舟中敵国(しゅうちゅうてきこく)
→ ふだん味方だと思っている者も敵になることがあるということ。
とどのつまり、裏切りということになるのだが、そもそも人とはそういうものだと常に思っておいた方がいい。
もちろん、性善説で成り立てばいいのだが、やはりそうはならない場面が多々あることを歴史が物語っている。
かくいう私も、どこか最期まで人を信用しきれない部分があるかもしれない。
一丁前にそんな経験も少なからずしていることは影響していると思うが、せっかくなので史実として残っている有名な裏切りについて紹介していこう。
世界中にある史実として残っている有名な裏切り
くり返しになるが、歴史上には様々な理由から裏切りが発生し、有名な裏切り事件が多数記録されている。
ジュダス・イシュカリオテスによる裏切り
ジュダス・イシュカリオテスによるイエスの裏切りについては、新約聖書の記述によって知られている。
聖書によれば、ジュダスはイエスの弟子の1人であり、十二使徒の中でも特に財務を担当していた。
ところが、彼はイエスが自分たちの期待するメシア(救世主)ではなく、自分たちの権力欲や思惑に合わないことに不満を抱いていたとされている。
その不満が頂点に達したのは、イエスが最後の晩餐でわたしを裏切る者がいると言ったときだった。
この発言が、ジュダスがイエスを裏切るきっかけとなった。
ジュダスは、祭司長たちと手を結び、裏切りの代償として、彼は祭司長たちから三十枚の銀貨を受け取った。
そして、イエスを逮捕するために、彼らにキスをすることでイエスを特定する約束をした。
そして、逮捕が行われる際に、ジュダスはイエスにキスをし、イエスが捕まるきっかけを作った。
イエスはその後、尋問や拷問を受けた末に十字架にかけられ、死に至った。
ジュダスは、裏切りの罪によって罰せられ、自殺したとされている。
このジュダスによる裏切りは、キリスト教において非常に重要な出来事とされている。
イエスが自らの命を犠牲にして人類の罪を赦すことになったという教義は、キリスト教にとって中心的な教義の1つとなっている。
ジュダスをユダという名前に置き換えると、ピンとくる人も多いだろう。
トロイアの裏切り
トロイアの裏切りについては、古代ギリシャの叙事詩のイリアスに詳しく描かれている。
物語によれば、トロイア戦争が勃発した原因の1つは、美女ヘレネがトロイア王プリアモスの息子パリスによって誘拐されたことがきっかけだった。
ギリシャは、ヘレネを取り戻すためにトロイアに攻め込むことになった。
トロイアは、数年にわたる戦いの末に壊滅的な敗北を喫し、アキレウスによってトロイアの英雄ヘクトルが倒された後、トロイアは陥落した。
ところが、トロイアの陥落は、裏切りによって引き起こされたとされている。
トロイアの城壁は、不可侵のものとされていた。
それにも関わらず、侵攻できたのは、トロイアの内部にいたスパイ、シノンがギリシャ軍に降伏を装い、城壁の開門を取り付けることに成功したからである。
ギリシャ軍は城壁を破ってトロイアに侵入し、血みどろの戦いが繰り広げられた。
このように、トロイアの裏切りは、トロイア戦争における決定的な転換点となったとされている。
また、この裏切りによって、トロイアが滅亡したとされている。
ブラックベアードの裏切り
ブラックベアードは、18世紀初頭のカリブ海で活躍した伝説的な海賊だ。
彼の裏切りについては、複数の説があるが、最も有名なものの1つは、1718年のノースカロライナ沖での事件だ。
当時、ブラックベアードは海賊船クイーン・アンズ・リベンジ号を指揮していた。
彼は海賊仲間とともに、商船を襲い、略奪を行っていた。
ところが、ある時、ブラックベアードは、ノースカロライナの植民地知事チャールズ・エドワード・ジョンソンと交渉し、海賊行為をやめることを条件に恩赦を与えるという提案を受けた。
ブラックベアードは、この提案を受け入れ、クイーン・アンズ・リベンジ号を降伏させた。
そして、知事との交渉によって恩赦を手に入れたかに見えた。
それにも関わらず、知事はブラックベアードを裏切り、彼の乗っていた船を攻撃した。
