指鹿為馬(しろくいば)
→ 鹿を指さし馬とする意から、道理の通らないことを押し通すことや間違いを認めず押し通すこと。
私は強引に物事を進めていくことは決して悪いことではないと思っている。
というか、むしろ必要なことだと思っているくらいだ。
というのも、世の中には決断ができない人の方が圧倒的に多く、指示があった方が動きやすいという人が大半だ。
例えば、トレーニングについて考えてみよう。
トレーナーに言われるがままトレーニングするのと、トレーニングのメニューを考えるのでは全く違うことは理解できるだろう。
言わずもがなだが、後者の方が圧倒的に工数が多く大変だ。
ただ、そのトレーニングのメニューがその人に合っているかどうかよりも、その人の気持ちを上手く乗せてトレーニングを継続させる方が重要な能力だったりする。
そこには説得力も必要なのだが、少々強引なコミュニケーションも大切だと思っている。
もちろん、メニューにあるトレーニングの効果にエビデンスがあることは重要だが、そのエビデンスを口頭で細かく説明するよりも、とりあえずやらせるというパワープレイ。
細かい部分で道理が通っていなかったり、小さな間違いがあったとしても、それをいちいち指摘する必要はないということだ。
くり返しになるが、自分の意見を通すために、ある程度は力づくで進めていくことは決して悪いことではないと思っている。
それは、物事が進まないよりも進んだ方がいいだろうという考え方に基づいている。
強引さが不要な時代という幻覚
近年、強引さや威圧感は否定されるような社会の風潮がある。
それは、ソーシャルメディアの普及と共に、一般の人々も声を上げやすくなり、差別やハラスメント問題への認識が高まってきたからだろう。
確かに、パワハラやセクハラといったハラスメントは絶対に許されるべきではない。
そこは誤解なきように宣言しておく。
その一方で、強引さが全否定され、あたかも「リーダーシップ = 強引さ = 悪」のような等式が成り立つかのような流れだ。
私が声を大にして主張したいのは、この2つを混同しないことだ。
パワハラやセクハラはあくまでも人間の尊厳を踏みにじる行為であり、一方で、強引さはある程度の目標達成や決断を下すために必要な要素であることを理解する必要がある。
もちろん、無闇に強引な態度を取るのは問題だというのは間違いない。
けれども、それが適切な状況と目的を持って行われるのであれば、それはリーダーシップの一部として捉えるべきだと説いている。
リーダーとはなにか、その存在理由はなにか。
その答えは至極単純で、リーダーは組織やチームを導き、ある目標へと向かわせる存在だ。
その過程で、ときには強く、ときには柔らかく、その時々の状況に応じて行動を変える柔軟性が重要になる。
リーダーという存在
と、ここまで書いてきたことを全否定するようだが、とはいえ、リーダーが全てではない。
リーダーシップは組織運営の中心となる存在ではあるが、その他の要素を全く無視できるわけではない。
様々な要素が上手く機能するように調整し、維持するのもリーダーの大切な役割だ。
組織のメンバーそれぞれが自身の役割を理解し、能力を最大限に発揮できるようにサポートすることこそ、真のリーダーシップを発揮することに繋がる。
チームの一員として、リーダーに対して求めるべきことは、ただ強引に物事を進めるだけでなく、メンバー全体の意見を尊重することだ。
そして、ときにはそれを上手く調整し、全体のバランスを保つことだ。
またここで全てを覆すような言い回しをしてしまうが、それは決して「強引さ」が否定されるべきだということを意味するわけではない。
多くの場面において、リーダーが決断を下す力や、その方向性を示す「強引さ」が求められる。
それはリーダーがメンバーの意見を尊重すると同時に、1つの方向へとチームを引っ張るための力だ。
この力はときに厳しく、ときには痛みを伴うかもしれない。
けれども、それがなければチームは方向性を失い、動きを止めてしまう。
そうならないためにも、リーダーは強引さを持つべきだ。
ただ、その強引さはただ自分の意見を押し通すものではなく、チーム全体が目標に向かって進むための力となるべきだ。
