春蛙秋蝉(しゅんあしゅうぜん)
→ 春の蛙と夏の蝉はやかましく鳴くことから、喚き散らすだけの人間も同じようなものだということ。
間違った言動をしてしまうことは誰にでもあることだということは十分に理解している。
そんなときは言い訳をせずに、素直に謝罪すればいい。
心の底から丁寧に謝罪すれば、おおよその関係は回復するものなのだが、そのことを理解していないというか、そもそもの感覚がズレている人は致命的だ。
ちょうどいいテーマの四字熟語が回ってきたので、つい最近あった出来事を踏まえて、私の考え方を改めて主張しておこう。
ズレていることがわかっていない人の最大の特徴
結論から言うと、感覚でしかないというところなのだが、ズレているということがわかっていない人はとにかく信用を失う。
これを忖度しないことや自分の個性だと紐付けている人は論外の極みなのだが、最もわかりやすいズレている人の特徴はコミュニケーションが取れない人だ。
ここで勘違いしてほしくないのが、コミュニケーションを取るのが苦手だという自負がある人は、実はコミュニケーションが取れている人だ。
逆説的な言い方になってしまうが、コミュニケーションという概念が自分の中にあって、その概念に対する評価ができている人だからである。
人見知りだという感覚もこれに近いと思っていて、人見知りだと自分で理解している人は、案外コミュニケーション能力が高かったりする。
一方で、コミュニケーションが取れない人は、なにを指摘されているのかが理解できていない。
それなのに、死ぬ気でやりますとか申し訳ありませんでしたという形だけの謝罪をする傾向がある。
なぜ、そんなことが起きるのか。
それは、自分のことを分析できていない、つまり自分自身を俯瞰で見ることができていないからだと私は結論づけている。
ズレている人への対応
私の周りにも、しばしばズレている人が現れる。
これが仕事関係の人であれば勝手に距離を置けばいいだけなので、スルーしていけばいいのだが、そうでもない関係の中で現れると厄介だ。
その場合、私も何度かズレを指摘するようにしている。
ただ、仕事のミスに直結すると致命的なので、核をつく言い方をすることが多い。
それをキツい言い方をするとか、なにも言い返せなくなるとか、泣きそうになるとか、時間を置いてから言われることもあるのだが、そこにはもちろん意図がある。
それは、それくらいのことを言わなければ、わからないからだ。
だから、私は最低1回はしっかりと指摘させてもらう。
ここにも誤解を生みたくないポイントがあるので、あえて書かせてもらうが、当然その人のためを想っての指摘だ。
致命的になる前に、その芽を摘んでおくことも大切な仕事の一環だからだ。
けれども、仏の顔も三度までという言葉があるように、限度はある。
これ以上は無理だと感じたときには、申し訳ないが私の貴重な時間を割くことに蓋をする。
ズレている人が理解すべきこと
改めて、ズレている人の特徴を列挙してみる。
- ズレていることに気がついていない
- 質問に対する答えが返ってこない
- とりあえず謝る
- その場から逃れようとする
- ズレていることを指摘してもらえる人がいない
他にもいろいろとあるのだが、まとめると上述したとおり、コミュニケーションが上手く取れない人ということになる。
一見、コミュニケーションが取れているような人であっても実はそうでもないという人も多い。
人間関係が上手くいかないことが多い人、仕事やプライベートが上手くいっていないと感じている人はズレているかもしれないと立ち止まろう。
世間とのギャップというか、こんなはずじゃなかったとジタバタしている人は要注意だ。
まずは、自分がズレているかもしれないとしっかり向き合おう。
そして、ズレていると確信したとしても案ずることはない。
ズレていることがわかれば、ズラすことができるようになるからだ。
自分の分析ができていない人が失っているもの
かくいう私も、実はズレている側の典型だ。
ただ、ズレている側の人間であることに間違いないのだが、決定的な違いは、ズレていることをよく理解しているということだ。
自分の考え方や自分の起こす行動が、まともではないということは割と幼少期に気がついてしまった。
