再現性がないから可能性があるという思考

2022-11-22 投稿: 植田 振一郎

才子多病(さいしたびょう)
→ 才能ある人物は病気がちであるというもの。

能力に恵まれた才知な人ほど、身体が弱く病気がちというのは、エビデンスがあるものなのだろうか。

現代を生きている私にとっては全く理解ができないし、調べるほどのことでもないと思っている。

ただ、確かに昭和時代のドラマや漫画は、頭が良い人ほど病気がちという設定がある種スタンダードだったように思う。

その根本にあるのが、天は二物を与えずという部分なのだと思うが、この発想も否定せざるを得ない。

というのも、どうしても弱い部分を抱えることで人からの共感を得やすくするというブランディングだとしか思えないからだ。

弱い部分を見せることの重要性

ブランディングだとしか思えないという理由について説明していこう。

それは、才能あるとされる本人が病気がちだという主張をしている場合は、まずないということに起因している。

才能ありという評価は少なからず第三者がしているもので、自ら才能があるなどという人が後世に語り継がれていくだろうか。

となると、その評価が拡がっていかなければいけないので、あの手この手を使って拡散しようとする。

例えば、本を出す場合にも、ありのままの普通なところを出していては誰の興味を惹くこともできないので、どこかに山場をつくらないといけないというわけだ。

となると、人の感情に訴えるのが手っ取りばやく、その場合にはネガティブな部分、つまり弱い部分を見せた方が共感を得やすいということである。

それが、病気がちとか、貧しかったといった条件を織り交ぜることで、親近感を持たせるという王道なブランディングだという指摘をしている。

もちろん、実際に病気がちだったとか、貧しかったということもあるかもしれないが、そもそも時代背景からすると、それが当たり前だったりすることも多かったりする。

それを鵜呑みにするようなことをしていては、ブランディングやマーケティングを仕掛けた側の意図がそのまま反映されているということだ。

ストーリーには抑揚が必要で、昔話や逸話にも同様の手法が使われていることも多くある場面が見受けられる。

ただ、決してその傾向が悪いとは言っておらず、鵜呑みにして共感するのみでは、仕手側にコントロールされてしまうのみというのも考えものだと伝えている。

自己啓発に関する欠点

自分が将来どういうことをしたいか、夢や希望を持つことはとても重要なことだ。

それを達成するために、目標や目的を設定して、そこに向けて全力で駆け抜ける人が私は好きだし、心から応援したいと思う。

最初はなにから始めればいいのかよくわからないとか往々にしてあることだし、それでもがむしゃらに前に進もうとする人には情熱を感じる。

熱量のない人はつまらないし、人を巻き込むことができないことは、自分自身の経験からもよくわかっている。

そんなときに自己啓発ということが重要になってくるわけだが、本を読むという行動を起こす人も多いはずだ。

かくいう私も、20代前半のころは気になった人や経済界での有名人と呼ばれる人たちの本をたくさん読んでいた時代がある。

本当に多くの本を読んだという自負があり、1週間に2〜3冊読んでいた時期もある。

そんな自己啓発本だったが、あるときから全く読まなくなった。

それは、多くの本を読んでもそれが自分のためになっているかと問われたら、全くそうではないということがわかったからである。

確かに、本を読み終わった瞬間は、モチベーションが高くなり、自分もやってやろうという気持ちになる。

そして、たくさんのことを学んだ気がして、自分自身が成長したような気持ちになる。

この感情が全く役に立たないかと問われたら、そんなことはないかもしれない。

少なからず参考になる部分はあるかもしれない。

けれども、どんな自己啓発本を読んだとしても、再現性がないことを頭の中に入れておくべきなのである。

時代背景の影響はあるし、その人がどういう状況でどういう風に動いたのか、その瞬間の判断が大きく影響しているので、同じことをやろうとしてもできないというのが結論だ。

それから、自己啓発本を多く読んだことがある人なら理解してもらえると思うが、本には一定のパターンがある。

最終的に言いたいことも、ほぼほぼ同じようなことで、つまり努力して頑張れといったようなものが大半だ。

もっというと、数日経ってしまえばその中身のことなどすっかり忘れてしまっている。

となると、自己啓発本を読むことは時間の無駄であることに、結構な数の本を読んだときに悟ったのである。

間違った勉強法は時間の無駄

自己啓発に関わることで、いわゆる自己啓発本を読むということに関しては上述のとおり否定した。

けれども、それを悲観することはなく再現性がないからこそ可能性があるということは覚えておいた方がいい。

わかりにくい言い方かもしれないが、要するに再現性がないということは別の可能性があるということで、パターンなどないということだ。

自分自身が自己啓発本の主人公になればいいだけの話で、本を読むことに時間を費やすことなど間違いだらけだということだ。

ここも誤解がないように、くり返し主張しておくが、自分の価値を上げていくために専門的な本を読むことは有意義だといえるが、自己啓発本を読むことに対する否定だ。

自己啓発本を出すこと自体が名刺代わりになっているだけの場合も多く、そんな本にビジネスの答えなど載っていない。

そんなことよりも、自分のやりたいことを実現するために動く方が重要なのである。

仮に才能ある人物が病気がちだということが事実だったとしたら、それがなにになるのだろうか。

自分の人生は自分のもので、他の人に左右されないくらい自我があってもいいはずだ。

勉強をしたいと想うこと、実際に勉強をすることは素晴らしいことなのだが、その手法を間違えると、ただただ時間を浪費するだけになることは覚えておいてもらいたい。

弱点やネガティブな表現から学ぶこと

せっかくなのでもう少し掘り下げて書いておくと、上述した中にも少々述べたが、弱点やネガティブな表現から学べることもある。

それが、ブランディングやマーケティングのところだ。

どう表現をしていけば、多くの人から共感を得ることができるのかという点については、ずっと思っているところがある。

それは、やはり弱点というか弱い部分をさらけ出すことがいいというものだ。

強者に対しては人は嫉妬心に近い感情が働く場合が多いが、自分よりも弱者だと思えば人は救おうとするというのが道理だ。

強い弱いをどうやって表現するのかは、その人や企業のセンスによるところで、病気がちとか貧しいとか直接的な言葉を使う必要は全くないということだ。

新しくなにかを始めるときに味方をつけようと思えば、協力者を募らなければいけないわけで、どういう表現を使って注目させるのかのワードセンスが重要だということを主張している。

そこには人の感情を揺さぶるものが必要になり、それがキャッチコピーとかタイトルになるというわけだ。

商品やサービスのクオリティが高くなる一方の現代では、ブランディングやマーケティングが非常に重要になるということである。

人を惹きつけるときには、強い言葉を使うよりも感情を揺さぶるような、どちらかというと語りかけるような言葉のチョイスを心がけるといいい。

となると、才能ある人物は病気がちであるという表現からも学べることはあるということだ。

まとめ

エビデンスのない表現については、鵜呑みにする必要はないのだが、なぜそういった表現が生まれたのかを考えてみることには少なからず意義があると思う。

そういった表現が語り継がれているのであればなおさらだ。

そして、そこからさらに拡がりをもっていくことを意識すれば、新たな仕掛けができるように思うのである。

なにも考えていない人は仕掛けた人の思いどおりに動いてしまうし、少しでも違和感を覚えた人は逆の立場に回ることができる。

あなたはどちらの立場にいたいか、ただそれだけの話なのである。

 

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