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2023年5月2日 投稿:swing16o

変わらないことの美学の上位概念である変わること

守株待兎(しゅしゅたいと)
→ いたずらに旧習を守って状況変化に対応しないこと。

まず主張したいのだが、変わらないことに重きを置くことを否定するつもりは毛頭ない。

けれども、それは一定の条件のもとだと断定したい。

その条件とは、伝統文化だ。

ただ、正確にいうと、伝統文化ですら変わることを受け入れていく必要がある。

つまり、紡いでいくことを否定するのではなく、紡いでいくためには変化が必須になるということだ。

変わらないことの美学

信念を持つことは決して悪いことではない。

その人を人格を形成していく上で、信念は根本をつくるものなので、あった方がいいとは言わないけれども、芯となるところがなければ魅力は半減するだろう。

人を惹きつける能力を兼ね揃えている人は、少なからず信念を備えていると思う。

ただ、ここで重要なのは、信念を持つことと意地になることは全く異なるし、信念を曲げないことと頑固なのも全く違うものだ。

このあたりを勘違いしている人が多い。

変わらないことは美学ではない。

変えることができる人が変わらないことを選択できる。

そして、ただ信念を語るのはただの押しつけであって間違ったエゴだ。

くすぶっている人の多くは、現在地で自分が納得できない場所にいる人は、この変わらないことの美学を持っている人が多い。

気づかない人へ告ぐ

しばしば出会う人がいるのだが、私に対して興味を抱いてくれる人がいる。

それなりに評価をしてくれるし、なにかしらの仕事を一緒にしたいと思ってくれるのは大変ありがたいのだが、結構迷惑だったりする場面もある。

せっかくなので、それも書いておこう。

まず、何度も何度も同じことを書いているのだが、私にとっての最重要プライオリティは時間だ。

無駄に私の時間を奪う人をとにかく嫌う。

なぜなら、そういう人はあらゆるところに対して配慮が欠けているからだ。

自分の時間の価値と他人の時間の価値が同じかそれ以下だと思っている。

というよりも、そんな意識をすることもなく無意識に他人の時間を奪っている。

これが最も悪だと考えている。

つい最近もこんな出来事があった。

出会ってからそれなりに時間が経っている人と久しぶりに食事に行った場面だ。

本来であれば、私が接待を受ける側であってもおかしくないのだが、まあ私が接待する側としてセッティングした会食だ。

その人はアツく語る癖がある。

その癖自体は全く問題ないのだが、アツさを間違えていることに気がついていない。

まさに信念を押し付けてくるところは、単純に同じ時間を共有したくないと思ってしまう。

なぜ、そんなことが起きるのかを分析してみた。

結論から言うと、上述した変わらないことの美学を持っている人だからだ。

どれだけ信念を語ろうとも、現在地が全てだ。

過去の栄光にすがっている人ほど小さく見えることはない。

そこに気がつかないようであれば、人を巻き込んで大きなことを成し遂げることなどできるはずがない。

何度もくり返し主張しておくが、変わらないことの美学は美学ではない。

変わることで拓ける未来

この話も何度かしているのだが、自分自身の中でもう少し踏み込んだ話をしていこう。

というのも、やはり経験に勝るものはない。

私の出身は広島だ。

広島と聞いてどんなイメージを持つかは人それぞれだと思うが、一言でいうと田舎だ。

それは、1人介せば必ず誰かと繋がる程度の街だからだ。

私はそんな環境がイヤで仲間たちと共に東京を目指した。

単純に東京という大都会に憧れたし、東京に行けばキラキラした生活が待っているという期待値も大きかった。

そのためには大学へ進学をするという選択をしたわけだが、現役での達成はできなかった。

一年浪人した後、晴れて東京行きの切符を手に入れた。

憧れた東京は刺激的だったし、新しい環境で楽しい時間を過ごす日々は本当に楽しかった。

そして、最初の夏休みには広島に戻ると、地元の仲の良かった友人たちと会う。

当然、東京生活の話になるわけだが、そのときは楽しく過ごせた。

違和感を覚え始めたのは、同じように冬休みに広島に帰省したときのことだ。

