轍鮒之急(てっぷのきゅう)
→ 危機が差し迫っているたとえ。
轍鮒之急(てつぶのきゅう)とは、危機が差し迫っているたとえを意味する四字熟語だ。
この言葉の由来は、中国の古典「荀子」に遡る。
「荀子」の「儒効篇」には、「轍中の鮒魚、涸れなんとするの急なり」という一節がある。
これは、車の轍(わだち)に取り残された魚が、水が干上がって死にそうな危機的状況を表現している。
この表現は、人生における切迫した危機的状況を象徴的に表すものとして、広く使われるようになった。
日本でも、江戸時代から文学作品や政治的な文脈で使用されてきた。
例えば、幕末の志士・吉田松陰は、「轍鮒之急」を用いて日本の危機的状況を表現した。
彼は、西洋列強の脅威に直面する日本を、干上がりそうな轍の中の魚に喩えたのだ。
現代では、「轍鮒之急」は企業経営やリスク管理の文脈でも使われる。
例えば、「企業は轍鮒之急の状態にある」といった具合に、危機的状況を表現する際に用いられる。
しかし、本稿で注目したいのは、この「轍鮒之急」の状況を防ぐことができるかもしれない、という点だ。
魚が轍に落ちる前に、あるいは水が干上がる前に、何かできることはないだろうか。
人生において危機は避けられないものだが、その中には予防可能なものもある。
ということで、この「轍鮒之急」の概念を現代的に解釈し、日常生活やビジネスにおける危機回避の重要性について考察していく。
人生における危機の不可避性
人生において、危機は避けられないものだ。
それは、個人の人生においても、企業経営においても同じことが言える。
危機がいつ、どのような形で訪れるかは、誰にも予測できない。
心理学者のエリク・エリクソンは、人生を8つの発達段階に分け、各段階で特有の危機(発達課題)があると提唱した。
例えば、青年期には「アイデンティティ対役割の混乱」という危機がある。
これは、自分が何者であるかを見出す過程で生じる混乱や葛藤を指す。
ビジネスの世界でも、危機は常に存在する。
経営学者のクレイトン・クリステンセンは、「イノベーターのジレンマ」という概念を提唱した。
これは、成功している企業が、新しい技術や市場の変化に適応できずに衰退していく現象を指す。
例えば、かつて写真フィルム市場で圧倒的なシェアを誇っていたコダックは、デジタルカメラの台頭に適応できずに破綻した。
これは、企業が直面する「轍鮒之急」の典型的な例と言えるだろう。
日本の経営者の中でも、ソフトバンクグループの孫正義は「常に死の淵を歩いている」と表現し、危機意識を持ち続けることの重
要性を強調している。
このように、人生やビジネスにおいて危機は不可避だ。
しかし、すべての危機が予測不可能というわけではない。
次のセクションでは、回避可能な危機について考えていこう。
回避可能な危機とその無視
危機の中には、適切な予防策を講じることで回避できるものも多い。
しかし、多くの人々がそうした予防策を軽視し、不必要なリスクを冒している。
ここでは、日常生活における回避可能な危機の例を5つ挙げ、なぜ人々がそれらを無視してしまうのかを考察する。
1. 横断歩道での危険行動
例:車道ギリギリまで進んで止まる行為
警視庁の統計によると、2020年の歩行者の交通事故死者数は1,020人に上る。
その多くが横断歩道付近で発生している。
車道ギリギリまで進むことで、わずかな時間は節約できるかもしれないが、事故のリスクは大幅に上昇する。
<なぜ無視されるのか>
・即時的な利益(時間の節約)を優先する傾向
・「自分は大丈夫」という楽観バイアス
2. 後部座席でのシートベルト非着用
例:後部座席ではシートベルトを締めない行為
警察庁の調査によると、2020年の交通事故死者のうち、後部座席でシートベルト非着用だった人の致死率は、着用していた人の約
8倍だった。
にもかかわらず、後部座席のシートベルト着用率は依然として低い。
<なぜ無視されるのか>
・「後部座席は安全」という誤った認識
・面倒くさがる心理
・社会的規範の欠如(周りもしていない)
3. 健康診断の未受診
例:定期的な健康診断を受けない行為
厚生労働省の調査によると、2019年の特定健康診査の受診率は55.6%にとどまっている。
