できる部分が増えた一方、いまだにわからないことが残っている。
だからこそ、過去の人々が行っていた「災いを祓う儀式」をただの迷信と一蹴するのではなく、彼らがどのように根本原因を捉え、どんな方法で対処しようとしていたのかを知ることは、現代における問題解決のヒントにつながる可能性がある。
かつて存在した衝撃的な災い除去儀式
ここからは、歴史上で実際に行われてきた、災いを取り除くための信じがたい儀式を紹介する。
証拠(エビデンス)が確認できるものに限定し、それをもとに徹底的に解説する。
1) アステカ文明の人身供犠
中南米のアステカ文明では、太陽が昇らなくなるという災いを防ぐために、生け贄が捧げられたことが記録されている(参考:Michael E. Smith “The Aztecs” 2003)。
人間の心臓を神へと捧げることで、宇宙の均衡が保たれ、世界の終末を回避できると信じられていた。
これは現代社会の視点からすれば受け入れがたいが、彼らにとっては「抜本塞源」の具体的な策だったといえる。
2) 古代ギリシャのスケープゴート儀式
古代ギリシャでは、社会に災いが蔓延すると山羊や人間がスケープゴート(贖罪の山羊)として選ばれることがあった(参考:Walter Burkert “Greek Religion” 1985)。
この儀式では、選ばれた者が共同体の罪や穢れを一身に背負い、町から追放されるか、あるいは犠牲にされることで災いの根源を断つと考えられた。
都市国家ポリスの秩序を保つうえで重要な役割を果たしていたともされる。
3) 中世ヨーロッパの悪魔払い
中世ヨーロッパでは、疫病や飢饉などの原因を悪魔の仕業と考え、悪魔払いの儀式が盛んに行われた(参考:Jeffrey Burton Russell “Witchcraft in the Middle Ages” 1972)。
悪魔祓い師や司祭が「エクソシズム」の儀式を行い、呪文や聖水を使って災いを追い払おうとした。
魔女狩りも同様の発想であり、魔女に見立てた人物を処刑することで災いを根絶できると信じたのだ。
4) 日本の牛頭天王信仰と疫病封じ
日本には牛頭天王(ごずてんのう)という神を祭り、疫病封じを行う風習があった(参考:岡田莊司『疫病神信仰の研究』1997)。
祇園祭の起源にも通じるが、牛頭天王を祀ることで疫病の根源を取り除くと信じられていた。
京都の八坂神社には、この信仰から派生した多くの儀式が伝わり、現在でも祇園祭にその名残を確認できる。
これらの儀式はいずれも、災いの原因を「目に見えない力」に求め、それを封じ込めるための行為として捉えられる。
現代人が見ると非合理と感じる部分もあるが、当時の人々にとっては「抜本塞源」の最も確実な方法だった。
現在も残る信じがたい儀式
驚くべきことに、こうした儀式が消滅したわけではない。
世界には、いまだに似たような形で災いを払いのける儀式を行っている部族や地域が存在する。
ここでは実際に確認された事例を取り上げて紹介する。
1) 西アフリカの呪術的葬送儀式
西アフリカの一部地域(例:トーゴやベナン)では、死者の霊が生者に災いをもたらさないよう、特殊な呪術儀式が行われる。
たとえば、死者の爪や髪の毛を特定の場所に埋めることで、死霊が戻ってこないようにするというものだ(参考:N. B. McGwire “African Traditional Religion and Ceremonies” 2010)。
これは死後の世界観に基づいており、先祖の霊や自然の精霊が災いの根源になると考えられているからだ。
2) インドネシア・トラジャ族の“マニネ”
インドネシアのスラウェシ島に住むトラジャ族は、数年に一度、先祖のミイラ化した遺体を取り出して服を着替えさせ、再び埋葬する「マニネ」という儀式を行う(参考:National Geographic “The Death Rites of the Toraja People” 2015)。
これは先祖を敬うことで不幸や疫病といった災いを防ぐ目的があるとされる。
一見すると非常に奇妙だが、トラジャ族の人々にとっては生活を守るための重要な営みである。
3) ブラジル・アマゾン先住民の“ボトの呪い”
アマゾン川流域に住む一部の先住民は、川に棲むイルカ(ボト)が人間に災いをもたらす存在と信じている。
ボトの呪いを解くため、部族独自の祈祷師が川辺で歌や踊りを捧げる儀式がある(参考:M. C. Pereira “Amazonian Folklore and Shamanic Practices” 2018)。
これは自然環境と神話が入り混じった信仰体系であり、部族にとっては「抜本塞源」の一形態だといえる。
4) チベット僧侶による法要
チベット仏教の僧侶が行う独特の法要には、悪霊を祓い、地域に安寧をもたらす目的がある。
日本でも護摩焚きや密教の儀式などに近いが、チベットでは特に死者の魂を迷わせないための読経や儀式が綿密に継承されている(参考:John Powers “Introduction to Tibetan Buddhism” 2007)。
これもまた、抜本塞源の考え方を反映した一例だといえる。
こうした現代の儀式を否定的に捉えるのではなく、そこに込められた人々の切実な思いを理解することが大切だ。