会話は東京での話もあるのだが、結局、高校生のどうだったかとか、ついこの前の夏休みに会ったときの話になるのだ。

つまり、現在や未来に向けての話ではなく過去の話しかしていない状況に気がついた。

そうなると、一体なんの時間なんだろうと思い始めたのである。

もっというと、生産性のない時間に単純につまらないと思うようになった。

それからしばらくすると、広島に帰省する時間も少なくなり、仮に帰省していたとしても地元の仲の良かった友人たちに連絡をしないようになった。

この話をすると、友達思いじゃないと否定されることもあるのだが、本当にそうだろうか。

生産性のない時間を共に過ごして、世の中を否定していくことが明るい未来なのだろうか。

そういう人たちはそういう人たちで固まる。

私はそんな未来を選択することを拒んだ。

10年という月日が生んだ私

上京した後に私が周りの環境を変えたことは何度も話をしているが、実はここ最近でも大きく環境を変えたことがある。

それは、仕事仲間の徹底した見直しだ。

私は、stak, Inc. のCEOとしてスタートアップを牽引している立場だ。

起業当初は社名が違ったが、おかげさまで10期目を迎えることができている。

そこに満足などさらさらしていないが、起業当初からとにかく効率を求めることはやってきた。

それは今でも変わらないのだが、効率を求めるためには、気の合う仕事仲間を近くに置くことに重きを置いてきた。

ある程度の意思疎通ができる仕事仲間と一緒だと、楽だし必要最低限のやり取りで済む。

そこにある意味で悦に入っていたところがあったのは否定できない。

最低限の工数で、つまり少数精鋭でクリエイティブなことをやっているという自負があった。

けれども、それを変える変換点が突然やってきた。

正直、戸惑いがなかったといえば嘘になる。

このままで大丈夫かと思う不安がなかったとは言い切れない。

けれども、そんな状況を一新しようと決めた。

とある私のことをよく理解してくれている人の1人に言われたことがある。

それは、私はピンチだと思ったときほど攻めの姿勢をとるということだ。

正直、自分自身はそんな意識をしているわけではないのだが、結果としてそうなっているのだろう。

そう決めてから、あらゆる環境を変えて、体制も一新した。

不思議なことに、そうしてからのstak, Inc.は絶好調だ。

私がこうでなければいけないというか、正解だと思っていたことは不正解とは言わないけれども、変わらないことの美学と同じレイヤーにあったことに気づかされた。

私は2023年に42歳を迎える。

けれども、声を大にして言えることがある。

それは、私自身は成長をし続けているし、今の瞬間のくり返しが植田 振一郎の最高の状態をアップデートしている。

つまり、今が一番輝いている。

カッコ悪い生き方

話を戻すが、最近経験したところの本当に別離を考えた瞬間をもう一度、自分自身に言い聞かせる意味でも書いておこう。

カッコ悪い生き方をしている人が多い。

自分の信念を貫くことは否定しないが、その小さい信念の押しつけを誰にでもすることに酔っているだけでは、なにも変わらない。

口だけのカッコ悪い人生を送っている人がいるが、そういう人は往々にして変わらないことの美学を持っている。

そこを変えることで拓ける未来があることを知らない。

いや、知っていたとしてもその選択をしない。

それは美学でもなんでもなく、間違ったエゴで小さなプライドの塊だ。

口では人の幸せを説いていても、誰1人幸せにさせていない、そんなカッコ悪い生き方に気がついていない。

まとめ

何度もくり返しになるが、私の考える変わらないことの美学は、変わることができる人が持っている美学だ。

変わることを恐れていては未来は拓けることはない。

変わることが当たり前にあって、その環境に順応できる人こそが、未来をつくることができる。

別にそのレイヤーにいる必要はない。

ただ、考えて欲しい。

自分で選択できる人生と、誰かに決められた道を歩む人生とどちらを送りたいだろうか。

私は後者を選んでいる人と一緒に仕事をしたことがない。

それが全てだ。

 

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