三枝之礼(さんしのれい)
→ 親に対し礼儀と孝行を重んじること。
2022年の年の瀬というよりももう少し前だったと思うが、母親からとある情報を聞いた。
私には1つ上に姉と4つ下に弟がいるのだが、弟に関することだった。
それは、弟の家庭で第3子を授ったとのことで、2023年の3月に産まれる予定だということだ。
これで私の両親からすると、8人目の孫ということになる。
ちなみに、興味がない人も多いとは思うが、私は未婚で1人の子どももいない。
となると、姉のところに5人の子どもがいるということになるのだが、すなわち、私にとっての8人目の甥っ子姪っ子になるということだ。
年末年始のイベントとして、子どもたちにとっては楽しみでしかない、お年玉をもらうというものがある。
私も配るわけだが、その先がどうなっているのかは不明だ。
自分の幼い頃を振り返ったときに、小学生くらいまでは親が管理していたようなしていなかったような曖昧な記憶だが、親が預かるというパターンは未だ顕在のようだ。
ということで、2023年も着々と過ぎ去っている中、改めて親という存在について考えてみることにした。
親になる覚悟ができなかった過去
恥ずかしい話なのだが、もはや10年くらい前の話なので話をしてもいいタイミングだろうということで、私の過去を1つ紹介させていただくとする。
冒頭に私は未婚で子どもがいないと書いたことは事実なのだが、結婚するチャンスはあった。
結果、完全に私の一方的なワガママで結婚することはなかったのだが、仮に結婚していたとしたら子どももいたと思う。
完全にタラレバだし、相手のこともあるので明確にする必要はないが、おそらく子どもは1人ではなく最低でも2人はいたと勝手に思っている。
けれども、私はそんな未来を自ら拒絶した。
その理由は当時は言語化できなかったが、10年という時を経て語るとするならば、単純に親になる覚悟ができなかったからだと思う。
単純に責任を取ることができないという自信のなさから逃げ出しただけだ。
お世話になった会社を辞めて、自分でやっていこうと決めたタイミングだったこともあり、いろいろと情緒不安定だった部分も大きかったと思うが、結局は自分の自信のなさが全てだ。
擁護するつもりは微塵もないのだが、それだけ私にとって結婚というものは重たいものだったということもあるだろう。
これも語弊を生む可能性があるのだが、あえて言わせてもらえば、世の中のほとんどの人はなにも考えずに簡単に結婚しているように感じている。
そして、なにも考えることなく子どもを産んでいる印象だ。
結婚が世の中でなによりも重たい契約だと思っている私からすると、この一連の流れは狂気の沙汰なのだが、私の考え方はマイノリティだという自負もある。
いずれにせよ、私は親になる覚悟ができなかった人間だという事実は曲げることはできない。
正解のない親の姿
30歳前後の私にとっての親のあるべき姿は、今よりも具体的だった。
親とはこうあるべきだという考え方が今よりも明確だった。
ところが、不思議なことに、歳を重ねていくとより具体的なるのかと思っていた親のあるべき姿は、どんどん抽象的になっていくのだ。
厳格な父親像、優しい母親像、人ぞれぞれ理想の親のあるべき姿はあると思うのだが、2023年に42歳を迎える未婚で子育ての経験がない私にとっては、本当にボンヤリしている。
というのも、親のあるべき姿に正解がないことに気がついたように思う。
もちろん、根本的な部分で間違った方向に行ってはいけないということは大前提としてあるのだが、基本的にこうすべきだという指針はないということだ。
ある程度の余裕のある家庭であっても、そこそこの家庭であっても、しっかりした子どもは育っているし、逆もまた然りだ。
子どもが産まれて育っていく環境が大切なことは理解しているし、できるだけ恵まれた環境を準備することに異論はない。
ただ、そこに親の影響がどれくらいあるのかは、未知数だとしかいえない。
となると、理想としていた親のあるべき姿はどんどん不明確になり、抽象的になり、ボンヤリとした正解のないものになるというわけだ。
親に抱いていた幻想と真実
過去に私が結婚をしていないことや子どもがいないことの理由の1つとして、自分自身の家庭のことを挙げた記憶がある。
どういうことかというと、お世辞にも私の育った家庭は夫婦円満で家族が和気藹々としてたとはいえない。
簡単にいうと、そんな家庭環境が私を結婚から遠ざけたといった主張なのだが、この考え方には少々変化があるのが現在だ。
というのも、この理論が当てはまるなら冒頭に書いたように、私には8人の甥っ子姪っ子がいるような環境にならなかったはずなのだ。
姉には5人の子ども、弟にも3人目の子どもが産まれようとしているのが現実で、3分の2が結婚して子どものいる家庭を築いていることを考えると、私の方がマイノリティだ。
さらに、親や育った環境のせいにして、結婚するチャンスを棒に振ったのは自分自身であることをどこか美化していた。
親は間違ったことしか基本的にはいわないということは未だに思っているし、これは紛れもない真実だ。
けれども、だからといって自分が親にならない、親になりたくない、親になれないと思うことは全く因果関係がない。
私が親にならない、親になりたくない、親になれていないのは、単純に私に覚悟がないからである。
親になったことのない私の考え方
8人目はどうやら甥っ子のようだ。
姉のところの子どもたちの相手をすることも特段億劫ではないし、そもそも子どもに対して苦手意識を持ったことはない。
単純にかわいいと思うし、なんか一緒に遊ぶことで、どんな反応をするのか純粋に楽しみたいと思ってしまう。
ただ、それはあくまで親という責任のない立場だからできることだということを私は理解している。
一緒にいる時間といっても、たかだか数時間で多くても数日というレベルで、それもずっと一緒というわけでもない。
デジタルネイティブ世代の彼らを相手にするのは、そんなに難しくないところもある。
スマホやタブレットでごまかしのきく時間を生み出すことができるからである。
そんな中で、子どものことを理解することなどできるはずがないことは重々承知している。
けれども、私には私の理想がある。
それは、親とは別のポジションの確立だ。
親にはいえないけれども、私にはいえるという絶妙なポジションの確立だ。
なんなら、親よりも先に私に相談してくるような関係でいられるのが私の今の理想だ。
ちょっと違うのだが、あしながおじさん的なポジションである。
しかも、それは別に甥っ子姪っ子のように血の繋がっている親族に限ったことではなくていいと思っている。
全くの他人がとなると、そもそも親が私に近づけることを拒絶するはずなので、それなりの関係値がある人の子どもであれば、私はウェルカムだ。
実際にそういった子どもたちがいるのも事実で、今から成長を楽しみにしている自分がいる。
まとめ
年を重ねていくとわかってくることやハッキリすることが多くなるとばかり思っていた。
けれども、上述したとおり、親のあるべき姿というのは常にフワフワさせてくれるもので、具体性を欠き、抽象的な方向へ拡大を続けている。
そんな中で、自分のポジションを見つけ出そうとしていたのか、自然とそうなったのかは不明だが、私に未来の楽しみを与えてくれる子どもたちが増えている。
なんの損得勘定もなく、無邪気に私に近づいてきてくれる姿は本当にかわいさしかなく、そんな環境にいれることは幸せなことなのだろうと改めて感じている。
2023年に私はまた1つ年を重ねるわけだが、それと同時に子どもたちも年を重ねていくわけだ。
お互いが年を重ねることを成長と呼びたい。
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