焦心苦慮(しょうしんくりょ)
→ 心が焦り、いろいろ心配することで、苛立つ様子。
焦りは禁物だ。
余裕がないと上手くいかない。
最期の最期まで焦らず、微動だにしないことで、一点突破のチャンスが生まれる。
このことを弱者が勝ち残っていくために重要なマインドだと私は自分にも言い聞かせているし、周りにも提唱している。
そのマインドが根底にあれば、紆余曲折ある人生の中での戸惑いや冷静さを欠くことが圧倒的に減る。
そして、今の私を形成している礎だといっても過言ではないだろう。
少しでも共感してくれる人のために、そのマインドの重要性を一丁前に語っていくのでお付き合いいただきたい。
動かざること山の如し
ことわざの1つに、動かざること山の如しというものがある。
まさに礎にしてもらいたいのだが、その意味を簡単に説明すると、なにが起きても山みたいにびくともしないということだ。
なにがあっても動じない、しっかりとした姿勢や意思を保つことを指すフレーズだ。
つまり、困難な状況でも意思が揺らがない人や厳しい状況でも立ち向かう強さを持つ人を表すのに使われる。
また、物事が変わることなく一定している状態や、変わることのない信念や原則を持つ人を表現する際にも使われることがある。
ただ注意してもらいたいのは、私が活用してもらいたいのは前者の意味が圧倒的に強い。
不変であることはネガティブな結果を生むことが多いということは、何度も述べている。
大切なことは変化を恐れず一旦受け入れてみるという姿勢で、いたずらに変わらないことは返って弊害となる場合が多い。
くり返すが、動かざること山の如しを礎にしてもらいたいが、困難な状況でも意思が揺らがない人や厳しい状況でも立ち向かう強さの部分が重要だ。
決して、不変であることを最上位に置いているわけではない。
武田信玄という戦国武将
私が日本の戦国時代が好きというか、興味があるということも過去にそれなりに書いてきたことの1つだ。
そんな戦国時代最強の武将だといわれた1人に武田信玄がいる。
武田信玄の半生を概説すると下記のとおりだ。
武田信玄について
武田信玄は、15世紀末〜16世紀のいわゆる戦国時代に活躍した戦国大名であり、日本の歴史上でも傑出した武将として知られている。
その半生を端的にまとめてみる。
- 1521年(大永元年):甲斐(現在の山梨県)で生まれ、家督を継ぐ
- 1541年(天文10年):若干の内乱や家中の統一を経て、甲斐の支配を固める
- 1553年(天文22年):駿河国(現在の静岡県)を攻略し、駿河今川氏との戦いにおいて勢力を拡大する
- 1560年(永禄3年):川中島の戦いで上杉謙信率いる越後の上杉軍と激突し、複数回にわたり激しい戦闘がくり広げられた
そんな武田信玄が活躍した戦国時代は、改めて書くまでもないが、日本全国が大名や戦国大名と呼ばれる有力な武将たちによって分立し、混乱が続いた時代だ。
大切なことは、武田信玄が活躍した時期の時代背景を知ることである。
- 戦国大名の興隆
戦国時代は有力な武将たちが領土を拡大し、戦国大名として君臨する時代だった。
武田信玄もその1人であり、甲斐を拠点に勢力を拡げた。
- 関東の勢力争い
武田信玄は駿河国を攻略するなど、関東地方における今川氏や北条氏などの勢力との争いに巻き込まれた。
これらの争いは戦国時代の中でも激しさを増していた。
- 宗教改革と文化の発展
戦国時代は宗教改革や文化の発展が進み、武田信玄は臨済宗の禅宗を奨励し、文化人や禅僧を庇護した。
また、武田信玄自身も和歌や茶の湯などの文化活動に親しんでいた。
- 外交と同盟形成
武田信玄は周囲の勢力との外交や同盟形成も積極的に行った。
一時期は織田信長や徳川家康と同盟を結び、共同して他の大名と戦ったり、領土を拡大するための支援を行った。
そんな時代背景の中、1573年に武田信玄は上杉謙信との戦いや東国への進出などで一定の成功を収めながらも、突如として死去する。
武田信玄の死因については確定的なものはないが、1573年5月13日に53歳で死去した。
最も広く認められている説が病死説で、なんらかの病気で死去したとされている。
具体的な病名ははっきりしていないが、胃がんや結核などが指摘されている。
また、一部では、武田信玄が暗殺されたとする説も存在する。
例えば、武田信玄の家臣である仁科盛信による暗殺などが有名だが、これらの説には確固とした証拠は存在しない。
そして、武田信玄の死後、武田家は家督争いや内紛によって衰退し、1582年には滅亡する。
まとめていこう。
武田信玄は、軍略の才能や戦術の革新、政治的な手腕などで多くの戦国大名たちと互角に渡り合い、その勢力拡大に成功した。
その戦略は迅速な軍事行動や堅固な要塞築城、外交・同盟の網を駆使するなど、時代の流れに合わせた独自の手法を持っていたといわれている。