ブラックベアードは、交渉が上手くいっていると思い込んでいたため、反撃することができず、クイーン・アンズ・リベンジ号は破壊され、ブラックベアードは戦死した。
この事件により、ブラックベアードの裏切りと知事による裏切りが同時に起こったことが知られるようになった。
また、この事件は、海賊時代の終焉を象徴する出来事とされている。
アルドリッチ・エイムズによるCIAの裏切り
アルドリッチ・エイムズは、アメリカ中央情報局(CIA)のエージェントであり、1980年代初頭にソビエト連邦に情報を売り渡したことで知られている。
エイムズは、CIAで高い地位に就いており、秘密情報にアクセスすることができた。
彼はソビエト側にCIAのエージェントの名前や作戦計画などの機密情報を提供し、そのために数百万ドルの報酬を受け取っていた。
エイムズの裏切りが発覚するきっかけは、彼の妻であるロザリンド・エイムズが、彼が不正な収入を得ていることを税務署に告発したことだった。
調査が進む中で、エイムズの裏切りが明るみに出て、彼は1985年に逮捕されたのである。
エイムズの裏切りにより、CIAの多くのエージェントがソビエトに暴露され、その結果、多数のエージェントが殺害されたとされている。
また、エイムズの裏切りは、アメリカの国家安全保障にとって大きな打撃となり、CIAの情報収集能力が低下したとされている。
エイムズは、1986年に裁判で有罪判決を受け、終身刑を宣告された。
赤壁の戦いでの周瑜の裏切り
赤壁の戦いは、中国の三国時代の220年頃に起きた有名な戦いで、曹操率いる北方の勢力と、孫権と劉備ら南方の勢力が対峙した戦いだ。
周瑜は孫権の軍師として知られ、曹操の大軍に対する南方勢力の防衛を担当していた。
そんな周瑜は、赤壁の戦いで火攻め作戦を決行し、曹操の大軍を壊滅させた。
ところが、周瑜は火攻め作戦を行う前に、孫権から曹操に降伏することを打診されたことがあった。
周瑜はこの打診を断って南方勢力を守ったが、一部の史書では、周瑜がこの打診を受け入れるつもりであったとの記述がある。
周瑜が実際に降伏するつもりであったのか、あるいは打診を断って南方勢力を守ることを選んだのかは定かではない。
一方で、周瑜は赤壁の戦いで南方勢力を勝利に導き、その功績は高く評価されているという史実がある。
日本の歴史に残っている有名な裏切り
当然だが、日本の歴史にも有名な裏切りがある。
その一部を紹介していこう。
後醍醐天皇の裏切り
後醍醐天皇は、日本の中世時代に在位した天皇で、南北朝時代の始まりとなる建武の新政を開始したことで知られている。
ところが、その過程で後醍醐天皇は、数多くの裏切りを受けたり、自ら裏切ったりしていることがある。
建武の新政を開始する前、後醍醐天皇は鎌倉幕府に反旗を翻し、幕府に対する挙兵を試みた。
ただ、その挙兵は失敗し、後醍醐天皇は捕らえられ幽閉されることになる。
後に後醍醐天皇は脱出し、各地の武士たちと協力して幕府に反旗を翻す。
とはいえ、その中には後に裏切りを行う者も多く、後醍醐天皇は裏切りに悩まされることになる。
例えば、後醍醐天皇が拠点とした吉野山には多くの武士たちが集まったが、中には幕府側に内通する者もいたりするという始末だった。
また、後醍醐天皇が重用した楠木正成も、後に南朝から北朝への寝返りを行い、後醍醐天皇に致命傷を与えることになる。
後醍醐天皇は裏切りに悩まされながらも建武の新政を開始し、南北朝時代を切り開いた人物で、その過程で多くの裏切りに遭遇したことは事実だということを併せて覚えておくといいだろう。
織田信長の裏切り
織田信長は、戦国時代に活躍した大名の1人であり、天下統一を目指して戦ったことは書く必要がないくらい誰もが知っていることだろう。
そんな織田信長にまつわる裏切りを受けたとされる事件は多々ある。
中でも有名なものを列挙していこう。
- 浅井長政・朝倉義景による信長攻撃
1570年、織田信長は浅井長政との戦いに勝利して、近江国を支配下に収めた。