早期発見・早期治療が可能な病気も、健康診断を受けないことで重症化するリスクがある。
<なぜ無視されるのか>
・時間的コストを惜しむ
・「今は元気だから大丈夫」という思い込み
・結果を知ることへの不安
4. パスワードの使い回し
例:複数のサービスで同じパスワードを使用する行為
情報処理推進機構(IPA)の調査によると、2020年時点で約4割の人がパスワードを使い回していると回答している。
一つのサービスでパスワードが漏洩すると、他のサービスも危険にさらされる。
<なぜ無視されるのか>
・面倒くさがる心理
・記憶の負担を避けたい
・リスクの過小評価
5. 保険未加入
例:生命保険や損害保険に加入しない行為
生命保険文化センターの調査によると、2020年時点で生命保険の世帯加入率は87.8%だが、若年層では低い傾向にある。
不測の事態に備えることで、金銭的な危機を回避できる可能性がある。
<なぜ無視されるのか>
・「自分には関係ない」という思い込み
・コストを惜しむ
・将来のリスクよりも現在の利益を重視する傾向
これらの例から、回避可能な危機を無視してしまう理由として、以下のような心理的要因が浮かび上がってくる。
・楽観バイアス:自分は大丈夫だという過度の自信
・近視眼的思考:目先の利益を重視し、長期的なリスクを軽視する傾向
・面倒回避:手間やコストを惜しむ心理
・社会的同調:周りに合わせてしまう傾向
・認知的不協和:自分の行動を正当化しようとする心理
これらの心理的要因を理解し、意識的に対処することが、危機回避の第一歩となる。
次のセクションでは、危機回避能力を身につけることの重要性について考えていこう。
危機回避能力の重要性
危機回避能力は、個人の人生においても、ビジネスの世界においても極めて重要だ。
それは単なる自己防衛の手段ではなく、成功を導くための重要なスキルでもある。
危機回避能力の重要性は、以下の点に表れている。
1. 長期的な安定性の確保
小さなリスクを回避することで、長期的には大きな利益につながる。
例えば、定期的な健康診断を受けることで、重大な病気のリスクを減らし、健康で生産的な人生を送ることができる。
2. 意思決定の質の向上
リスクを適切に評価する能力は、より良い意思決定につながる。
ビジネスの世界では、リスクと機会を適切に見極めることが成功の鍵となる。
3. ストレスの軽減
潜在的な危機を事前に回避することで、不必要なストレスを減らすことができる。
これは、個人の幸福度や生産性の向上につながる。
4. 信頼性の向上
危機を適切に管理できる人や組織は、周囲からの信頼を得やすい。
ビジネスにおいては、顧客や投資家からの信頼獲得につながる。
5. イノベーションの促進
適切なリスク管理は、安全な範囲内での挑戦を可能にする。
これは、新しいアイデアや方法を試す余地を生み出し、イノベーションを促進する。
実際、危機回避能力の高い個人や組織は、より大きな成功を収めている傾向がある。
例えば、トヨタ自動車の「カイゼン」活動は、小さな問題を事前に発見し解決することで、大きな危機を未然に防ぐ取り組みだ。
これにより、トヨタは高品質と高効率を両立し、世界有数の自動車メーカーとしての地位を確立した。
また、IT業界では、Amazonのジェフ・ベゾスが「Day 1」の精神を提唱している。
これは、常に創業初日のような危機意識と緊張感を持ち続けることで、組織の硬直化を防ぎ、イノベーションを促進する考え方だ。
個人のレベルでも、危機回避能力の重要性は明らかだ。
例えば、資産運用において、適切なリスク分散を行うことで、市場の変動による損失リスクを軽減できる。
このように、危機回避能力は、個人の人生やビジネスの成功に大きく寄与する。
しかし、過度に危機を恐れることは、チャンスを逃すことにもつながりかねない。
次のセクションでは、適切な危機回避の姿勢について考えていこう。
適切な危機回避の姿勢
危機回避は重要だが、過度に意識しすぎると行動が制限され、機会を逃す可能性がある。
そのため、適切なバランスを取ることが重要だ。
ここでは、効果的な危機回避の姿勢について考察する。
1. リスクの適切な評価
すべてのリスクを同等に扱うのではなく、その重要度と発生確率を適切に評価する。
