生老病死(しょうろうびょうし)
→ 仏教でいう四苦を意味し、生まれること、老いること、病気になること、死ぬこと。
くり返しになるが、生老病死(しょうろうびょうし)とは、生まれ、成長(老い)、病気になり、そして死ぬという人間の一生の不可避なプロセスを指す仏教の基本的な概念だ。
これは人間生活の苦しみを象徴する四苦(しく)とも言われる。
そして、この概念は、仏教の創始者であるガウタマ・シッダールタの人生体験から生まれた。
ガウタマ・シッダールタは若い頃、父親の意思で宮殿内に閉じ込められ、苦しみや老い、病気、死から遮断された生活を送っていた。
ところが、ある日、宮殿の外に出て初めて老い、病気、死を目の当たりにし、また新たな生命が生まれることを知る。
これらの経験が彼に人間の存在が避けられない苦しみと繋がっていることを教えた。
これにより、ガウタマ・シッダールタは、人々が自身の苦しみから解放される方法を見つけるために、自分自身の探求を始めた。
これが最終的にガウタマ・シッダールタが「覚り = 悟り」を開き、仏教を創始するきっかけとなったわけだ。
その結果、生老病死は人間の存在における基本的な苦しみを象徴するものとして仏教の中心的な教義となった。
そして、人々はこの苦しみに向き合い、それを超越する方法を模索するようになった。
これが「四苦八苦」や「八正道」などの仏教の教えに結びつくのである。
ガウタマ・シッダールタってだぁれ?
上述したとおり、ガウタマ・シッダールタとは仏教の創設者だ。
聞いたことがある人もいるかもしれないが、より親しみのある呼び名もある。
それは、釈迦だ。
一般的には、お釈迦様と呼ばれる釈迦のことだ。
くり返すが、ガウタマ・シッダールタ(Siddhartha Gautama)は仏教の創始者であり、釈迦(Shakyamuni)とも呼ばれる、つまり同一人物だ。
ガウタマが家族の姓、シッダールタが個人名というわけだ。
また、釈迦はシャーキャ族(Shakya clan)の意味で、生まれた族や部族を指している。
それから、「釈迦牟尼」(Shakyamuni)と呼ばれることもある。
これは「シャーキャ族の賢者」または「シャーキャ族の聖者」を意味している。
まとめると、ガウタマ・シッダールタと釈迦は、同じ人物を指す異なる名前や称号であり、その由来は個人名と部族の違いということだ。
ガウタマ・シッダールタ = 釈迦が語る仏教とは?
それでは、仏教の創設者であるガウタマ・シッダールタ = 釈迦として、仏教の歴史を語ってもらおう。
私、ガウタマ・シッダールタはインドに生まれ、6世紀前後に「覚り」または「悟り」を開き、仏教を創始した。
当時の私の社会は苦しみや困難に満ちており、人々は解放を求めていた。
私自身もその1人で、真実を求めて自己の探求の旅を始めた。
そんな経緯で、私が創始した仏教の歴史を説明すると下記のとおりだ。
1)探求の旅と悟り
私は宮殿の生活を離れ、苦行や瞑想、そして哲学の研究を通じて真実を探求した。
長い年月を経て、「中道」の道を発見し、「覚り」を開いた。
これは苦行ではなく、自己の理解と観察に基づく中庸の道を進むことで、人間の苦しみからの解放を意味している。
2)教えの広め
悟りを開いた後、私は人々に教えを広めるようになった。
それが四諦と八正道であり、すなわち苦(苦しみの存在)、集(苦しみの原因)、滅(苦しみの終焉)、道(苦しみからの解放への道)だ。
この教えが「仏教」となり、次第に広がっていった。
3)仏教の分派
私が亡くなった後、仏教は多くの分派に分かれた。
それぞれが私の教えを解釈し、それぞれの文化や地域に合わせて適応した。
最も大きな分派は上座部仏教(テラヴァダ仏教)と大乗仏教の2つだ。
前者は「小乗仏教」とも呼ばれ、私の原始的な教えを厳格に守ろうとするものだ。
後者は「大乗仏教」と呼ばれ、より広範な観点から教えを解釈し、多くの人々が悟りを得られるように教えを広めようとするものだ。
4)世界への広がり
仏教はインドだけでなく、中国、日本、東南アジア、そして現代では欧米など世界中に広がっている。
それぞれの地域で異なる解釈や習慣が生まれ、地域の文化や宗教と融合した。
例えば、中国では仏教は道教や儒教と融合し、独特の仏教文化を形成した。
日本では、原始仏教、大乗仏教、密教などが組み合わさり、また神道とも結びついて日本独特の仏教文化を生み出した。
5)現代の仏教
今日、仏教は世界中で信仰され、多様性と広範な影響を持っている。
瞑想の実践やマインドフルネスの概念は、宗教の枠を超えて広く受け入れられている。
また、非暴力や共感、全ての生命への敬意といった仏教の価値観は、現代社会の多くの問題に対する解答を提供している。
私、ガウタマ・シッダールタが始めた仏教は、単なる宗教的な教えから1つの普遍的な哲学へと発展した。