また、強引さが求められるとは言っても、それが全てではない。
リーダーとしての責任は、チームの一員として共に働き、ときには後方から支えることも求められる。
つまり、強引さだけではなく、その時々の状況に応じて変化し、フレキシブルに対応することが求められるわけだ。
このように、「強引さ」はリーダーシップの一部であり、その必要性を認識することが重要だということは、現在の私の立場からであっても言い切れる。
自分自身にも改めて言い聞かせたいが、その「強引さ」がチーム全体の利益のために使われ、かつそれ以外の要素も考慮に入れた上での行動であるべきだ。
この「強引さ」を理解し、リーダーシップを発揮することで、チームや組織の中での自分の位置を見つめ直すきっかけを持つべきだ。
リーダーとしての強引さは、その使い方次第で組織の成長を促進し、一緒に働く人々の信頼を勝ち取ることができると信じている。
強引さとの付き合い方
私が言いたいことはおおよそ伝わってきたと思うが、「強引さ」を恐れるべきではなく、それをどのように使うか、そしてそれをどのように制御するかを学ぶべきだ。
私自身にも言い聞かせるべきだが、一方的な強引さはパワハラとなり、周囲を遠ざけてしまう。
けれども、目標達成のための、考え抜かれた強引さはリーダーシップの一部となり、人々を鼓舞し導く。
そんな事例は歴史上、いくらでも転がっている。
良い事例として語り継がれている強引さは決して独りよがりなものではなく、チームの意見を尊重し、それを考慮に入れた上での強引さでなければいけない。
自分の意見だけを押し通すのではなく、全体の意見を収集し、全体の利益のために決断を下す。
これこそが真のリーダーシップと言えるということは書いてきたとおりだ。
また、強引さとリーダーシップの境界線は、どの程度周囲を理解し、信頼しているかにも左右される。
自分1人の力で全てを動かすのではなく、チームの力を活かし、各々が最大限にパフォーマンスを発揮できる環境を整えることが重要だ。
それぞれの立場から考え、ときには自己犠牲を伴うかもしれない強い決断を下す。
それこそが、私の考えるリーダーの強引さとしての最良の形であり、最も効果的なリーダーシップだというわけだ。
結局のところ、「強引さ」をどのように使うかは、その人自身の判断と人間性によって大きく左右される。
その強引さが、周囲を惹きつけ導く力になるか、逆に人々を遠ざけ、傷つける力になるか。
それはリーダー自身の人間性と、理解力、そして対話の能力によって決まる。
私もこの「強引さ」とリーダーシップの境界線を常に意識しているといっても過言ではない。
自分の意見を伝えるために、ときには語気を強めたり強く主張することもあるが、それはチーム全体が目指す目標に向かって進むための、必要な強引さだと思っている。
もちろん、ポジショントークだと言われても仕方がないが、それ以上になにも進まないことの方が圧倒的に損失が大きいことを知っているからである。
まとめ
何度もくり返すが、強引さは、否定的な意味合いで捉えられがちだが、それはリーダーシップの一部であり、適切に用いることで組織やチームの推進力となる。
重要なのはそのバランスであり、強引さが組織全体の利益のために使われ、その他の要素も考慮に入れられているかどうかだ。
また、強引さが必要な一方で、リーダーとしての重要な役割は、チームの一員として働き、全員が自身の能力を最大限に発揮できるような環境を提供することだ。
その中で、ときには強い決断を下すことも求められる。
いや、むしろ日々強い決断のくり返しかもしれない。
そんな中、私を含め、経営者と呼ばれる立場の人は、強引さを恐れず、それをどのように活用し、制御するかを学ぶべきだ。
そして、その全てが、自分たちが目指す共通の目標達成に寄与することを忘れてはいけない。
リーダーシップとは、単に強引に物事を進めることではない。
多くの要素をバランス良く組み合わせ、全体の方向性を示し、それぞれのチームメンバーが最大限に能力を発揮できるような環境を作り出す能力だ。
その一部に強引さがあっても全く問題ないと思っている。
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