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2023年1月3日 投稿:swing16o

文章や文字が読める人と読めない人

三豕渉河(さんししょうか)
→ 文字を誤って読んだり書いたりすること。

年始になると未だに数枚の年賀状が届く。

個人的には完全にテロだとしか思っていないのだが、このご時世、誰が年賀状などもらって嬉しいのだろうか。

ただただ文字が羅列してある紙切れをもらってもなんの価値もないのである。

ここに文字を読む文化の劣化が繋がっているのだと考えている。

読書という文化

私が小学生や中学生の頃には、学校で毎朝読書をするという、10分間読書的なものがあったように記憶している。

また、読書感想文といった習わしが定期的にあったように思うが、今の時代はどうなのだろうか。

まず、この読書という文化の刷り込みが大人になって役に立ったかというと、全く役に立っていない。

ただただ、先生がいうからそれに従っていた生徒という弱者のポジションでいたという構図だけのように思う。

もっというと、先生ですら、なぜ読書をさせることに意味があるのかを理解していなかったのではないだろうか。

というのも、何事もそうだが、人に言われてから行動を起こしているようなものはインプットなどされないのである。

あくまで、自分自身が興味を持って調べてみたいと思ったときや、憧れの人が見つかったときにその人について寄り添いたいと自発的な行動がインプットに繋がるのである。

かくいう私も、10分間読書のときはひたすらに文字を目で追っていただけで、本の内容が入っていたかと問われるとほとんど記憶にない。

ということは、全く役に立っていないということだ。

一方で、衝撃を受けた書物はある。

過去に書いたことがあるが、手塚治虫という1人の人物が描いた作品だ。

手塚治虫という天才漫画家が与えた影響

そのアツい想いは上記のブログに書いているので、是非読んでもらいたいが、彼の作品は幼い頃の私にとって衝撃の連続だった。

正直、読んでいた当時は理解できなかった作品も多々あったが、大人になって読み返したときに感動は今でも感覚として残っている。

彼の作品のほとんどは漫画なので、それを読書と呼ぶとまた反論する人が出てくるかもしれないが、なぜ漫画を毛嫌いする一定数の人がいるのだろうか。

内容が入ってきて、教養にも繋がるのであれば文字のみでなくて、そこに挿絵があることで理解すやすくなるのであれば、抵抗する意味がわからない。

私が小学校で、手塚治虫の本を持ち込んでいいかと先生に問うたとき、漫画だからダメだと言われたことは記憶に新しい。

そのくせ、文章を読むことの大切さを問おうとしている矛盾にサッサと気づいて改善を図るべきなのだ。

なぜ文章が読めなくなっていくのか

文章が読めないことは今の時代にはあまり影響がないかもしれない。

というのも、上述した漫画や動画などのコンテンツが現代には溢れているので、わざわざ分厚い本を手にとって読む必要がないからである。

本を買うという行為は、どこか知的に見せようとしている人間として浅はかな部分が見え隠れしているようにすら思う。

なにが言いたいのかというと、本を自分の家やオフィスの本棚に並べることで満足している部分が少なからずあるということだ。

もはや、この例えも刺さらないかもしれないが、その昔、ジャケ買いという感覚でCDを買っていた感覚にも似ている。

つまり、まずは世の中にありふれすぎるほどのコンテンツがあることが文章が読めなくなっている要因の1つだ。

それよりも、大きく影響していることは、文章に対する価値がなくなっているように思うのである。

冒頭に述べた、年賀状のように定型文が送られてくるような文化が文章や文字の価値を下げているという主張だ。

明けましておめでとうとか本年もよろしく的な定型文が載せられていて、その人の家庭の写真が載っているような年賀状もある。

ハッキリいってただの押し付けだし、誰もあなたのことなど興味はない。

なんなら、年賀状が送られてきたことで返さないといけないという衝動に駆られる人もいるはずだ。

わざわざ郵便局やコンビニで年賀状を買って返送するという、相手に迷惑をかけているところがあるかもしれないという気遣いすらできないのである。

ただただ、惰性でもらうような文章や文字になんの価値があるのだろうか。

人は価値がないものを重宝することはない。

だからこそ、年賀状という文化は廃れ、私も生涯年賀状など書くことはないだろうと思っているわけだ。

文章は文字に価値を出すためにすべきこと

とはいえ、文章や文字がなくなることはないし、文章や文字に価値をもたせることはできる。

なぜなら、文章や文字をきちんと読める人が少ないということは、読める人は価値があるということになるし、文章や文字を書ける人はもっと価値があるということになるからだ。

となると、どうやって価値を与えていくのかということになるのだが、答えは簡単だ。

結論、文章や文字に希少性を持たせるということをすればいい。

わざわざ、読む価値のある文章や文字にするということだ。

例えば、私が毎日こうして書いているブログも、間もなくまる2年を迎えようとしているが、意識していることがある。

それは、1分で読めるなどと謳っているが、実際に今日のブログも読もうと思えば1分ではとてもじゃないが読めないだろう。

人によっては、5分程度かかることもあるだろうし、データを引用したようなブログだともっと時間を要することもあるだろう。

ただ、せっかく見に来てもらうのであれば、そんな貴重な時間を割いてでも見てもらえて価値があったと判断してくれる人が1人でも多くいてもらいたいという気持ちが入っている。

ここでしか書けないことはもちろんだし、役に立ったと思ってもらえる人が1人でも多くいれば、それに越したことはないのである。

ましてや、自分自身のインプットとアウトプットもできる場面になっているし、ブログを否定する人が圧倒的に増えた時代に、あえてテキストを出すことも悪くない。

けれども、それだけではダメだということも忘れてはいけない。

ずっと書いてきているように、文章や文字をしっかりと読解できる人は圧倒的に減っている。

私が書いた文章もなぜそんな受け取り方になるんだろうという解釈をする人は一定数現れてくるのが常だ。

そういった人たちを、かつての私は一蹴して終わっていたが、最近は考え方を変えている。

そういう人たちには、別のコンテンツを準備するということを徹底するようにした。

というのも、私が平安時代や鎌倉時代の書物が読めないのと同様で、それを漫画やアニメに優秀なクリエーターが変換してくれたときに快楽に繋がるところがある。

それと同じことを自分やstak, Inc. でもやっていくこと、やり続けることが重要だという方向に振り切ったというわけだ。

なにかを始めるときには、なにかしらのきっかけが必要だ。

そのきっかけをつくれることが、クリエイティブな仕事をする人たちのモチベーションに繋がると思っている。

まとめ

ということで、2023年に入っても引き続きこうしてブログを書くことの理由の1つを書いてきたわけだが、理解してもらえると嬉しい限りだ。

価値とは人によって大きく異なるもので、好き嫌いや人間関係といった変数が大きく左右するところではあるが、それでも続けることで響く世界がある。

その変化を若い世代に伝えていくことも私の大きな仕事でもあるような気がしている。

というのも、stak, Inc. はどんどん若返りを図っていて、昨年と全くメンバーが変わっているのも大きな特徴の1つだ。

私が年長者の位置づけであることは、2023年も引き続き変わらずといったところだが、そこから見える景色が変わっている。

1つ1つの発言する内容や文章や文字に残しているものが、少しでもクリエイティブに繋がることになれば、最強のクリエイティブ集団が生まれることを確信している。

文章や文字が読めなくても問題ない。

けれども、どうせなら誰しもが読めない文章や文字を読める側の人になれば、あなたの世界は拡がっていくことは保証する。

それが、若い世代の人たちが、どうやっても追いつくことができない物理的な時間の価値だからである。

 

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植田 振一郎 Twitter

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