災いの本質が何であれ、「これをやらなければまた悲劇が起こるかもしれない」という危機感は、古今東西変わらない人間の本能的な感情といえる。
抜本塞源の視点から見る経営
では、こうした歴史や現代の信じがたい儀式から、ビジネスやテクノロジーの現場が学べることは何か。
一見するとまったく別世界の話のように思えるが、共通するキーワードは「原因をどう捉え、どう排除するか」という点にある。
1) 経営における抜本塞源
企業の経営で問題が起きるとき、その原因を表面的なものと捉えて対処すると、再び同じ問題が起こることが多い。
たとえば売上不振の原因を「営業活動が足りないから」とみなして人員を増やすだけでは、根本が改善しない場合がある。
真の理由がプロダクトの品質不備やブランディング戦略のズレにあるなら、そこを潰さなければ意味がない。
これはまさに抜本塞源の考え方であり、古代の儀式から学ぶとすれば「目に見えない根本原因をいかに見つけ出すか」という姿勢が大切だということだ。
2) IT分野での抜本塞源
ITシステムでも、バグが発生した場合に「表面的な修正」だけで済ませると、根本のロジックが壊れている限りバグは再発する。
システム全体の構造を見直し、本質的にどこを直すべきか判断しなければならない。
IoTデバイスやAIを導入する際も同様で、データ入力の精度やネットワークのセキュリティなど、基盤部分をしっかり固めることが抜本塞源につながる。
3) クリエイティブ・エンタメにおける抜本塞源
エンタメ業界やクリエイティブの現場でも、視聴率や評判が落ちたときに「タレントを増やす」「CMを追加する」だけでは不十分な場合がある。
企画のコンセプトが時代のニーズに合っていないとか、根本のアイデアがユーザーのインサイトを捉えていないことが真因の場合がある。
そのため、真に抜本塞源を図るには、ユーザーリサーチやアンケート調査などを丁寧に行い、根っこにある原因を見極める必要がある。
4) PR・ブランディング・マーケティングにおける抜本塞源
ブランディングが崩れている企業は、広告予算を増やして露出を上げればいいという問題ではない。
消費者からの信頼が下がっているなら、その理由を徹底的に調査し、コアの部分を修正しない限りブランド価値は回復しない。
このプロセスには大きな時間と労力がかかることもあるが、そうした地道な作業こそが「本質的な原因を取り除く」行為といえる。
5) 先人たちが示したヒント
古代の儀式をただの迷信や野蛮な行為と決めつけるのではなく、そこに至るまでの切実な動機に目を向けることで、現代のビジネスパーソンはヒントを得ることができる。
問題解決を急ぎ過ぎるあまり、表面上の対応に終始してしまわないか。
本当に解消すべき根っこを見落としてはいないか。
こうした問いを持ち続けることが、抜本塞源の真髄だといえる。
まとめ
抜本塞源という概念は、古今東西さまざまな社会で共通して重要視されてきた。
その背景には、災いの原因を断ち切り、二度と同じ不幸を繰り返さないという切実な願いがある。
現代では科学や物理が進歩し、ロジカルなアプローチで問題の原因を突き止めることが可能になったが、それでもなお未知の領域が残るのも事実だ。
かつての人類史上における驚くべき儀式は、われわれ現代人の目には非合理に映るかもしれないが、「抜本塞源を実践する」ための思い切った行動として理解することもできる。
世界にはいまだに、不幸や災いを封じるために奇妙な儀式を行う人々が存在する。
そこには彼らなりの伝統と論理があり、我々が見ると荒唐無稽に感じるとしても、否定するだけでは視野を狭めてしまうだろう。
むしろ、彼らの行動原理を理解し、根本原因を断ち切ろうとする姿勢を学ぶことで、現代の問題解決に転用できる知恵が見つかるはずだ。
経営でもITでも、クリエイティブでもPRでも、すべては問題の根幹をしっかりと見定め、そこにアプローチしなければ本当の解決には至らない。
部分的な改修やリニューアルを行っても、もし本質的なバグやコンセプトのズレが放置されているなら、結局は同じ轍を踏む可能性が高い。
だからこそ、古来からの「抜本塞源」の考え方は、今も価値を持ち続けている。
個人的には、過去の儀式が持つ非科学性をそのまま肯定する気にはなれないが、その背後にある人間の危機感や行動力は侮れないと思う。
現代社会において、抜本塞源を経営やITの領域で実践するためには、データ解析やロジックだけに頼るのではなく、人々の不安や切実な思いにも耳を傾けることが必要だと考える。
根本的な原因を取り除くには、技術的なソリューションだけでなく、人間の感情や文化・風習という要素も含めて総合的に判断する視点が大切なのだ。
以上を踏まえて、抜本塞源という概念は単に「根本原因を取り除く」という言葉以上に、歴史的に重みを持つ行為だといえる。
何か問題が起きたとき、どこが本当の根っこなのかを徹底的に調べ、それがどんなに困難な手段を必要とすることであっても、そちらへアプローチする決意を持つ。
この姿勢こそが、抜本塞源の本質ではないだろうか。
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