純情可憐(じゅんじょうかれん)
→ 純粋で邪念がなく、清らかで愛らしいこと。
純粋という概念はポジティブに捉えられがちだ。
そもそも、純粋とはどういう意味なのだろうか。
純粋は、他の要素や要因からの混ざりや不純物がなく、純粋な状態であることを指す。
この言葉は、様々な文脈で使用されるが、一般的には下記のような意味を持つ。
物質や物理的な要素において
混ざりや不純物が含まれず、純粋な状態であることを表す。
例えば、純水は水だけから成る状態を指し、他の物質が混ざっていないことを意味している。
思考や感情において
他の要素や影響からの影響を受けず、純粋な形で存在することを指す。
例えば、純粋な喜びや純粋な愛は、他の感情や要素によって汚染されることなく存在する状態を表している。
原則や信念において
他の利益や動機からの影響を受けず、純粋な形で保持されることを指す。
例えば、純粋な意図や純粋な信念は、自己の利益や外部の要因によって歪められることなく存在する状態を表している。
総じて、純粋とは、他の要素や影響からの混ざりや歪みがなく、純粋な状態であることを表す言葉だということになる。
そして、くり返しになるが、純粋という言葉はポジティブに使われがちだ。
純粋は本当にポジティブなのか?
ということで、純粋という言葉の意味全体に向けて、純粋は本当にポジティブなのかについて考えてみたい。
と言いながらも、私の中では既に答えは出ていて、それは純粋が必ずしもポジティブであるとは限らないということだ。
その評価は文脈や個人の価値観によって異なり、純粋の利点と注意点を挙げてみよう。
利点
純粋な状態は、特定の要素や要因からの影響を排除し、その本質や真理にアクセスすることを可能にする。
例えば、純粋な科学的研究は、外部のバイアスや利益の影響を受けずに真実を探求することができる。
また、純粋な感情や経験は、他の要素や影響からの歪みを排除し、より真摯で深い意味を持つことがある。
純粋な愛情や純粋な喜びは、他の動機や利益によって汚染されることなく、より豊かな体験をもたらすかもしれないという可能性がある。
注意点
利点の対義語とすると欠点とかデメリットという言い回しになると思うが、注意点と書いていることに留意してもらいたい。
その理由は至って単純で、純粋という言葉は基本的にはポジティブなポジションにあって問題がないと思っているからだ。
ただ、純粋な状態は現実的ではないことがある。
というのも、世界は複雑で多様な要素から成り立っており、純粋さを維持することは困難を極めるからである。
あまりにも純粋さを追求しすぎると、現実との接触を失い、実用的な問題解決やバランスの取れた判断が難しくなる可能性があるというわけだ。
また、純粋な状態にこだわりすぎると、他の要素や多様性の重要性を見落とす恐れもある。
世界は異なる要素や視点の組み合わせによって豊かさが生まれる場合もある。
純粋さだけを追求すると、柔軟性や創造性が制限されることがあるということを込みで注意点という書き方をしている。
ピュアな人の特徴
それでは、純粋な人、つまりピュアな人というのは具体的にどんな人のことを言うのだろうか。
純粋な思考
ピュアな人は、他の要素や影響からの歪みを受けずに、真実や本質を追求する傾向がある。
思考が純粋であり、自己の利益やバイアスに左右されることがないのが特徴だ。
無垢な心
ピュアな人は、善意や純粋な意図を持つ傾向がある。
心は無垢であり、他人に対して優しさや思いやりを持って接することができる。
純粋な感情
ピュアな人は、純粋な感情を表現することができる。
彼らの喜びや悲しみ、愛情や喜びは、他の要素や欲望によって汚染されることなく、真摯で深いものとなる。
正直さと誠実さ
ピュアな人は、正直であり、誠実な行動を取る傾向がある。
他人を欺かず、自分自身や他人に対して真実を伝えることを重視する。
脆さと傷つきやすさ
ピュアな人は、純粋さゆえに傷つきやすい一面も持っている。
他人の悪意や冷たさに対して敏感であり、世界の荒波に対して脆いと感じることがある。
不誠実な人の特徴
一方で、ピュアな人の真逆に位置する不誠実な人の具体的は特徴は下記のとおりだ。