ところが、翌年には浅井・朝倉連合軍によって信長攻撃が行われ、信長は退却を余儀なくされる。
この事件は、信長にとっては大きな屈辱であり、浅井・朝倉連合軍によって裏切られた事件として史実に残っている。
- 明智光秀による本能寺の変
1582年、織田信長は京都の本能寺に滞在していたが、家臣の明智光秀によって襲撃を受け、自害することになる。
この事件は、明智光秀が織田家の家督を継ごうとして織田信長を裏切ったとされ、その後の天下分け目の戦いを引き起こすきっかけとなった。
- 柴田勝家による岐阜城の反乱
1582年に起きた反乱のことで、この反乱は、織田信長が本能寺の変で亡くなった直後に起こり、信長の死後に動揺が広がる中で、柴田勝家が独断で謀反を起こしたものとされている。
忠臣蔵
忠臣蔵とは、江戸時代初期の赤穂事件において、主君を討った赤穂浪士たちの義士騒動を描いた物語のことを指す。
物語の概要と歴史的背景については下記のとおりだ。
- 物語の概要
赤穂藩主の浅野長矩は、吉良義央に侮辱されたことから吉良討ちの計画を立て、47人の浪士たちに命じて吉良邸を襲撃する。
襲撃は成功し、吉良は討ち死にし、浪士たちは処罰を受けることになる。
赤穂藩は改易され、浪士たちはそれぞれ切腹して命を絶つのだが、その後に彼らの忠義が讃えられ、物語として忠臣蔵が生まれることになる。
- 歴史的背景
赤穂事件は、17世紀の日本において、武士道の精神や忠義を重んじる時代背景の下で起こった事件だといえる。
浅野長矩は、幕府によって改易されたものの、浪士たちはその忠義によって後世に讃えられ、現代でも多くの人々に愛されている。
また、物語の忠臣蔵は、その後も多くの人々によって愛され、芝居や映画、小説などにも多くの作品が生み出されている。
とはいえ、物語と史実の間には、多くの諸説があるのも事実だ。
例えば、赤穂藩主の浅野長矩が吉良義央に侮辱されたという話は、実際には誇張されたものである可能性が高いとされている。
それから、浪士たちの切腹は、武家社会における死の中で最も栄誉ある死であり、命を捨てて忠義を尽くすことが、武士の義務とされていたことも考慮する必要がある。
物語の中には裏切りも当然含まれているので、興味のある人は触れてみるといいだろう。
明治維新時の薩英戦争での西郷隆盛の裏切り
明治維新時代における薩英戦争での西郷隆盛の裏切りというのは、正確には存在していない。
薩英戦争は、1869年(明治2年)に薩摩藩とイギリスの間で起こった武力衝突であり、イギリス側の勝利に終わった。
西郷隆盛は、この戦争の前線において薩摩藩の指揮を執っていたが、戦闘の最中に負傷しているため、実質的な指揮権は阿部正弘に委ねられていた。
また、戦争開始前には西郷がイギリス側に対し和平交渉を試みたことがあったとされているが、これは裏切りというよりも、戦争を回避するための外交的な努力であったと解釈されている。
それから、薩英戦争は、薩摩藩とイギリスの間での小規模な衝突であり、西郷隆盛自身が裏切るような大きな政治的な権力闘争の中で行われたものではない。
そのため、西郷隆盛の薩英戦争における裏切りという説は、史実としては認められていないというのが正確な解釈だ。
まとめ
世界および日本でも有名な裏切りの史実に触れてみたが、お気づきの人もいるだろう。
それは、物語であったり史実とは歪曲して伝わっていることも多いということだ。
つまり、それだけ裏切りの真実と物語は紙一重だということで、背景には裏切りは日常茶飯事だということもいえるだろう。
だからといって、私は人を信用するなということを煽っているわけではない。
人は裏切る生き物だと思っていた方が、なにかあったときにリカバーしやすいということを伝えたい。
そして、仮に裏切られたとしてもその人を攻撃することは不毛な結果に終わることも多いので、そっちの方向にエネルギーを注ぐことはオススメしない。
一度しかない人生を裕福に送っていくためにも、裏切りという感情はスルーする方がいいだろう。
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