重大なリスクには十分な対策を講じ、軽微なリスクは許容するという姿勢が必要だ。
例:投資におけるポートフォリオ理論
分散投資によってリスクを軽減しつつ、適度なリターンを追求する。
2. 予防と準備の重視
危機が発生してから対応するのではなく、事前の予防と準備に力を入れる。
これにより、危機発生時の影響を最小限に抑えることができる。
例:事業継続計画(BCP)の策定
災害や事故が発生した際の対応策を事前に準備しておく。
3. 学習と改善の姿勢
過去の経験や失敗から学び、常に改善を図る姿勢を持つ。
これにより、危機回避能力を継続的に高めることができる。
例:航空業界のインシデント報告制度
小さなミスや問題を報告・共有し、安全性の向上につなげる。
4. 柔軟性の維持
固定的な対策ではなく、状況に応じて柔軟に対応できる能力を培う。
環境の変化に適応することで、新たな危機にも対処できる。
例:アジャイル開発手法
変化に迅速に対応できる柔軟な開発プロセスを採用する。
5. ポジティブな心構え
危機を単なる脅威としてではなく、成長の機会として捉える姿勢を持つ。
これにより、危機への対応がイノベーションにつながる可能性がある。
例:3Mの失敗を許容する文化
失敗を恐れずに新しいアイデアに挑戦することを奨励し、イノベーションを促進している。
これらの姿勢を身につけることで、過度に慎重になりすぎることなく、適切な危機回避が可能になる。
実際、多くの成功企業がこうした姿勢を採用している。
例えば、Googleは「20%ルール」を採用している。
これは、従業員が勤務時間の20%を自由なプロジェクトに充てることができるというものだ。
このルールにより、潜在的なリスクを許容しつつ、イノベーションを促進している。
また、日本の製造業で有名な「カイゼン」文化も、適切な危機回避の姿勢の一例だ。
小さな改善を積み重ねることで、大きな問題の発生を未然に防ぐのだ。
個人レベルでも、こうした姿勢は重要だ。
例えば、キャリア形成において、一つの専門性に固執するのではなく、複数のスキルを身につける「T型人材」や「π型人材」になることで、環境の変化に柔軟に対応できる。
適切な危機回避の姿勢は、「轍鮒之急」の状況を防ぐだけでなく、新たな機会を生み出す可能性も秘めている。
まとめ
「轍鮒之急」の概念から始まった我々の考察は、危機回避の重要性と、それを適切に実践することの難しさを浮き彫りにした。
人生やビジネスにおいて危機は避けられないが、多くの危機は適切な予防と準備によって回避または軽減できる。
しかし、多くの人々が回避可能な危機を無視してしまう。
その背景には、楽観バイアスや近視眼的思考、面倒回避の心理などがある。
これらの心理的要因を理解し、意識的に対処することが、効果的な危機回避の第一歩となる。
危機回避能力は、単なる自己防衛の手段ではない。
それは長期的な安定性の確保、意思決定の質の向上、ストレスの軽減、信頼性の向上、そしてイノベーションの促進につながる重要なスキルだ。
ただし、過度に危機を恐れることは、機会の損失につながりかねない。
適切な危機回避の姿勢とは、リスクを適切に評価し、予防と準備を重視しつつ、学習と改善を続け、柔軟性を維持し、ポジティブな心構えを持つことだ。
現代社会において、この危機回避の意識は、環境の変化、リスク認識、学習・経験などの要因によって形成される。
そして、それに基づく適切な行動が、個人や組織の成功と持続可能性を高めるのだ。
「轍鮒之急」の状況を回避しつつ、新たな機会を見出し、挑戦する勇気を持つこと。
それこそが、これからの時代に求められる真の危機回避能力ではないだろうか。
企業経営者、起業家、そして自身のキャリアを考える全ての人々に、この危機回避の意識を持つことを推奨したい。
それは、単にリスクを避けるだけでなく、新たな価値を創造する力となるはずだ。
「轍鮒之急」から学ぶべきは、危機の切迫性だけでなく、それを回避し、さらには機会に変える可能性だ。
この視点を持つことで、個人も組織も、より強靭で創造的な存在へと進化できるだろう。
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