嘘や欺瞞
不誠実な人は、嘘をついたり、他人を欺こうとする傾向がある。
真実を歪めたり、意図的に情報を隠したりすることで、自己の利益や目的のために行動する。
不正行為
不誠実な人は、法律や倫理に反する行動に走ることがある。
他人を騙し、不当な利益を得ようとしたり、不正行為を行ったりする可能性がある。
結びつきの欠如
不誠実な人は、他人との結びつきや信頼関係を築くことが難しい傾向がある。
自己の利益や欲求を優先し、他人の感情やニーズを無視することがある。
責任回避
不誠実な人は、責任を回避しようとする傾向がある。
自らの過ちや失敗を認めず、他人や状況のせいにすることがある。
利己主義
不誠実な人は、自己の利益や欲求を優先する傾向がある。
他人の感情や利益を無視し、自己中心的な行動をとることがある。
誠実さと不誠実さの関係
こうやってまとめていくと、ピュアな人、つまり誠実な人の方が不誠実な人に比べると単純に良い人だと思うだろう。
確かにそうだ。
ここからが難しいというか、理解されにくくなるのだが、良い人が必ずしも良い人ではないということだ。
なにが言いたいのかというと、良い人という概念があまりにも抽象的だからである。
自分自身が良い人になることで幸せになれるとは限らないし、良い人と一緒にいることで幸せになれるというのは幻想に近いところがあることを伝えたい。
誤解してもらいたくないのだが、だからといって悪人になれと言っているわけではない。
私が主張したいのは、良い人でいることに重きを置く必要はないということだ。
ここは、ハッタリと嘘の関係に似ている。
私がシリーズとして書いている内容でもあるのだが、いずれの概念も変わる可能性が高いというところが共通点だ。
わかりやすく言うのであれば、ハッタリをかますことができなければ仕事を取る確率も減るし、自分自身を成長させる機会も減る。
ハッタリをハッタリでなく事実にするのは自分だし、ハッタリを嘘にしてしまうのも自分だ。
物事が上手くいけばハッタリは過去に遡って事実になるし、上手くいかなければ過去に遡って嘘になるという関係にある。
そして、誠実さと不誠実さもハッタリと嘘の関係に似ていると主張している。
不誠実だと感じた時点で心証が悪いかもしれないが、実はその人のためを思っていたり、勘違いによる印象だったりする場合もある。
誠実さは誠実な人ほど伝わりにくい概念の1つだというわけだ。
それは自分自身でのみ判断する基準ではなく、周りの影響による場合も多々あるからである。
大切なことは、本当に誠実なのか不誠実なのかを自分自身でしっかりと判断することなのである。
ところが、悲しいかな、ほとんどの人は周りに影響されているのが実態だ。
純粋という概念の分析
ということで、純粋という概念と再び向き合ってみよう。
純粋さを貫きとおすのは、なかなか難しい。
何度も書いているとおりで、純粋さを全面に出すことは決して間違っているとも思えないし、それで貫けるならそうすべきだ。
けれども、純粋さが理解できるということは、純粋の真逆にある不純という概念を理解しているというのが私の見解だ。
逆説的な言い方になってしまうが、不純さを知っているから純粋さを演じることができるというとわかりやすいだろうか。
世の中の全ては表裏一体で成り立っていて、そのどちらかに立つことを強いられる。
そして、その場での正当化をするために行われるのがポジショントークだ。
とどのつまり、誠実と不誠実の関係と同様に、純粋と不純の関係も紙一重だということになるというわけだ。
まとめ
純粋な人だという理由だけで、その人を信用することは決して悪いことではない。
けれども、自分がその人を純粋だと感じた時点で、不純さを兼ね揃えている人だということを自覚すべきだということを主張している。
逆に言うと、不純さを知っていることで純粋さを演じることもできるというわけだ。
そして、そうやって生きることは決して悪いことではなく、様々な場面でむしろ武器になる場合もあるので面白いのである。
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