中学生のときに陸上部で覚えた違和感

2022-11-13 投稿: 植田 振一郎

困知勉行(こんちべんこう)
→ 才能に恵まれない者が苦労して学び、ひたすら努力を重ね励むこと。

凡人。

私もその1人だ。

私がIoTとかAIといったテクノロジーの分野に興味がいってしまうのは、そういったコンプレックスが大きいと思っている。

テクノロジーの分野でよくわかっていないことも多々あるにも関わらず、だからこそ未知の部分にどこか憧れというか、単純にカッコいいと思ってしまう自分がいることは否定できない。

だから、stak, Inc. という会社を少しでも大きくしていきたいと、日々もがいているのだと思う。

努力では届かない現実

私が中学生のときに選んだのは陸上部だった。

選んだ理由も特にないが、まあそれなりに足が速かったということくらいだろうか。

といっても、中学2年生になって最初の大会までしか出ることはなかった。

もちろん、そこには理由がある。

結果、最後の試合となったわけだが、私は短距離走の選手として陸上部に所属していた。

100m、200m、リレー、幅跳びといったあたりが出場していた種目なのだが、陸上はやはり100mが花形だ。

正確な数字は覚えていないのだが、確か12秒73とかそのくらいの記録が最後の試合での結果だったと記憶している。

この記録がどうなのかというと、あと0.2秒くらい速く走ることができれば、県大会といった1つ上の大会に出られるくらいだったはずだ。

私が中学生時代の記録なので現在の記録とどれくらい乖離があるのかは不明だが、それなりに速かった方だと思う。

というのも、そんなに本気で練習をしているわけでもなく、モチベーションも低いながらによくやっていたと自分で感じているからだ。

本気でやればもっと記録は伸びただろうし、そこそこの大会にも出られたかもしれない。

成人してからの0.2秒は壊滅的に差があるが、中学生時代の0.2秒はいくらでも縮められる。

けれども、私はその選択肢をとらなかった。

それは、努力では届かない現実を目の当たりにしたからだ。

陸上部で覚えた違和感

足が速いというのは、間違いなく1つの特技になるだろう。

その特技を活かして夢を見て目標を描くことは1つの選択肢であって、その選択をした人を否定するつもりはさらさらない。

ただ、上述した0.2秒の0.2秒は他の人が考えるものよりも、私にはずっと重たく感じたという事実がある。

現在では日本人の陸上選手で100mで10秒を切るような記録が出始めている。

私が中学生だった当時は10秒を日本人が切ることはなかなか難しいとされていた時代だ。

そして、未だ破られる気配のない、ウサイン・ボルトが2009年に記録した9.58秒という世界記録が誕生するずっと前の話だ。

けれども、日本人選手てあっても10秒を切りそうな選手はいたし、世界には10秒を切る選手がたくさんいた。

私の記録は、100mを12.7秒とかで走るスピードだ。

中学2年生とはいえ、年齢は13〜14歳を迎えるので、そこから10年くらいの間に最低でも、2.7秒という時間を縮められなければ陸上選手としての価値がない。

これがいかに壊滅的に達成できないものなのか、100mを全力で走ったことがあって自分の記録を知っている人はよくわかるだろう。

私には、そんな陸上の世界で戦う意義が全く見い出すことができず、早々にドロップアウトしたというわけだ。

自分が一番になれないと思っている場所で戦うことは私には到底できないし、なによりもモチベーションが湧かない。

言い方は悪いかもしれないが、そんな絶対的に不利な状況で自分の人生を賭けられる人の理解ができないわけだ。

無意味な努力がある現実

努力は実を結ぶといったニュアンスの言葉は非常に美化されている。

確かに、一部の努力はいい結果を生み出すこともあるかもしれないが、美談に踊らされてはいけないということを私は伝えたい。

もちろん、人それぞれなので私の考え方を否定する人もいるだろうが、それはそれで構わない。

私の意見をしっかりと書かせてもらおうと思う。

そもそも、なぜ努力をするのか。

それは自分の成し遂げたい目標や理想があって、それを手に入れるためだ。

このことについては異論はないはずだが、問題はその時間軸だと思っている。