つまり、私はマイノリティだということだ。
私が楽しいと感じること、面白いと思うことはいつもどこかズレていた。
多数決で決めたことのほとんどは、反対側にいたように思う。
そんな私が幼少期から常々感じていたことは、それでもいいということだ。
それが自分自身なのだから受け入れないといけないし、それが個性だという主張も持っていた。
けれども、どこかで失っているものに気がついた。
振り返ると、私には信用がなかった。
信用は一夜にして築くことができるものではない。
楽しそうに笑っている人たちを羨ましそうに眺める植田少年の姿を思い浮かべてほしい。
それを突っぱねて生きる、そんな生き方でもいいけれども、私はその選択をしなかった。
大きなことをしたいという漠然とした想いがあったし、なによりも自分にない能力を持っている人がいるのに自分にはそれができない怒りがあったからだ。
信用という付加価値
あなたにしかない価値を育てるようにと、私はstak, Inc. のCEOとして説くことが多い。
その意図は、苦手なものや得意でないことに時間を割くことが無駄であることを知っているからである。
そんなことをするくらいなら、得意なことを伸ばした方が、その人が輝くことを知っているからである。
そもそも、苦手なものや得意でないことは続かない。
だったら、自分の得意なことを伸ばして価値を上げていけばいい。
そこには、信用という付加価値がついてくる。
付加価値の一般的な意味は、商品やサービスにおいて、顧客に提供される追加の利益や付加的な利点のことを指す。
つまり、商品やサービスが他の類似品と比較して優れている点や、顧客にとって特別な価値を提供する要素のことだ。
そして、付加価値は、顧客が商品やサービスを選ぶ際に考慮する要素であり、競争力を高めるために重要な要素となる。
例えば、品質の向上、機能の追加、デザインの美しさ、独自の技術や特許、便利なサービスやサポートなどだ。
そんな付加価値を提供することで、顧客は他の選択肢よりも自社の商品やサービスを選びやすくなる。
また、競争の激しい市場で差別化を図り、顧客を引き付けることができるため、企業にとっても重要な要素となる。
それから、付加価値は顧客のニーズや要求に合わせて変化することも当然ある。
顧客の期待や市場のトレンドを把握し、それに応じた付加価値を提供することが求められるというわけだ。
とどのつまり、付加価値は商品やサービスにのみ当てはまる概念ではなく、人にも当てはまるということをよく覚えておいた方がいい。
そして、その最たるものが信用による蓄積された付加価値で、そんな付加価値を持っている人はとにかく強い。
一度失った信用を取り戻す方法
上述したとおり、信用は一朝一夕で積み上がっていくものではない。
実直に日々過ごしていくしかないのだが、それでも信用を失ってしまう場面というのは出てくる。
それは人である以上、失敗をすることもあるし、上手くいかないことはあるから当然だ。
その都度、落ち込んでいても仕方がないので、切り替えていくしかないのだが、取り戻す方法は1つしかない。
それは、実直に日々過ごしていくことだ。
まとめ
ありきたりは書き方になるので、あまりしたくないのだが、最初からなにもかもできる人はこの世にいない。
1つずつ学びながら成長していくわけだが、当然ながら成長を拒んだ人に成長はない。
それを時代のせいにするのは滑稽で、いつの時代にも高みを目指している人がいる。
だからこそ、進歩や進化という結果が伴うわけであって、そういう結果を出せる人は全員ではない。
それが世の中の縮図だし、私が小粒ながらも日々吠えているのは、自分が結果を出せる側の人でありたいからだ。
そして、そういう人の周りにはそういう人が集まってくることを知っているからである。
2023年5月現在、ChatGPTの勢いが止まらない。
AIが大きく世の中の形を変えていこうとしている中、次にどうしていけばいいのかわからない、いやそんなことにすら気づいていない人が散見される。
私は確実にこの波に乗れると確信している。
その根拠がまさに信用の積み上げである。
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