その目的は、人間の苦しみを理解し、その原因を見つけ出し、その解決策を提供することだ。
私の探求の旅は、人々が自分自身の内側に向き合い、真実を見つけ出し、自分自身と他者、そして世界との調和を見つけるための道筋を示している。
ガウタマ・シッダールタ = 釈迦が生み出した概念
勘の鋭い人はピンと来たと思うが、上述した仏教の歴史は最近私がすっかりハマっているChatGPTに人格を多少持たせて語らせたものだ。
その中でも触れたが、ガウタマ・シッダールタ = 釈迦は仏教の創設者であり、様々な概念を生み出している。
代表的なものが、四苦八苦と八正道だろう。
四苦八苦
聞いたことがある人も多いと思うが、四苦は、生、老、病、死の四つの基本的な苦しみを示している。
これらは人生における普遍的な経験であり、すべての人が避けることのできない人生の一部だ。
つまり、これらを理解し、向き合うことが、ガウタマ・シッダールタ = 釈迦の教えでは重要とされるわけだ。
そして、「八苦」とは、生老病死に下記の4つが加わって八苦となっている。
- 愛別離苦:愛する者との別離
- 怨憎会苦:嫌う者との出会い
- 求不得苦:求めて得られない苦しみ
- 五陰盛苦:身体と心の変化による苦しみ
八正道
一方、八正道は、苦しみから解放され、真の平和と調和を見つけるための道筋を示している。
これは正見、正思考、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つの要素から成り立っている。
また、これらは観察、理解、行動、瞑想といった個々のステップを通じて、個人が真実を理解し、自身と他者、そして世界との調和を見つけることを補佐している。
いずれにせよ、四苦八苦と八正道は、ガウタマ・シッダールタ = 釈迦が唱えた四諦(苦、集、滅、道)と密接に関連している概念だ。
四諦は、人生の苦しみが存在し(苦)、その原因が存在し(集)、苦しみを終わらせることが可能である(滅)、そしてそのための方法が存在する(道)という4つの真理を示している。
八正道はその「道」、つまり苦しみから解放されるための道筋を具体的に示しているというわけだ。
仏教を信仰している人たち
仏教の歴史と根本にある思考については、なんとなく理解してもらえたと思う。
そんな仏教が世界中で大変広く信仰されているというのは周知の事実だろう。
2021年時点で、全世界の仏教徒の数はおおよそ5億人から6億人と推計されている。
仏教は特にアジア地域で広く信仰されていて、具体的には下記の地域が挙げられる。
- インド
- ネパール
- ブータン
- スリランカ
- ミャンマー
- タイ
- カンボジア
- ラオス
- ベトナム
- 中国
- 台湾
- 日本
- 韓国
- モンゴル
- ロシアの一部
そんな仏教徒数がいつピークだったのか、あるいはピークはまだなのかについては、その成長と拡大は地域や時代により大きく異なるため、明確に定義することは難しい。
とはいえ、史実として知っておくべきなことは、中国では唐代に大いに繁栄したし、日本では平安時代や鎌倉時代に大きな発展を遂げたといったことだろう。
そして、現在でもアジアの国々を中心に多くの人々が仏教を信仰し、その教えを日常生活に取り入れているという事実だ。
さらに、近年では欧米でも瞑想やマインドフルネスの実践と共に仏教の教えが注目され、その影響が拡がっている。
まとめ
宗教観を否定するつもりはないが、その歴史が長ければ長いほど現代社会には共存しにくい概念になっている部分もあるように思う。
というのも、教えというものの基本的なものは不変で、なにもそれは何千年も前の人に言われなくてもわかっているという真実があるからだ。
なにが言いたいのかというと、ガウタマ・シッダールタ = 釈迦と言われてもピンとこないということだ。
フワッとしたイメージしか持てない人の唱えた概念を具現化するのがテクノロジーの進化によって難しくなっている。
要するに、自分で考えるとかイメージするといったことが得意ではない人が急増している。
となると、そんなに大昔の人が唱えた概念よりも、身近で知っている人から、自分に刺さる言葉を言われた方がよっぽど心に残るというわけだ。
誤解なきように書いておくが、ガウタマ・シッダールタ = 釈迦が唱えた概念は最もだと思う。
でもそれは、わざわざ明確に顔が出てこないような人物に言われるよりも、もっと身近にいる憧れの人に言われた方がインパクトがある。
テクノロジーの進化でそんな感覚が加速して進んでいるのが、現代社会だ。
それは、AIにガウタマ・シッダールタ = 釈迦の人格をサクッと載せることで簡単に語ることができるようになることからも明らかだろう。
【Twitterのフォローをお願いします】