死後に成し遂げたい目標や理想を達成したり、死ぬ直前に成し遂げたい目標や理想が達成できたとしたら、それは本当に努力が実を結んだといえるのだろうか。

私がその立場だとしたら、到底納得のいくものではない。

後世に美談として語り継がれることが、なんになるのだろうか。

私は自分の生きているうちに目標や理想を達成したい。

となると、自分が勝てる場所で戦う必要があるし、無駄な戦いは極力避けていかなければいけない。

なぜなら、時間は有限だからだ。

この理解がない人は、努力は実を結ぶと恥ずかしげもなく、大声で主張してしまうタイプの人だと考えているというわけだ。

私からすると、死後や死ぬ直前に努力が実を結んだとなったとしても、それは大失敗なのである。

努力をしないことは論外

かといって、努力が意味のないという主張をしているわけではない。

ここもよく勘違いする人がいるのだが、なにかを成し遂げたいのであれば、努力することなど当たり前のことだ。

そんな覚悟もないくせに、なにかを成し遂げようとすることなどできるはずがない。

そして、これもよく主張していることだが、なにかを成し遂げたいと全力で動き回っている人は、努力を努力だと感じていない場合が多い。

その人にとっては日常のことなので、当たり前なのだ。

つまり、生活に溶け込んでいて一部になっているわけで、そんな状況を楽しんでいる。

もちろん、面倒なことややりたくないこともたくさん出てくる。

当然だが、なにもしなければなにも起こらないわけで、なにかをやるから成功もあれば失敗もあるわけだ。

となると、トラブルなどつきものだということも理解できるだろう。

まとめると、他人からすると努力だと映ることがあっても、本人からすると努力ではないという場合が多いうということだ。

それから、そういう状況に慣れている人は本当に強いということも併せて理解しておくといいだろう。

机の上には結局なにもないという基本

まがいなりにも、私、植田 振一郎はstak, Inc. という広島を拠点としているスタートアップのCEOをやっている。

2022年11月時点の社員数は10名程度だが、業務委託でわりとフルコミットしてもらっているメンバーも入れると、25名くらいの規模感だろうか。

まあ、大きく見せても意味のない話なのだが、それくらいの規模で目立とうと必死になっていると、少しずつだが一緒に働きたいという人が増えているのも事実だ。

とてもありがたいことなのだが、最近はかなり厳選させてもらうようにしている。

というのも、一時期はとにかく人を増やすという流れにしていたのだが、基礎中の基礎ができていない段階で人員だけ増やすことにリスクが高いという判断をしたからである。

当然といえば当然なのだが、ただただやる気があります系の人は結局、ミスマッチが起きている傾向が強くなるという実感がある。

以前は、スタッフの年齢の中央値が34〜35歳くらいまで高齢化が進んでいたのが、現在はおそらく25〜26歳くらいまで下がったと思う。

これはまさに狙いどおりだったのだが、若返りを図った結果、経験が追いついていない状況が増えてきていると感じている。

そこで、大きく舵を切ることにしたのだが、頭でっかちが多い印象だ。

私は常々、とにかく動きながら考えろということを口にする。

今の時代は、誰もが簡単に情報にアクセスできる時代だ。

私がザックリの指示を出すと、メンバーたちは机の上でシコシコと調べものをする。

それは全然いいのだが、そこから実行に移すのがとにかく遅い。

キレイにやりすぎようとしているのか、保険をかけようとする傾向が強いので、考えた結果のとおりには絶対にいかないから、とにかく動くように、何度も何度もいうのだ。

くり返すが、机の上には結局なにもなく、動いた先にしか結果はないのである。

まとめ

あなたは努力していますかという問いに対して、はいと答えた人は、もしかすると薄っぺらい努力をしているのかもしれない。

一方で、別にしていないと答える人がいたとしても、もしかするとその人は努力を努力だと感じていない人、つまり情熱的に動き回っている人かもしれない。

努力というものは、そういうものだと理解してくれる人と私は一緒に仕事をしたい。

 

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