戦国時代の混乱した時代背景の中で、武田信玄を戦国最強の武将として称される理由はそこにある。
風林火山という武田信玄のマインド
なぜ、唐突に武田信玄の話題を出したのか。
もちろん、そこには理由がある。
武田信玄のマインドとして語り継がれているのが、風林火山だ。
風林火山の意味は、言葉にすると、風は乱れず、森は静かで、火は猛烈に、山は動かないといった感じだ。
元々は中国の戦術書である孫子から来ていて、武田信玄が戦の戦略とか態度に関する原則として使っていたとされている。
風林火山
現代語訳をするとすると、風は乱れず、森は静かで、火は猛烈に、山は動かないとなる。
フワッとした解説をするならば、下記のとおりだ。
- 風は乱れず:混乱しない、静かに物事を進めること
- 森は静かで:静かなるを得る、つまり心に余裕を持つこと
- 火は猛烈に:攻撃するときは思い切り、全力を尽くすこと
- 山は動かない:自分の信念や目標に対してしっかりと立つこと
これを武田信玄に当てはめると、こんな感じだろう。
風林火山は、それぞれ「風」「林」「火」「山」という4つの要素から成り立っている。
各要素は特定の意味を持ち、それぞれの象徴的な特徴を表している。
- 風(ふう):風は速さや素早さを表し、武田信玄が重視した軍事戦略の要素で、実際に迅速な動きや奇襲を駆使して敵を破ることを得意とした
- 林(りん):林は森や陣地を意味し、守りや防御の要素を象徴していて、武田信玄は戦闘の際には適切な陣地を選び、敵の攻撃に対して堅固な守りを築いた
- 火(か):火は攻撃や破壊を意味し、武田信玄の攻撃力や戦略的な火力を象徴していて、数々の戦術や兵器を駆使して敵を攻め立て、勝利を収めた
- 山(ざん):山は堅固な要塞や頑強さを表し、武田信玄の意志や固い信念を象徴していて、難攻不落の駿河城を築き、その中から自らの領土を守り抜いた
武田信玄に関するたられば
ここまで書いていて、個人的に武田信玄が好きだということは理解できるだろう。
そんなバイアスがかかっていることは否定できないが、武田信玄が若くして病死しなければ、天下統一を成し遂げることができたという可能性についてだ。
そんなことを言い出したら、どの戦国武将に対してもいえるし、そもそも病死したわけではないかもという変数が多いのだが、まあ付き合っていただきたい。
武田信玄の死因と年齢、他の戦国武将との関係値を踏まえた推測だ。
くり返しになるが、武田信玄は1573年に53歳で死亡した。
もし武田信玄が病死せずに生存し続けた場合、その力量や領土拡大の勢いを考えると、他の戦国大名たちとの戦いで一定の成功を収め、天下統一を達成する可能性が高かったはずだ。
その理由は、戦術的な才能に優れ、家族や家臣団の統制を強化していたため、将来的には周囲の大名との同盟や外交によって勢力を拡大し、他の大名を従える力は十分にあったからだ。
実際に、武田信玄が生きていれば天下統一ができたと主張している学者もいる。
武田信玄は当時最強の軍隊を擁し、優れた戦略家であったと主張しているわけだ。
また、武田信玄は上洛を計画しており、天下統一への野心を持っていたとも指摘している。
ということで、天下統一ができた理由を列挙しておこう。
- 武田信玄は当時最強の軍隊を擁していて、武田信玄の軍隊は、武田菱の陣形と呼ばれる独自の戦術を採用しており、当時最強の軍隊と評されていた
- 武田信玄は優れた戦略家で、武田信玄は軍事だけでなく政治や経済にも優れた才能を発揮しており、その手腕は当時の他の戦国大名にも一目置かれていた
- 武田信玄は天下統一への野心を持っていて上洛を計画しており、天下統一への野心を持っていたことが、書簡などから明らかになっている
ということで、たらればを書いたが、公正を期すためにネガティブな側面も記しておこう。
仮に武田信玄が長命だったとして、同じく天下統一を目指していた織田信長や豊臣秀吉などの強力な大名との戦いは厳しいものになったことは間違いない。
また、内部の家督争いや後継者問題など、武田家内部の課題も存在していた。
まとめ
弱者が勝ち残っていくために必要なマインドは、一点突破だ。
何度も何度も一点突破をしているうちに、どこかに風穴を開けることができる。
そこから一気に雪崩れ込めばいいのであって、そのためには動かざること山の如しからの風林火山のマインドも必要になる。
こういう書き方をすると、動かないことが良いことだと思ったり、不変であることが重要だと勘違いする人もいる。
また、スピード重視を唱えている私の主張と異なると重箱の隅をつつく人も現れる。
このブログを最初から最期まで読んでくれた人には、スピード重視の部分が風林火山の風と火の部分に当たるということが理解できたはずだ。
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